清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

松本清聴の映画講座7 ジャック・ニコルソンの「カッコーの巣の上で」

 まだ人が寝静まっている未明、薄明かりの原野を一台の車がゆっくりと画面の前方に向かって進んでくる。車はやがて、いつもの1日が始まったばかりの、山中の精神病棟の前で止まった。場面が一転して、明るい一室に変わり、焦点の合わない大きな眼をギョロギョロさせた男の顔がアップとなった。
 「そりゃ、(若い娘に)目の前でぱっと広げられりゃ、黙っちゃいられない さ。」
 男はいかにも凶暴な目つきのままにしゃべりまくっていた。

 舞台は、オレゴン州のとある精神病院。この男マクマーフィ(ジャック・ニコルソン)は、その凶暴性と異常な行動を理由として、刑務所の強制収容農園から送り込まれたばかりだった。彼が来てからというもの、いままで何ごとも無かった病院に少しずつ変化が現れる。
 マクマーフィは、同僚の聾唖でインデアンの大男チーフ(ウィル・サンプトン)にバスケット・ボールを教えたり、絶えず落ち着きのないチェズウィクらと賭けトランプをしたり、味気ない病院生活に刺激を与えていく。しかし、主任看護婦のラチェット(ルイーズ・フレッチャー)は、精神病患者にとっていちばんの毒は刺激的であることだと知っている人間だった。彼女は患者から一切の刺激的なものを遠ざけ、さらにがんじがらめの規則を押し付けて、彼らに柔順に生きることを植え付けていた。
 グループ療法の最中、マクマーフィがテレビで放映中のワールドシリーズを観ることを提案した。しかし、ラチェットはその要請を事もなげに断るのだった。彼女にとって、患者たちが自由に欲望を満たすこと、いなその自由を手にすること自体許せないことだったのである。それでも、院内のフロアの拭き掃除の合間に、テレビに映ったワールドシリーズをほんの少し観戦することができた。マクマーフィも、仲間たちと一緒にそれを楽しんでいると、突然、「時間だ」と言って、テレビのスイッチが切られてしまった。みんな諦めたようにもとの作業に戻っていった。
 その時、マクマーフィが奇妙な行動をとりだした。彼は、電源が切られて何も映っていないテレビに向かって、あたかもそこにワールドシリーズの画面が見えているかのように手をはたき、歓声を上げて、球宴を楽しんでいるかのような仕草をとったのである。
 「そこだぁ、行け行け!」
 「おお! やったぜ。」
 一同は、驚いた表情でこの奇怪な行動に眼を向ける。「こいつ、ほんまに気が変じゃないか」といわんばかりである。何も見えない画面に向かって、大はしゃぎするなんて何という奴なんだと。だが、マクマーフィは一向にそんなことお構いなしだ。彼には、考えがあった。「あきらめちゃダメなんだ」「もっと自由に欲するものを手にしようと試みるべきだ」と彼が叫んでいるようだった。
 秩序を重んじる余り、生きた人間の自由すら平気で無視してしまうこの管理社会に対して、マクマーフィは強い嫌悪感と同時に、腐臭を放つ精神の病、魂の死の匂いを感じ取っていたのである。

 そんなある日、マクマーフィは、病院のバスを乗っ取り、仲間たちを連れて病院脱出をやり遂げる。彼らはやがて釣り船を占拠して海に出るなどして、外の世界の自由な空気を満喫する。が、それも束の間、再び病院へ連れ戻されてしまった。そしてまた、彼らの無気力な生活が繰り返された。
 それでもマクマーフィの闘いはとどまるところを知らない。日課となっている院内清掃をしているとき、彼は、大きなフロアの中央にあった水道の蛇口の付いたコンクリートの固まりを指して、突如、こう言うのだった。
 「誰か、こいつを持ち上げて、外に投げ出してみる奴はいないか?」
 一同は、またまた彼が奇妙なことを言い出したとでもいうような表情になった。そんなものを持ち上げられるわけがないし、第1、そんなことをして一体、どんな意味があるというのだろうか。
 マクマーフィは言った。
 「俺なら、こいつを持ち上げてみせるぜ。」
 「…?」
 そう言うなり、彼はいきなりそのコンクリートの固まりに抱きついた。そしてその巨大な固まりを抱えるようにしながら、何度何度もそれを持ち上げる仕草をする。むろん、そんなものはびくともしない。相変わらず、連中は押し黙ったままだった。
 だが、彼はこの時、こんなセリフを吐くのである。
 「お前らは笑えばいいさ。だが、俺はとにかく試みたんだ。」
 この一瞬の言葉を、ただひとりインデアンの青年、聾唖のチーフだけが見逃さなかった。

 マクマーフィのはからいである晩、病院のなかで密かに規則破りのパーティが開かれた。院外から女の子たちを招き入れて、ワイワイとやりだしたのである。常に何かに怯えるような眼差しの、自閉を伴ったどもりの若者ビリー(ブラッド・ドゥーリフ)が女の子たちと愉快に戯れている。が、翌早朝、その場面に、あのラチェットが事態を知って押し入ってきた。そして恐ろしいほどの血相でビリーを脅し、嫌がる彼を無理矢理院長室へ連れて行った。その恐怖に怯えて錯乱したビリーはグラスの破片で手首を切って自害する。
 怒り狂ったように、マクマーフィが主任看護婦に襲いかかり、その細い首を力一杯絞めつけた。彼女は病人スタッフの屈強な男たちに助けられて救われるのだが、マクマーフィは病院のどこかへ連れ去られていった。


 数日がたったある日の深夜、寝静まった寝室に、そっと骸のようになったマクマーフィが移動ベッドに乗せられて運ばれてきた。彼は、その凶暴性を除去するためと称してロボトミーの手術を施されたのである。そこにいるのはもはやマクマーフィの肉体ではあっても、あの並外れた想像力と行動力を持ち合わせたマクマーフィではなかった。寝静まった病室に再び暗い沈黙が漂いだした。

 その時、一つの大きな影がむっくりと起き上がるのが見えた。

 チーフである。彼は、2メートルはあるかと思われる大きな体をゆっくりと運ぶと、マクマーフィのベッドの前に立ち、そして黙ったまま彼の口元に枕を力いっぱい押し当てた。ほんの少しの痙攣が起こった。マクマーフの肉体的に死が訪れた。

 そして、いよいよラストシーンだ。チーフは憶えていたのだ。マクマーフィの例のセリフのことを。彼は、マクマーフィが言い残した通りに次の行動に出た。が、それがどんなことだったかは映画を観てのお楽しみということにしよう。

 

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 この作品は、1960年代の若者世代にとってヒーローともなった一人の作家が書いた原作をもとに映像化されたものである。ケン・キージーが著したこの小説はベトナム戦争さなかの反体制文化を支持する若者たちから深く愛読されたという。その原作をもって、1968年の「プラハの春」事件で共産国のチャコスロバキアから政治亡命し、アメリカにやってきたプラハの映画監督ミロス・フォアマンが映画化に成功したのだった。人間を鉄の規則に忠実に従う者とそうでない者とに二分し、後者を社会の秩序を脅かす存在として排除する「管理社会」に抗して、人間の自由を謳歌する作品を映像化したのには彼なりの歴史的体験があったのである。

 この映画は実に見応えのある作品だった。なんと言っても、マクマーフィ演ずるジャック・ニコルソンの演技が冴えて、光っていた。その恐るべき個性と並外れた演技力にきっと君たちも魅了されるに違いない。そりゃあ、ニコルソンに惚れるなと言うほうが無理な注文というものだ、と言いたいほどだ。ちなみに、ジャック・ニコルソンはこの作品で、アカデミー主演男優賞を受賞している。