清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

偶然の「50年後」

週末だというのに何の約束もない帰り道、僕は新宿の大きな書店に立ち寄り、喫茶店で一服した後、久しぶりに映画館に飛び込んだ。懸案の仕事も一段落して、静かな金曜日を過ごそうと思い立ったのだ。いつも通り、鑑賞前に作品の穿鑿など一切せずに、タイトルだけで観る映画を定めて、向かったのである。

邦画のタイトル「50年後の僕たちは」がそれだった。

原題は、奇妙な転校生の名をとった「チック」というものだが、青春ロードムービーのこの作品は肩の凝らない軽快な作品だった。僕自身がまだずっと若かった頃、例えば「アメリカン・グラフィティ」や「イージー・ライダー」、あるいは「スタンド・バイ・ミー」を観た時と同じような感覚に襲われて、自分が少し若返っていくような気分になっていった、そんな映画だった。

高齢者と呼ばれる齢になって改めて気づくことでもあるが、人は大人になっても、年老いていっても、あの青春時代の出来事を昨日のことのように鮮明な映像のまま、痩せた胸の中に大切に仕舞っているいるものだ。

これに対して、若者だった頃の僕は、大人たちはみなその大事な青春の輝きを失って、「現実」という名の退屈な人生をひたすら真面目に生きて言いるのだと思い込んでいた。だが、それは間違いだ。僕たちは今でも青春を抱えて生きている。

 

この作品の中で放浪の冒険譚を繰り広げるのは、二人の「余され者」だった。口下手で引っ込み思案の小柄なマイクと、ロシア移民でヘンテコないで立ちの転校生チックの二人である。「余され者」というのは、彼らのクラスのマドンナ、タチアナの誕生パーティに招待されなかったのは彼ら二人だけだったからである。

まだ14歳だった時の夏休みに、身勝手な両親からも無視されるマイクは、チックが「これは盗んだんじゃない、ちょっと借りただけさ」という小さな車に乗って、二人だけのロードに飛び出す。様々なトラブルやちょっとした盗み、思いがけない人との出逢い、そして大人たちに追いまわされて必死に逃げ惑う二人。その奇怪な冒険が彼ら二人を「友情」という絆で結び合わせてゆく。もう、タチアナなんて、どうでもいいや。それほどに輝く時が流れ出す。その一つひとつのシーンが、彼らの「愉快な記憶」となって刻まれていく。

だが、トルコからの移民の子としてドイツで育ったという監督のこの映画の中には「50年後」が現れることはない。ただ、この夏休みの間に繰り広げられた冒険もやがて終わりを迎えようとしていた時、いつの間にか一緒に行動を共にしていたこれまた奇妙な少女イザと三人で別れの時を惜しむように彼らが交わした言葉が、「50年後もここで会おう」という 約束だったのである。

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驚いたことに、この映画を観た日の週末に、今度は、僕自身の「50年後」に出会うこ

とになった。

………………

その電話が来たのは、金曜日の夕方だった。

「あの、Mさんでしょうか?」

「ええ、Mでございますが。」

「私、北海道のME高校時代に同級生だったOといいます。」

「Oさん? ああ、O・Kさん? これはこれは、お懐かしゅうございます。」

電話の向こうのO・Kの声に耳を立ててあの時代の懐かしい記憶を引き出そうとしたが、少し沈んだその声色はそれをまったく引き寄せなった。まるで初めての声のように思った。

「よく判りましたね。僕がここだと……。」

「実は、ME高校の同窓会を開こうということになって、もう日程と場所を決めているんですが、いま同窓会メンバーの皆さんに声をかけているところです。Mさんの連絡方法が分からず、他の仲間も知らないようだったので、いろいろ調べてそこに辿り着きました。私たちが高校を卒業してから今年でちょうど50年になります。」

「そうか、もう50年ですか。早いものですね。」

「ええ、そこで半世紀目の集まりを持とうということになったのです。11月5日、この日は日曜日ですが、場所もKKRに予約しています。」

「そうですか。それは嬉しい話ですね。是非とも参加させていただきます。」

僕がそう言うと彼は実務的な声で、言った。

「皆さんから、メールで連絡を一斉に取れるようにしています。Mさんのも教えていただければと。」 

「それじゃ、Oさんの携帯番号を教えて下さい。そこにショートメールで僕の電話番号とメールアドレスを書き込んでおきます。その方が確実だと思いますので。」

「はい承知しました。私の方からは、これまでの経緯が分かるメールを送るようにします。」

そう言って、O君の電話は切れた。

二、三日が過ぎて、彼から3回に分けて、同窓会メンバーの消息を伝えるメールが送られてきた。「このメールは、現在、次の30名の皆さんと共有(送信)しています」という言葉とともに、懐かしい名前がずらりと並んでいた。 僕はそのお礼を兼ねて、O君に次のように返信した。

「Oさん  

この間の盛沢山の情報を拝見しました。懐かしい顔ぶれに少々感激しております。  

札幌に移ってからは、M町には早い時期に実家もなく、そちらに戻る機会もありませんでした。また、私は、あまり過去を振り向かない質で、この間も昔の仲間と連絡を取り合うようなことはありませんでした。いま、Oさんのおかげで、あの「良い時代」の面影を追っています。

11月5日には、皆さんとお会いできることをとても楽しみにしています。                                                       

                          ミャンマーヤンゴンより                               

                                M・O    」 

 

O君からのメールを送ってもらった日の翌日、僕は、仕事でミャンマーに向わなくてはいけなかった。このため、その返信はヤンゴン市内のホテルの一室からのものになったが、普段は実にドメスティックな仕事をこなすことに負われている日々である。その合間を縫って、時折、インドネシアベトナム、北京や上海に向かうことがあるけど、長く滞在することはなく、単なる出張の延長に過ぎない。

ところで、O君からいただいたメールの中では各人がそれぞれの半生を記しているが、そこで僕は、僕にとって最も身近であった三人の友への手紙の形を通して、このメールの一覧に刺激された僕の高校時代の「こころの記録」を綴ってみたいと思う。

H君へ

H君、キミがME中学校に転校して来たのは、三年生になった年の春のことだった。新しい転入生がとてもすごい運動能力を持ったスポーツマンだという噂がどこからともなく僕の耳にも届いいた。

君が僕のいる三年C組にやって来た日、隣の組の運動クラブの男の子たちが教室に覗きに来たことを僕は今でもよく覚えている。陸上部の清野君も来た。君は、まるでシルベスター・スタローンのような、まだ14歳の少年にしては不可思議に思えるほどの隆々たる肉体を持っていた。

君は体育の時間にいきなり鉄棒にぶら下がったかと思うと、あの大きな身体にもかかわらず、いきなり大回転をやって見せ、周囲を驚かせた。マットでは軽々と空中回転をしてみせた。冬には、群を抜いたスピードスケート走で周囲を魅了した。

それでも、高校生になった時、君は言った。確か1メートル78センチの君が僕にこう言ったんだ。

「Mちゃん、俺はコンパスが短いから、三段跳びでも限界があるんだ。」

その頃、十勝では大会記録を更新した君だったが、全道大会ではいつも2番手だった。同種の協議では大柄な選手が沢山いる中で、君は必ずしも背が高い方ではなかったのだろう。そのことが君にそうしたことを言わせたのだろうか。

僕は、君の素晴らしい運動能力を認めて、言った。

「スピードの選手になった方がいいよ。この十勝でトップになれば、君はオリンピック選手だって夢じゃない。陸上じゃそれは叶わないだろうけど。」

でも、君はやがて三段跳びで国体に出場し、見事全国の準決勝まで進んだ。同じ頃、あのスポーツマンとしては小柄で、ひょうきんな山河君が棒高跳びで全国2位になった。やがて、清野君も地方大会でやり投げの記録を更新した。もう一人の清野君は野球で全道大会まで進出する快投をみせて話題になっていた。

僕はその後も、スピードスケートの選手H君を勝手に想像し続けていた。

1988年の長野冬季オリンピックで、同じ十勝出身の、わずか162cmの清水宏保選手が500メートル走で金メダルを獲った時、僕は君の姿を重ね合わせて見ていたんだよ。

そう言えば、君も覚えているだろうか?

僕たちの学校では、体育の授業に剣道と柔道があったんだ。別館で行われた授業の、ある日、柔道部の選手たちを相手に君は次々と倒し続けて、彼らが悔し涙を流したことがあった。それで、誰がこいつ、つまりHを倒すのか、男子生徒の間で話題が持ち切りだった。

その時、誰が君を倒したのか、覚えているかい?

柔道部のやつじゃなかったんだ。同じ陸上部の清野君だよ。清野君は一度は組手を見せておきながら、いきなり頭から君の胸元に向って突進したんだ。君はたまらず仰向けになってマットの上にドッと転倒した。そこにいる全員が大きな喝采に沸いたのを僕はよく覚えている。それほど君は何をやっても高校生離れした筋力の持主だったんだ。

もう一つのエピソードを話そう。

これは全校で普通科が9クラスしかない小さな高校の中での、つまり1年生から3年生までを一緒にしたクラス対抗バスケットボール大会が行われた時だった。確か、学園祭の一齣だったとったと記憶しているが、小さな1年生が大きな2年生や3年生に太刀打ちできるわけがないと思われた。ところが、どうしたことか、あれよあれよという間に勝ち進み、とうとう決勝まで僕たちのクラス、1年A組は上っていったんだ。そのチームの中で、君は抜群の冴えをみせて、自分より大きな2年生、3年生より優れたジャンプ力を発揮して次々とボールを奪い、あるいは阻止をした。それを観ている僕たち、わけても女の子たちは興奮の声を上げて夢のようなシーンを応援していた。

これは敵わないと思った3年生が君の俊敏な動きを封じるために足をかけたり、背中を押したりし始めた。先生たちもその様子を見ていたが、誰もそれを止める者はなく、結局、1年A組は2位にとどまった。

でも、僕は覚えているんだ。君がさっぱりした様子でその大会を満喫していたことを。いや、僕たちも得も言われぬ満足感に浸っていた。

 

2年生になり、やがて3年生になる頃、僕たちの教室は、いつのまにか大きな二つのグループに分かれていた。岩田君らのグループと、僕たちのグループとが、まるで水と油にように、互いに別行動をとることも珍しくなかった。いまから考えると、街中に住んでいる連中と、その他つまり周辺からやってきた連中との棲み分けみたいな形で、僕たちはクラスを二分していたのである。

それが頂点に達したのが、修学旅行で起こった「事件」だった。ちょうど京都・奈良を巡っているバスの中で、前列を占めていた僕たちがマイクで歌を歌い始めると、後部座席の連中が突然別の歌を歌い出すという騒動が生まれた。

「おい、こっちが先に歌ってんだ。邪魔するな。」

「お前たちだって、勝手に歌ってんだろう。こっちが勝手に歌ってどこが悪いんだ。」 ま、こんな子供じみたやり取りをした。

僕は、その時、そのバスに担任の勝海先生はもとより、校長先生も同乗していたので、咄嗟に先生に申し訳ない場面を見せてしまったことを後悔している自分を覚えている。  

それはともかく、こういう事情もあって、僕たちはいつも同じ顔ぶれでよく集まることがあった。僕がクラスの役員をやっている時などは、学芸祭や体育際の準備に追われた場合、いつもH君やA君、それにO君、Y君がいた。O君は、その祭典準備で大きなアーチ作りをしていると、いつも黙々とベニヤ板貼付け作業や色塗りを手伝ってくれていた。A君は作業が深夜近くになってもいつも最後まで残って手伝ってくれた。そんな仲間だったから、時折り、中学校の校長先生だった君の家に、ご両親が留守のところを狙ってしばしば集まったことを覚えている。それも、必ずといってよいほど男女同数だった。台所を使わせてもらって皆で調理したものを囲んでは時間を忘れて愉快な時を過ごしたこともあった。

それだけじゃない。僕は君の家に単身でよく遊びにでかけたものだった。実を言うと、友の少なかった僕にとって、これが青春時代では初めての出来事だった。独りで友人のお宅に訪ねるなんて思ってもいなかったんだ。君と君のご家族は、いつも気弱な僕を温かく迎えてくれたので、それが嬉しくて何度もお邪魔することになった。そうしたH君が僕に二つのことを教えてくれたように今でも思っている。

君はもう覚えていないだろうが、一緒にいる間、僕たちはよく洒落やジョークを飛ばしては笑いこけて、愉快な時間を過ごしていた。そんな時、僕は君の天性の優れた運動能力を羨ましく思い、よく言ったものだった。

「僕は母親の体内に、運動神経を置き忘れて来た人間だ。」

すると君は必ず真顔でこう言ったんだ。

「そんなことないよ。Mちゃんは、決して運動に向かないことはないよ。ただ自分にそう決めつけているだけなんだ。そうした考えは、Mちゃんにとってもいいことじゃないよ。」

高校3年の時、たまたま体育の担任がスポーツ指導に成果を出し続けたT先生から地元の教育大学を出たというS先生に代わった。S先生は、前任者と比べて陸上部の指導者としては見劣りするものの、スポーツの得意でない僕のような生徒にも分け隔てなく丁寧に教えてくれた人だった。やがて、H君のアドヴァイスも手伝って、この僕でもマットの上で空中回転をできるほどになった。とうとうクラス対抗の冬のスポーツ競技ではスピードスケートでクラス代表の一人に選ばれて「選手」になったこともあった。むろん、人生においてスポーツで人前に出るなんぞ、これが最初で最後のことだった。  

H君、キミは僕に、自分の殻を打ち破ってチャレンジすることの大切さを教えてくれたんだ。(ちなみに、この年、僕は学校の成績で体育の科目が生まれて初めて「4」になった。それまでは例外なく「2」だった少年が勝ち取った勲章だった)  

もう1つ、君が教えてくれたものがある。 体格に恵まれたH君だったが、それを自慢することもなく、いつも人に気を使う優しい少年だった。君は僕に、能力も特技も異なる人間の間で一番大事なことは、何より人に対する「優しさ」というものだと気づかせてくれたんだ。ちょうど、この頃の僕は、自分を成長させることに夢中で、その「優しさ」というものを失いかけている時だった。それだけ余分に、君の自然な振る舞いが僕には堪えた。僕がいつの間にか仲間を大切にすることへと向かったのも、そうしたH君と親しい友となれたことが大いに役立っている。

そのスポーツ万能のH君がやがて日本体育大学へ進んで、僕は札幌の大学へと道が分かれていった。

そして君は高校の体育の先生になって北海道に戻ってきた。

札幌で会った時、君は言った。

「今の高校生は体が僕より大きい奴が結構いて、新米先生のお出ましをニヤニヤしながら待ち受けていた。だからMちゃん、僕はまず彼らの前でやって見せたんだ。体育館の端から端まで逆立ちしたまま歩いてやったんだ。そうしたら彼らはその時から態度を変えたんだよ。」

この時ほど、僕が君を友に持ったことを誇りに感じたことはなかったよ。

その君が、何度も大怪我をし、ましてや困難な病に冒されたりしたなんて、僕には驚きとしか言いようがないことだった。僕の記憶の中の君は、いつまでも健康で明るく、鋼のような身体を持ったH少年だったのだから。そして僕はいま、改めて、あれほどご親切を受けたお父様やお母様に遂にお会いすることもなく時を過ごしてしまった自分を恥じてもいる。

A・Kさんへ                                 

Kさんとは3年生になってから、沢山のことを話しならがら、よく学校帰りに肩を並べて歩いたことを覚えています。そうした話題の中には、H君と仲違いしていた僕たちのことを心配して、しきりに僕の方から折れなくちゃいけないと君が言っていたこともあった。クラスのYさんが僕のために編んでくれたマフラーを受け取らないのは勇気がないからだとも言ってくれたこともありました。

その頃のKさんは、僕よりはるかに大人で、いつも周りにいる友のことを優しく見つめる眼をもった人だった。そのたびに、僕は自分の小さすぎる心を覗かれたような気がしていました。

こう言ってはあなたに失礼かもしれないけれど、あの頃、そうした二人の帰り道の様子を覗き見て、まるで恋人でもあるかのように噂していた友人もいたほどでした。確かに、僕たちは「特別な関係」にあったと思う。一体何を話しながら、飽きもせず(?)、毎日のように一緒だったのか、今になってはよく覚えていないのですが、僕にとってもあの僅かな時間が充実したものであったことは確かです。

時折り、ご自宅に寄らせていただいて、お母様に二階の部屋まで案内され、ラーメンまでご馳走になったこともよく覚えていますよ。

話は少し逸れるけれど、僕は中学校に進んで初めてクラスの役員のメンバーになった。それまで人前でほとんど声を発しなかた僕は、いつその場から姿を消しても誰も気づかないようなおとなしい少年だった。小学校の時には、あまりに音声を発することがなく、授業でも反応がないので、「この子は少々知恵遅れなのでは」と疑われたことさえあったんだ。その僕が成績だけの評価で生まれて初めてクラスの役員の一人になった。 そんなある日、級長になった大沢茂君と北海道銀行の支店長の娘だった石山さん、そして僕とKさんの四人で、ある事を巡って話し合っていた。クラスの席順を決めることが話題だった。僕たち四人は、廊下で立ち話をしていた。意見がまとまらず、とうとうあの秀才で知られた大沢君がしびれを切らしたように言った。

「じゃあ、君たち一人一人の意見を聴こう。」

あなたと石山さんは適確に何か意見をいった。そしていよいよ僕の番になった。 なにせ人前で何かしゃべることさえ経験がなく、ましてや初めてクラスの役員になったばかりの僕には何か気の利いた意見を思い浮かべることもできなかった。 それで、僕は正直にこう言ったんだ。

「僕にはよく分からない。」って。

そうしたら、大沢君が厳しい目で僕を見つめたまま言った。

「君は卑怯だ。自分の意見を言わない奴は卑怯だ。」

僕にはその意味がすぐには判らなかった。でも、どういうわけか、その大沢君の言葉だけが強く僕の胸に残った。以来、僕はたとえ間違ったことを言って人に笑われても、まず自分の意見を持ち、それを口に出すことのできる人間になろうと思ったのである。(もっとも今では誰かが止めるまで話を続けるほどになってしまったのであるけれど……)

 

ともかく僕は音声を発しない子供だった。

先生に口を開くこともなかった。そんな調子だから、ついに「知恵遅れか」とまで通信簿に記入されるあり様だったのである。そんな折、母子家庭の貧乏な家に、夏休み前の通信簿が運ばれ、そこに「この子は物事をちゃんとしゃべれない」という趣旨のことが書かれていた。普段は成績のあまりの情けなさにも叱りはしなかった僕の母が、火のついたように僕の不甲斐なさを詰(なじ)った。

「男の子が甲斐性がないなのは情けない。」と。

まだ軟な子供ではあったけれども、この母の言葉は僕には堪えた。その日、僕はいたたまれなくなって外へ飛び出し、夜の街をしばらくさ迷い歩いていたことを覚えている。

僕がいかに人前で話すことを怖れていたか、君には解るだろうか。それはまさに僕にとっては一つの明確な恐怖だったんだ。

これも一つのエピソードであるが、小学校6年の前期(実は、後期から僕の学校も給食が導入されたので、弁当を持っていく必要はこれが最後だったが)、お昼休みの時間に貧相な弁当を広げた時だった。箸を忘れたのである。

すでに話したように、人前で音声を発することが苦手だった僕は、先生に「箸を忘れた」というくらいなら、弁当なんか食べなくてもいいやと決め込んでいた。クラスの全員が昼食をとっている間、僕は自分の席でじっとしていることにした。

すると、すぐ後ろの席の大柄な女の子、古出きみえ(?)さんがその様子に気づいて、大声を上げたんだ。

「先生、Mさん、箸を忘れたんですって!」

僕は全身から冷たい汗が流れだすのを感じた。

その時、僕のこと、つまり少年Mの<脅える心>を解できたなら、担任のN先生は、そっと箸を差し出すだけにで済んだはずだった。なのに、手に持った箸を僕に渡すことなく皆の前でこう言ったんだ。

「M、お前、箸を忘れたんだったら、なぜ言いに来ないんだ。」

僕は貝のように口を閉じたまま箸を受け取ることもなく、その1時間をじっと過ごした。むろん、弁当には手をつけることもなかったのである。

そんな気弱な少年であったが、やはり先の母の言葉はずは僕を責め立てた。この情けない自分をどこかで変えなくちゃいけないと思い始めていた。

Kさん、最初に何を試みたと思う?

なかなか想像がつかないことから僕は始めたんだよ。

先ず、少年M君は、音声を発することを練習することからスタートしたんだ。それは、国語の教科書の音読をすることだった。とにかく、毎日、教科書を広げては音読を続けた。 そして、とうとう国語の授業の時間に僕は先生に当てられてその国語の本を大声で読み上げることになった。けれども、やはり極度の緊張が僕の全身を襲って、練習していたほどには勢いよく読み上げることができなかった。それでも、情けないM少年にとっては、いつもよりは上手に読めたんだ。

そこから先のことも僕はよく覚えている。N先生は、こう言ったんだ。

「お、お前でも結構読めるじゃないか。」

僕は再び自信を失いかけていた。でもその時、僕は少しだけこうも感じたのである。

「せめて、先生が、<M君、今日はいつもより上手に読めたね>って何故言ってくれなかったんだろう」と。

僕は分かれ道に立っていた。 この時、「ああ、僕はやっぱり駄目なんだ」と思い込んだとしたなら、僕は自信を失ったままの人生を歩んでいたことだろう。だが、かろうじて僕は思うことができた。

「こんなに努力したのに、先生は何という残酷なことを平気でいうのであろう」と。

わずかな抵抗にも似た感情がふと湧き起こったことだけが救いだった。僕はその夜も音読を止めなかったのである。

やがて僕は、いつしか学校の先生になりたいと思うようになっていた。何故なら、先生のほんの少しの言葉が生徒たちの人生を左右することがあるだろうと、その時感じたからである。実際、僕は愉快な高校時代を過ごした後、本気で先生になろうと思い、一度は札幌教育大学へ進学したのである。

Kさん、その次に僕がチャレンジしたことを当てられるかな?

M少年は、次に意外な行動に出たんだよ。

当時クラスで一番口八丁手八丁の男の子に急接近したのである。それが岩田ライオン堂の岩田孝一君だった。いまで言えば、いじめられっ子といじめっ子の奇妙な組み合わせだ。実際、彼にはよく泣かされもした。何を考えているのかも分からない、まっとうにしゃべることもできない少年だったから、それも当然のことかと思っていた。

でも、人間って不思議なものだね。愚図な少年でもいつもくっついていると、そのうち情が移ったのだろうか、ある土曜日の午後、僕たちは肩を並べて、と言いたいところだが、実際には僕が岩田君の少し後についていっただけなのだけれども、彼が何を思ったのか、こう言ったのである。

「おい、お前、今日は俺の家へ寄っていけよ。姉貴が美味しいカレーライスを作ってくれるっから。」

僕にはとても怖れていたことが訪れたような気分だった。岩田君の家まで行って、お昼まで呼ばれようなんて思ってもみなかったことだったから。でも、僕は「それは嫌だ」という断りをしゃべることもできなく、ただ黙ったまま彼の背中について行った。

岩田君の家は、マッチ箱のような「小さな家」に住んでいた僕にはとても「大きな家」に見えた。だんだん小さくなっていく自分を感じながら、僕は岩田君の部屋だという6畳のがらんとした空間に入っていった。

「いま、姉貴にカレーライスを注文してくるから」と言い残して彼がその部屋を出た後、僕にはその広い部屋で身を固くしたままじっとしていたのである。すると、部屋の片隅に将棋の駒と盤が置いてあるのに気づき、僕は何するともなしなにその駒を絵文字を作って将棋倒しのように横に立てて並べていた。

「おい、いま作ってるから。姉貴のカレーは旨いんだぞ。」

岩田君がいきなりドアを開けたので、僕は咄嗟にその将棋の駒をパタパタと倒してしまった。その時、岩田君がこう言ったのを僕はよく覚えている。

「お、お前、面白いこと知ってるな。」

これが気弱なM少年にとって、餓鬼大将のような岩田君から認められた瞬間のように鮮明に記憶されることになった出来事だった。やがて、下手糞ながらも、自ら進んで手を挙げて教室で発言するようになった。いじめられっ子は、岩田君の喋り方を物まねするとろから始めたのである。その岩田君がすでに故人となったなんていまでも信じられません。

 

一事が万事、こんな具合だったので、クラスの女の子と向き合ってお話することなど、とうていありえなかったのです。そうした僕があなたと学校帰りに、肩を並べて会話を続けていたことは大変な出来事だったのです。

だから、あなたがご結婚されるとの手紙をいただいたとき、あたかも自分のことのように嬉しく思ったものでした。その式典には出席できませんでしたが、近くにお住まいだと知って、急いで新居に訪ねていったのもその気持ちを伝えたいがためでした。

やがて僕が結婚をした後も、妻に時折、あなたのことを話すことがあり、よく言われたものでした。

「また、Kちゃんのことね。」

なのに、連絡を取り合うこともなく、今日まで過ごしてきました。

でも、一度だけ、十勝の中札内に住んでいる姉夫婦を訪ねた折、車でM町の街まで出かけたことがありました。秋風が通りぬけていく街の様子はすかっり変わり果てていて、岩田ライオン堂もなく、Kさんのいたラーメン店も無くなっていました。僕には、あなたのお母様にお礼を言うこともなく過ごしてしまったことが強い悔いとなって押し寄せてくるだけでした。

そのA・Kさんが50年目の同窓会に出られないと聞かされ、僕はいま、H君と一緒に、あなたの住んでいる、北海道の北斗市に向う計画を立てています。

A君へ                    

いよいよ高校生活が始まるというその日は1人の男子生徒に注目が寄せられていた。ME高校開校以来の点差(2番目の優秀な生徒との差、O君か)でトップに入学したという男の子が1年Aクラスにいるというので、僕たちは戦々恐々としていた。あの一番壁側の最前列に座るやつがその噂の男の子だということだったので、どんな気難しい子がそこに坐るのか固唾呑んで待っていた。

それがA・M君だった。

君は、少しも気取ったところがなく、また気難し様子もなかった、大人しい少年だった。僕は君の前に歩み出て、初対面の挨拶をした。君は少し目を下に向け軽い笑みを浮かべて応えた。女の子のように細面で、頬に赤みのある顔立ちの子だった。それがA君についての僕の第一印象だった。

噂によると、A君は、入学してすぐにテニスクラブに入会したということだった。それを知ったのは、近所の1学年先輩の女の子が僕の姉のところにやって来た時、こう言ったからだった。

「え、あの子がA君なの? とてものんびりしていて動きもボーとした人よ。」

その年、北海道新聞社の特別奨学金を受けた全道8人の中に選ばれた天才君、A君って、こんな人だった。むろん、ボーとしていたわけではないが、時おり、何かを考え込んでいるようにも見え、そのくせ取っつきづらいところは微塵もみせなかった男だった。その様子が僕は好きだった。いつの間にか僕たちは友達になっていた。

 

その彼が凡人の僕たちとは少々違う様相を見せたのは、数学の時間だった。方程式を黒板に向って綴っていく先生の説明と記述を観ながら、僕たちは時々、先生のミスを発見することがあった。そんな時は決まって意地悪な声で誰かが言ったものだった。

「先生、それ、ちょっと違いますよ。」

多分、それだけで先生のプライドは十分すぎるほど傷つけられただろうと思われた。 だが、A君の場合は違った。

彼はそんな野暮な事は言わなかった。彼はさも得意げに先生を攻撃することもなかった。 そうでなく、先生が初歩的なミスを犯した時、彼はクスクスと笑ったのである。A君にとってそれは“けしからん”と思ったのではなく、“可笑しい”と感じたのであろう。 そんな調子だから、数学の時間に、君がクスクスと小さな声を発するたびに、先生はよくおろおろしたものだった。僕には先生が気の毒に思えたほどだった。

その先生が1年生の最後の試験結果を生徒全員に手渡すことになった。A君の番になった時、思わず、先生がニヤッと笑ったのを覚えている。その後、先生は僕のそばでこう言ったんだ。

「あいつでも間違えることがあるんだな。あいつの頭を割って中を覗いてみたいよ。」

君は田舎の高校の試験では期末試験・中間試験を通していつも百点を取り続けていたということだった。それが、学年の最終期末試験で一つのミスをやったらしいのである。実は、この頃の僕も数学は得意科目の1つになっていたのだが、上には上があるものだと思い知らされ、自分がいかに凡庸な才能の持ち主であるか厭が上にも自覚せざるを得なかった。それでも僕たちは友達であり続けたのである。

こんなエピソードも覚えているよ。

2年生になる時、クラスの編成替えがあった。僕はその時、一つの企画をめぐらしていた。初めて同じクラスになる人もいっぱいいるので自己紹介の意味も込めて、1人ひとりに「3分間スピーチ」をお願いすることにしたのである。いよいよ、A君の番になった。一同が彼が何を言うか注目している。まだ口下手な君は、登壇した後もやや俯き加減で少し間をおいたのち、ぽつりとこう言ったんだ。

「あのう、どんな問題でも時間さえ与えられれば、必ず解けると思う。」

これ、まさに君だから言えたセリフだ。僕がえらく感動していると、すぐ後ろの席で、T君がニヤニヤしながら言った。

「おれに時間をくれても無駄になるだけだな。」

思わず、僕たちはクスクス笑った。

 

高校3年生の時だったと思う。

アメリカの宇宙船アポロが月面着陸を果たして、アームストロング船長が「この一歩は小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩だ」との名台詞を刻んだ。同じ年、札幌医科大学で日本で初の心臓移植に成功したとのニュースが流れた。科学技術の進歩が明るい未来を約束してくれるかのように眩しく見えた時代だった。体育の時間の合間に、二人でこの二つのビッグニュースについて語り合っていた。

「すごいね、人類が月面に立つなんて。まるでSFの世界がやってきたみたいだ。」

「宇宙船の時代になって、僕たちの時代に自由に月を往復することになるかもしれない。」

そんな会話のはずみで、僕は言った。

「それにしても、心臓が移植できるなら、その他のもの、肝臓でもなんでも移植できるようになるだろうね。でも、人間の脳だけは無理だろうね。」

すると、君が急にニコニコし出したので、僕は咄嗟にこれはやばいことを口にしてしまったのではないかとの不安に襲われた。

君が言った。

「脳以外のすべては移植できるんでしょう?」

「ああ、脳以外はね。」

「それなら大丈夫ですよ。脳にすべてを移植すればいい。」

僕と君とはこんな他愛無いことを言い合っては、愉快な時間を過ごしていたんだ。

 

いよいよ大学受験となった時、君は東京工業大学を受けたが、やはり田舎の高校からそこにストレートで入るのは無理だった。確か札幌で会ったとき、僕は君にこんなことを言ったんだ。

「A君、キミは札幌の予備校に通った方がいいよ。そうすれば、キミは望むところに進むことができるだろう。北大の医学部でも、東工大でも好きなところを選べるんだ。」

その時、君はこう言ったんだ。

「でも、受験勉強は面白くないよ。」

そう言い残して、君は当時国立二期校だった東京の電気通信大学へ進んだ。 その後、君が大学卒業後NECに入社し、長い間、磁気ディスクや半導体の仕事を手がけてきたことを知って、君が「僕たちのA.M君」らしい人生を歩んできたことに僕はなぜか我が事のように誇りに思っている。

 

最後に、もう一つ。

君は「竹本君」という男の子が僕たちのクラスにいたことを覚えているだろうか。君の宿舎の上に住んでいたクラスメイトだった人だ。何故か、僕は彼のことを時折り思い出しては、すまないことをした、という気持ちがいつまでも続いているんだ。

少し背の低い、口数の少ない男の子だった。学芸祭が迫ってきたある日、竹本君が僕たちのグループに近づいてきて、「僕も一緒に準備を手伝いたい」と言ってきた。その時、僕たちは彼を仲間に入れるのじゃなくて、「それなら君がやりたいことをやって見せたらいいじゃないか」と幾分冷たい反応でもって応じたんだ。

彼は出し物の劇のシナリオを書くと言っていた。それを聞いていた仲間も校内で彼の姿を見かけると、「おい、竹本、シナリオは出来たのか」ってからかうような声をかけたりしていた。

そんなとき、誰かが僕のところに飛んできて、「竹本君の様子が変だ」と伝えてきた。ぼくは君の宿舎に向い、その様子を尋ねることにした。君の話では、君の部屋の真上に住んでいる竹本君の声が深夜になっても収まらず、それどころか同じ台詞を何度も反復していて、その声もだんだんと大きくなってきたという。ちょうど、カセット・テープを空回りさせているような感じで、それは一晩中繰り返されたとのことだった。

彼は、自ら引き受けた責任に圧し潰されて精神のバランスを壊してしまったんだ。そのことを知ったとき、僕は「シマッタ!」と思い始めていた。なぜ、彼にもっと親身になってやれなかったのか、僕は後悔していた。

二人で、帯広の緑が丘病院へ行ったとき、竹本君は落ち着いていたように見えた。でも、それが彼と出会う最後となった。

人間とは難しい生きものだ。自分が幸運に恵まれているときには、他人の孤独にも気づかない。かつて自分がそうであったことさえも忘れてしまうんだ。 A君、キミと一緒に竹本君を見舞いに行った帰り道、僕はそんなことをひそっり胸の中で考えていたんだよ。                            (2017年11月3日、記)

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11月5日、皇居を目の前に眺める竹橋のKKRホテルの11回の一室で、「50年目の同窓会」が開かれた。北海道と関東に暮らす23名が集ったその同窓会で、僕は、懐かしい友たちに囲まれて、愉快な時間を堪能した。

 

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