清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

「ライオン」

渋谷で、ライオンを見た。

土曜日の夕方になって、慌てて飛び込んだ映画館でのことである。

本当は、平日、つまりウィークデーの仕事の後に立ち寄りついでに見ようと思っていたのだけれど、何かと次々に用事が入って、目指す劇場に向かうことができずにいた。その分、「何としても、これを見なくちゃ」という気持ちが昂り、必死になって駆けつけたのでる。

映画「ライオン」は、インドの片田舎から1600kmも離れた大都会に迷い込んだ一人の少年の物語である。そんなちょっとした運命の悪戯が、貧しい家族の人生を大きく覆していくとともに、やがて孤児として少年を我が子に迎い入れたオートラリア人夫婦の人生をも深い悲しみや辛い思いへと巻き込んでいく。

‥‥‥‥‥

その運命の歯車をほんの少し狂わせていく瞬間がある。

あまり丈夫そうにも見えない、まだ若い美貌を持ち合わせた母親がしている仕事は、何に使うためなのか、岩場に残された石の小さな塊を拾い集めるというものだった。5歳になった少年サルーも、その母の周りを自由に動き回りながら石を運んでくる。

「もっと小さなものでいいんだよ」

お母さんの少年にかける声は温かく、優しい。

でも、サルーは大好きな母親に自分を大きく見せたいと願っているためなのか、たどたどしい体つきにもかかわらず、できだけ大きな石を拾ってみせる。それは、少年の母の愛情に対する精一杯の応答なのだった。

ところが、この「僕だって力はあるんだよ」って見せたがるサルーの見得が、一つの怪しげな運命を呼び寄せることになるのだ。

もう一人前の少年になっていた兄が離れた町の駅に仕事を探しに出かけると告げた時、まだ幼い妹の面倒を見るよう伝えたというのに、サルーは言う事をきかない。自分も一緒に仕事に行きたいと言うのだ。小さすぎて足手まといにしかならないと思う兄は、相手にせずに済ませようとするが、ここでサルーは一つの行動に出る。重いものを続けて持ち上げ、自分にも力はあるんだと、必死になって兄に迫るのである。

結局、二人は一緒になって列車に乗り、別の鉄道駅へと向かうことになった。小さな少年のサルーは列車に揺られている間にいつの間にか眠り込んでしまう。目的の駅に到着しても目を覚まそうとしない。やっとのことで彼を起こしてホームまで連れ出したものの、一度襲った「眠気」の妖精はサルーをつかまえたまま放そうとしない。仕方なく兄は弟をホームのベンチに残して、去って行く。

「ここを動くんじゃないよ。ここで待ってるんだよ!」

って言い残して。

誰もいなくなった、空っぽの寂しいホームから駆け下りて、兄は幾分静けさの漂う線路の向うへと消えて行った。

まもなく目を覚ましたサルーは、その兄が戻ってこないのにえも言われぬ不安を覚えて兄の名前を呼び続けるが、それに答える声は聞こえてこない。ホームを走り回って立ちすくむと、暗闇に中に、大きな給水塔が黒い影を描いて佇んでいるだけだった。

運命の女神がこの仲の良い兄弟に二度と再会することのない人生を歩ませることになる瞬間だった。

主人公のサルー少年はこのあと、たまたまホームから隠れるようにして乗り込んだ長距離回送列車で、1600kmも離れた東部の大都市へ迷い込んでしまった。そこから先は、まるで、あの「スラムドック$ミリオネア」の逃げ惑う少年たちのシーンを再現したかのようだった。追いかける不気味な大人たちと恐怖に怯える貧しい少年たちという構図が、ぼくの記憶を呼び起こしたのだ。そして同じように、それを観ているだけのはずのぼくも恐ろしさに胸を引き締められる思いに襲われて行った。

それでも、この作品の大きな流れは、ぼくに別のシーンを思いだせるに十分だった。君も観たことがあるだろうか? ぼくが想像したのは、ブラジルで制作されたあの「セントラルステーション」という映画のことだ。

この作品は、ほんのちょっとしたことがきっかけとなって、見棄てられたかのような一人の少年と元学校の先生だったという中年女との絶妙な出逢いを画き尽くした静かな映画だった。ぼくがそれを思い出したのは、こういうことがあったからだ。

リオデジャネイロの中央駅で代書業を営んでいるドーラは、ひょんなことから、遠く離れた夫への代書を頼んできた女性が直後に交通事故で死んだため、孤児同然となった少年ジョズエを近くの「養子縁組斡旋所」に連れていく。ところが、それは表の話で実は幼い子供を売買する臓器密売組織であることを知らされる。もう報酬はもらっていて、すでに狭いアパートにテレビも買いそろえた後だったが、ドーラは自分の仕出かしたことを後悔し、夢中になって少年をその「斡旋所」から連れ出し、闇の世界から必死の思いで逃亡する。

それがきっかけで、血のつながらぬ中年女と少年が長い長いバス旅を続けて、少年の父親たちが住む遠い田舎町まで向かうドラマとなったのである。 不安とほんの少しの貧しさと二人のちょとした諍いがシーンを彩ってゆく、そんな場面が続くロードムービーだ。

しかし、やっと二人が分かち合えるほどに親密な絆で結ばれ出したというのに、少年はやがて、いまや父も亡くなった故郷で兄たちと出会うことになる。それだけであれば、文句なしのハッピーエンドだ。だが、それは、まるで母子のようになったはずの二人が再び別れ別れになる時を告げるものでもあった。

そして、二つの孤独が再びそのまま大きくなっていった。

距離的に遠く離れた世界を繋ぐ点でも、少年が闇に飲み込まれそうになる場面があるという点でも、「ライオン」と共通するものがあるが、ぼくにはその静かな余韻とかすかな悲哀という点では、「セントラルステーション」の方がより強い印象で刻まれている。

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それにしても、「ライオン」の小さな少年役をやった男の子の何とも円らな大きな瞳と、ニコール・キッドマンの物静かでありながら迫真力あふれる演技にはまいったね。それだけでも、この作品を観た報酬は十分だったよ。

                            (文:志根摩奸太郎)