清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

余計なお世話

暑い日だった。僕は全身に汗をかきながら道を急いでいた。

渋谷駅を出て宮益坂を上り、明治通りを少し戻るようにして進むと、右手の方にその映画館はあった。

だが、エスカレーターで3階に上り、そこからにエレベーターに乗り換えて8階へと進まなければいけない。やっとの思いでチケットの購入と上映作品の掲示板を眺めたら目当ての作品が見当たらない。僕が不安に包まれながら、ぼつんと1人でカウンターにいた若い小柄な女性にそのタイトルを伝えると、彼女は僕に同情するような顔を見せた。

「お客様、その映画はここではやっていません。でも、渋谷でやっていらっしゃるのなら、他の映画館を調べてみますのでお待ち下さい。」

どうやら上演館を間違えたようだった。

僕は、やっとたどり着いたとうのに、これじゃもう間に合わないかもれないと思って、ふっと声を漏らした。

「ああ、そうですか。じぁあ、もう駄目かも知れませんね。」

すると、彼女は僕を宥めるような優しい声で言った。

「今すぐお急ぎになれば大丈夫ですよ。ここから歩いていけるところですから。」

僕はその若い女に礼を言うと、再び、エレベーターとエスカレーターを使って表の通りに出た。そして、今来た道を少し戻って左に折れ、重い鞄を抱えたまま、今度は、青山通りに向って小走りに道を進んだ。汗が全身から吹き出しくる。

………………… 

カンヌ国際映画祭では審査員を務めるほどの「国際人」となった河瀬直美監督の『光』は、今度は受賞作とはならなかったものの、『あん』で登場させた永瀬正敏を再び起用して、視覚を失ってゆくカメラマン役を演じさせているという。僕は、その作品のことを想い浮かべながら先を急いだ。

間に合った。

飾り気のない、無色のコンクリートで囲まれたその映画館に飛び込むと、今度は痩せた若い男が無表情のまま、チケット売りしていた。

僕は、作品のタイトルを告げると同時に言った。

「シルバーです。」

男はやはり表情を変えることなく、チケットを差し出した。

薄暗い地階へ降りて、中に入り、僕は前列から二列目の左端の席に腰を沈め、やがて始まるだろう『光』を静かに迎えようと態勢を整えた。「態勢」というのはやや大袈裟であるが、僕はこうして作品を受け入れるための、いわば呼吸合わせのようなものを咒(まじない)のようにするのが常だった。映像とともに流れてくる音以外のすべの雑音を排し、仕事や人生のあれこれもすべて遠くへ追いやって、今まさに始まろうとしている作品の世界へ僕は飛び立つのだ。

ところが、どうした訳か、映像が現れる前に、ステージの脇に背の高いスラリとした女性が姿を見せたかと思うと、作品の解説を始めたのだ。

僕には何のことかしばらく意味が解らなかったが、やがてそれは、川瀬監督がこの作品の中で挿入した(?)別の映画作品のことを語っているようだった。認知症の妻を思いやる主人公をテーマとしたまったく別の作品のことだった。

僕は、強い不安に襲われた。

作品の世界を自ら「体験」することを通じて、光と音の魔術に身を委ねること、それが観る者の心を揺さぶり、「感動」という名の<新鮮な記憶>の至福をもたらしてくれる、それが映画というものだ。なのに、その直前に作品に<予断>をもたらす解説を加え、あまつさえ、他の作品のことを取り出して、その<意義>を語り出したのだ。

<不安>は<不快>に変わり、全身に拡がっていった。 観る者の奔放な「受容の快楽」を予め排除して平然としているその態度に、ある種の「解釈の暴力」を感じ、やがて、その冷酷な<暴力>を笑みを浮かべて語るその女に僕は<敵意>に似た感情を抱き始めていた。

それどころか、やっとその<横暴>が終わったかと思う否や、スクリーンには『光』ではなく、「その前に」との合図とともに、何と『その砂の行方』という別のタイトルの作品が映し出されたのである。

<怒り>とも<絶望>ともつかぬ感情を抱いて、僕はわずか10分ほどで映画館を飛び出した。むろん、シルバー料金の1100円をそのまま捨てて、その場を離れたのである。

……………………

僕は渋谷駅近くの喫茶に入り、気を鎮めることにした。それでも、この<不愉快>は収まらない。いや、増幅する一方だった。そして、とうとう20年以上も前の出来事の記憶が僕を襲ってきたのだった。

それは札幌市内の大きな劇場で起こった出来事だった。

韓国の映画監督が制作したという映画のタイトルは『ミンジャ・明子・ソーニャ』というもので、三つの国で過酷な人生を体験した一人の女性を描いたドラマだというので、そのオープニングに合わせて観賞しようと決めて飛び込んだ作品だった。まだ今よりずっと若かった当時の僕は毎晩のように付き合いの約束を入れるのが習わしのように忙しかった。だから、その日も上演時間をしっかり確かめて、映画鑑賞の後に時間をずらして約束事を入れていた。作品を見終わったら、急いで映画館を飛び出さなくてはいけない。

市内でも最も多くの観客を収容できるその映画館の最前列で僕はその映像が大画面に映し出されるのを待った。直ぐ後ろの席では若い二人がまだぺちゃくちゃと喋っている。さらに離れた奥の席からは紙袋を拡げる音がしていた。それらのすべてが僕に対する無神経な雑音となって襲ってくる。僕は、不愉快極まりないそれらの音を無視して、映像を受け入れる態勢を整えることに集中していた。

ところがどうしたことだろう。

突如、ステージの上に司会者と名乗る女が現れ、そして監督だという中年の男が左袖からやってきたかと思うと、いきなり<トーク>を始めたのである。戦中日本の強制連行やロシア・シベリアの過酷な歴史について語り出し、今度は女が韓国人監督の「功績」を長々と説明し始めた。

僕の胸の中の<苛立ち>がどんどん膨らんでいったことは言うまでもない。

彼らは、しきりにこの作品の<意義>とやらについて喋り続けている。そこで演じられていることは、作品の出来栄えでもなく、その映像の印象についてでもなく、ひたすら映画製作者の<意図>と映画の<社会性>なるものについて、観客に一つの見方を喧伝しようというものだった。北海道の夕張を一つの舞台としたその作品がスクリーンに映し出されたのはそれから30分以上が経ってからのことだった。

この時は、僕は自分の中で膨らんでゆく不快をしきりに抑えながら、映画のシーンを見届けることにしたのだが、結局のところ、30分の遅れがたたって、最後まで観ることはできずに映画館を後にするはめになった。

作品そのものは登場する人物1人ひとりの表情を映し出すことに乏しく、筋だけが画面をなぞる実に面白味に欠けるものだった。主人公が、周囲の人たちと愉快な時を過ごす場面もなく、その生活の中に溶け込もうとするシーンも欠けていた。その上、あの夕張の美しい風景も描かれていないのだ。

それにしても、<社会性>という名を武器に、映画の意義をまるで何かの「教訓」のようにして語る、この種の<正義感>に僕は困惑を覚えないわけにはゆかなかった。教訓を伝えたいのなら、どこかで著名な自称有識者の講演会でも開いたらいい。あるいは優れた書き手を見出してそのエッセイや論文を通じで丹念に道徳を語らせるがよい。

映画はそれを「体験」する一人ひとりの様々な人生によって鍛え上げられた感性によって少しずつ違った色合いをおびて迫ってくるものであり、それを一つの教訓でもって束ねることはできない。そうした読み手(観る者)の「解釈の自由」が映画の魅力ともなっているというのに、事もあろうか、事前に一つの解説を加えて、その<自由>を縮減しようとする不遜な態度、その横柄な思考に僕は得も言われぬ<違和感>を感じ、同時にまた強い<憤り>を抱いたのである。

世間ではよく、優れた作者の作品に直面すると、あるいは著名な作者の言葉に触れると、まるで呪いにでもかかったかのように、その作者の意図や創作力が読者もしくは観客たちを一方的に飲み込んでいくように思いがちである。確かに、そういった面もないわけではないが、だからと言って、これを受け止める側の方が圧倒的に多く、かつ多様であることを見落とすことはできない。 その多様な観る者たちが、1人ひとりの<人生>という名の長い物語の世界の中に、作品(映像)を呼び込み、それぞれの固有なもう一つの物語を編み上げているのである。それが、まさに<鑑賞>というものだ。

一体、彼女らは、何の特権を得て、その多様さ、自由さを削ろうする残酷な仕草をするのだろうか? 僕にはよく理解できないのである。