松本清聴の映画講座3 「ドライビング・ミス・デイジー」
映画の記憶とは不思議なものだ。
ニーノ・ロータのあの独特のトランペット音楽が流れると、条件反射のように僕は、モノクロ映画『道』のジュリエッタ・マシーナの寂しげな顔を思い浮かべてしまい、突如、時間が止まる。それは、例えば、東京・中央線の四ツ谷駅のホームで電車を待っているときであったり、新宿のネオン街で、少し冷たい雨が降り注いでいる中を一人で帰り道を急いでいるときだったりする。そんなとき、僕の両耳に「トゥーラ トゥラーラー、トゥーラ、トゥラーラー、トゥラーラララーラ」という音が鳴り響き、思わず涙があふれ出そうな気分に襲われるのだ。
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どういうわけか、『ドライビング・ミス・デイジー』の場合、それは音楽ではなく、主人公のミス・デイジーの静かな声となって鳴り響いてくる。
あたりが真っ暗な世界。
その暗闇にぽつんと置かれた大きな車の後部座席で、一人ぽっちになったデイジーが細い声を上げるんだ。黒人の運転手を呼び戻そうとして。
「ホーク、ホーク、ホーク!」
返事はない。何も見えず、ホークの姿も現れない。一人の老いた女が真剣な声を発するも、それは闇のかなたに吸い込まれて弱弱しく消えていくだけである。
いまでも、『ミス・デイジー』のことを思い出すと、反射的に僕の耳に、そのジェシカ・タンディ(ミス・デイジーを演じている)が叫ぶ声が突然迫ってくる。そして僕の気分は少し沈み込み、あの映画のさまざまなシーンが走馬燈のようにくるくると回り出す。
これは本当に困ったものだ。
それと言うのも、僕には奇妙な癖があって、この「ホーク、ホーク!」と叫ぶ声が聞こえた瞬間、たとえどんな人ごみのなかにいても、もう他の声が聞こえなくなってしまい、映画の世界に舞い戻ってしまうことがあるからだ。
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ミス・デイジーは、元学校の教師をしていたという未亡人である。歳はもう70を超えている。夫の資産を受け、立派な大きな邸宅に住んでいる。家には、他に通いの黒人メイドが一人いるだけである。ある日、デイジーが黒い大きな車で出かけようとしたとき、手元が狂い路肩へ落ちてしまう。これがドラマの始まりである。
会社経営をしている息子のブーリー(ダン・エンクロイド)が、老いた母親を案じて、運転手を雇うことにするが、デイジー本人は、そんなもの要らないと言う。第一、私はそんな贅沢をしている人間とは見られたくないと、近所の目も気にしている様子だ。そうしたなか、一人の黒人が運転手として現れた。モーガン・フリーマン演じるホークの登場である。
ところが、このミス・デイジー、最初、とっても嫌味な女なんだね。気難しくって、底意地悪く、何かとホークにいやがらせをするんだ。台所のシャケ缶が一個なくなったと言っては彼を疑い、ホークの運転に応じず、車にも乗ろうとしない。小言をいいながらやっと同乗したかと思うと、「いつものコースとは違う」と駄々をこねては遠回りをさせる、ホント嫌味な婆さんだ。
それでも、ホークは毅然とした姿勢を崩さず、部屋の電灯の煤払いをしたり、庭を手入れしたり、運転以外のことでも、「自分は雇われているので」と言って黙々と仕事をしている。60歳になるまで南部社会で育ったホークにとって、白人のちょっとした意地悪に耐えることは当たり前のことだったのだろうか、彼は、いつも平然としたままだ。その姿が名優フリーマンの人物の大きさを感じさせ、僕は密かにホークに静かな声援を送りたい気持ちになったほどだった。
ホークがやってきてから3年後のある日、彼の運転で、デイジーは夫の墓参りに行く。
晴れた、とても穏やかな日和だ。
デイジーは墓の手入れをしながら、ホークに対して、知人の墓にも花を供えるよう指示する。
「その花、バウアーの墓へお願いね」
「どのお墓ですか?」
「確か、2列目の、あの辺よ」
背を向けて、デイジーは再び墓の手入れを始める。が、ホークは黙って立ったままだった。
「どうしたの?」
訝るデイジーに、ホークはこう答えるんだ。
「私、字が読めないんです」
デイジーは思わぬショックを受ける。そして、立ち往生しながら墓石の形状を訪ねるホークに対して、アルファベットの頭文字<B>と最後尾の<R>とを教えるのである。「だから最初の文字が‥」とデイジー、「ビー」とホーク。「最後の文字は?」「アール」。僕には、まるで二人が、わずか二つの文字を挟んで、楽しそうに会話しているように見えたものだった。
その歳の暮れの、クリスマスの夜、デイジーは密かにホークの家を訪ねて、玄関口で一つのプレゼントを贈る。それは、彼女が小学校の教師時代に使っていた国語の教科書だった。
「まだ、使えるわ。でも、練習しなきゃだめよ」
「ええ、奥様」
敬虔なユダヤ教徒であるデイジーは、「これは、クリスマス・プレゼントではありませんからね」と断り、そして「ブーリーたちには内緒よ」と言い残して立ち去る。僕は、自分のなかに何か熱いものがこみ上げてくるのを感じ、そして何故か「ホッと」した気分に包まれてしまった。
それからどれほどの季節(とき)が流れたのであろうか。アラバマ州の小さな町の伯父さんの家へ、誕生日を祝いに出かけることになった。何もない田舎道をゆっくり走っていると、二人の若い白人警官に呼び止められる。デイジーには登録証を、ホークには免許証を見せろと横柄に振る舞っている。そのとき、やつらはこんな捨て台詞を吐くのである。
「なんだぁ、ニグロのじじぃとユダヤのばばぁか。」
まだ人差別が色濃く残っていた南部で、デイジーが、ホークと二人きりであるとことを知らされるシーンである。
車は言葉少なになったまま夜道を走り続ける。突然、道のど真ん中で、ホークはヘッドライトをともしたキャデラックを停めた。
「どしたの?」
「ちょっと、用をたしてくるだけです」
「さっきドライブインに寄ったばかりじゃないの」
「黒人がトイレを利用できないことは分かっているはずです」
「停まっている余裕なんかないわ。我慢しなさい!」
「いいえ、私は出て行きます」
≪ブラック、お断り≫の札がトイレの前に貼ってあることが珍しくない時のことである。ホークは初めてデイジーの命令に従わなかった。ドアを開けて外に出たホークの姿が闇の中へと消えていく。
時間が静かに流れる。デイジーは車の中でじっとしているが、次第に不安が募ってゆく。そして、思わず、彼女はその黒人運転手の名を呼んで叫ぶのである。
「ホーク、ホーク、ホーク!」
もはや、デイジーにとって、ホークはそこにいなくてはいけない人になっている!
僕は、体温が一気に上昇するような気分に襲われた。そして、僕の耳には、デイジーの細い声がいつまでも鳴り響くのである。
それにしても、ジェシカ・タンディとモーガン・グリーマン、とっても贅沢な組み合わせだね。この二人にして、この作品は「名画」にふさわしい出来映えを残すことが出来たと、僕は今でも思っている。
(文:志根摩奸太郎)