清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

松本清聴の映画講座5 根岸吉太郎監督の『雪に願うこと』

季節はもう春だというのに、温かな陽が差し込むことがない。僕は、仕事帰りの黒い鞄と一緒に、夕暮れ時の繁華街を通り抜けて映画館に飛び込んだ。友人が勧めてくれた作品を想い出して、何の予見も持たずにその作品と出会うことになった。

 

陽が沈む頃なのか、それともこれから一日が始まろうとしているのか、まだ白い雪に覆われたままの大地が少し霞んでみえる。そして、狭い、静かな道を一台のタクシーがゆっくりと移動している。あたりには何もない。映画はこうして始まった。まるで、コーエン兄弟の「ファーゴ」の冒頭シーンのような滑り出しだった。だが、これは奇怪な事件や犯罪が画面を覆うこともなく、坦々と物語が進行していく。

主人公の青年・矢崎学(伊勢谷友介)は、この北の暮らしには似合わない薄手のコートを着込み、冷たい風を感じて身をすくめている。背がすらりと高く、もっと威風堂々としていてもよさそうなものなのに、どこか妙に冴えない。
場面はやがて北海道の輓馬のシーンへと誘い、男臭さが充満している観客の中に現れた主人公がますます不釣り合いに思えてくる。その奇妙なズレがある種の予告であることも僕には感じられた。ほどなく、舞台が北の大地の標本のような十勝平野のど真ん中であることを知らされる。
この作品の主人公は、端正な顔立ちの青年であるが、映画を観た者は、本当の主役は、原作の標題のごとく「輓馬」、つまり体重1トンを軽く超える大きな馬であることを知るに違いない。その太い首を激しく揺らし、必死の形相で、レースの途中に設けられた障碍を乗り越えていく様はまさに圧巻である。僕は、その競技の場面を直接見たことはなかったが、まだ子どもの頃、近くの農場で「あれがバンバだよ」と教えられ、その褐色に輝く巨馬に何か眩しいものを感じたことを覚えている。
静けさに包まれた薄明かりの中で、人間と輓馬が競技の練習をしているシーンはさらに印象深いものだった。冷たい空気中にはき出された馬の白い息とその全身から溢れ出る汗が湯気となって沸き立つ瞬間が映し出されている。その幻想的な迫力に思わず興奮し見入ってしまうのは僕だけではないであろう。

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矢崎学は、東京からやってきたばかりだった。荷物一つもっていないところをみると、どうやら逃げるようにして兄のいる矢崎厩舎を訪ねてきた様子だ。だが、場面はそのことを特に語らない。兄の威夫(佐藤浩市)は、13年も前に飛び出したまま母に頼り一枚寄こさなかった身勝手な弟を認めようとはしないが、それにはもっと深い訳があった。それでも、学ぶには他に行くところがない。そうした二人の間の深い「不和」がこの舞台を押し上げていく。
「母さんは、何処にいるの?」
と学は訊くが、
「お前には関係ないだろう。」
と威夫は言葉少なに反応するだけで素っ気ない。

どうしたのだろうと少し気になるが、厩舎の中の馬たちの豊かな表情や仲間たちの愉快な会話を見せられるうちに、このスレ違いは片隅に置かれてしまった。
いつもそうであるが、この作品でも映像がゆったりと流れていく中で、ふと「予感」のようなものが胸の中に沸いてくるシーンが訪れる瞬間があった。映画では、それが二度ほどあり、僕の心を昂ぶらせる場面となった。

一つは、もうピークを過ぎて実績の残せない競走馬ウンリュウと矢崎学との出会いの瞬間である。
学は、ひょんなことから、田舎の大金持ちで、欲と馬と女に目がない男(山崎努)に教えられていた。「レースに勝てなくなった馬は九州に売られてつぶされるんだ」と。競技で結果の出せないウンリュウはそうした馬の運命を辿ろうとしていた。せっかく投資してくれた町の有力者もあきらめ顔で手を引いた。ウンリュウは何も知らずに、厩舎の中に放置されている。
偶々、威夫の押し付けで、厩舎特有の臭いにも鼻を歪めかねなかった彼がその馬の世話をやく係となった。そしてやがて、目が大きく、どこか物静かな表情のウンリュウに次第に引かれていく。ウンリュウもいつしか学の顔に長い鼻を寄せて応えるようになっていた。
そんなある日、小学校時代の同級生で、いまは矢崎厩舎で働いているテツオ(加藤浩司)がこんなことを言ったのである。
「ウンリュウが盛んに口をもぐもぐ動かしているだろう。それ、何だか解るかい?」
「まだ何か食べてるんじゃないか。」
「ちがうよ、あれはあんたが好きだっていう仕草だよ。」
これが、大都会からやってきたヨソ者の学にとっての、初めて「和解」が訪れた瞬間だった。学はウンリュウをますます愛おしく思うようになり、やがて馬が再び競走馬として立ち上がる日を夢見るようになる。

もう一つは、厩舎の「お母さん」こと、晴子(小泉今日子)が兄の威夫とジープに乗って町に出かけるシーンである。二人とも、いつもより少しすっきりとした衣装姿になっている。
車のシートに乗り込んだ春子が言った。
「ねぇ、誘わなくていいの?」
運転席の威夫は不機嫌に応えた。
「ほっとけ、あんなやつ。」
一瞬、二人のあいだに沈黙が訪れた。ジープはゆっくりと前に進み出した。厩舎の裏口で、男たちが枯れ草の山で戯れているのが見えた。むろん、その中にテツオや学もいる。そのすぐ横を通り抜けようとしたとき、ジープが突如停止する。
「呼んでこいよ。」
威夫の言葉に、春子はあたかも褒美でももらったかのような笑顔を見せて、車の外に飛び出した。

残雪が土の道路を濡らしている。その泥だらけの道を抜けて、春子と学と威夫を乗せた車が軽快に走り出した。その行き先がどこか、まだそのシーンが現れる前に感じて、僕の胸は一気に熱くなった。

ひとりの若者が夢を抱いて大都会・東京に出て行った。田舎者であることでバカにされまいと、人前で自分を大きく見せながら、背伸びして暮らしてきた。彼は彼なりに一生懸命だったのだ。だが、ふるさとを省みまいとするその想いが強いほど、家族や母親を忘れている自分に気付かないまま時を過ごしてきた。そしていま、母との13年ぶりの再会を果たそうとしている。

だが、威夫と学の母(草笛光子)は、すでに老人ホームで暮らしていて、その記憶を失い始めていた。やっと訪れることができたとはいうものの、学を迎え入れることも叶わないのだった。

学はすべてを失ったことを知る。ただし、あのウンリュウを除いて。そして、ウンリュウは再びレースへと向かうのだった……。

この映画は、実に粋な作品だった。それは、そこに幾分シリアスなものを覗かせながらも、人間と馬との出会いが人生をもっと輝かしいもの仕立て上げていく、そんなふうに颯爽としたものが心に残る作品だったのである。