清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

ロスジェネ世代の「問題」は何でないのか(1)

❑ドイツと日本の狭間で作品を発表し続けている多和田葉子が、岩波現代文庫にもなった『エクソフォニー』というエッセイ集の中で、こんなエピソードを紹介している。

―もう20年以上も前になるが、まだ日本に住んでいた頃、アテネ・フランセで『車に引かれた犬』という映画を見た。日本で暮らす西アフリカから来た日本文化研究者の話だが、彼は、日本に住んでいるフランス人たちには、「アフリカには飢餓している人がいるのに君は日本学なんかやっていていいのか」と言われ、飲み屋では酔っぱらった日本人に、「アフリカでは人の肉を喰らうって本当ですか?」と聞かれ、かっとなってテーブルをひっくり返してしまう。」
 そしてー
「フランス語を教えるアルバイトをしようとして広告を出すと、希望者の若い日本人の女性が家を訪ねて来るが、彼がアフリカ人であるのを見ると、驚いて、走り去って逃げて行ってしま」った。
 このエピソードは、まだ日本人が「西洋」を中心にして世界を眺めている、ある意味でハッピーな時代の出来事であるが、ここには、言葉と偏見がもっとも透明に立ち現われている。
 〇フランス人→白人→西洋人→富裕・文明
 〇アフリカ人→黒人→非西洋人→貧困・野蛮
 言葉の一つひとつに連鎖するイメージが張り付いていて、人はそれに拠りかかって世界を解釈している。それが、当事者をして悪意のない偏見と差別を生み出しているのである。そして、そこに人間による人間の<排除>も生まれる。

❑僕たち、と言っても日本人である僕たちのことだけ指して言うわけではない。僕たち人間という種は、世界を眺めるとき、あるいは世界について語り出すとき、それが<言語>という奇妙な装置を使って眺め、思考し、伝達表現する。つまり、人は、<ことば>という<覗き穴>あるいは<色メガネ>を通して初めて世界と切り結ぶことができるのだ。
 むろん、当然のことだが、眼鏡が違えば、世界も異なって見える。そこには常にバイアスというリスクが伴う。キリスト教徒たちは「神の眼」で世界を解釈し続けようとするだろうし、かつてのマルクス主義者たちは、すべて歴史の出来事を「階級闘争」の一色で理解しようとした。そこまで大上段な事例を引き出すまでもなく、われわれは、様々な偏見や予断の中で、つまり、さり気ないバイアスを生きている。
 そうしたもののうちで、もっとも典型的なものが、この国で長く引きずって来た「男尊女卑」の偏屈な生活習慣とそれらを補う言葉だ。たとえば、「良妻賢母」という言葉がこれらを端的に表していた。「女は女らしく」「夫が外で仕事をして、妻は家を守る」という社会通念が<ふつう>だとされてきたのである。
 僕たち人間は、こうしたさまざまな<観念>の海の中で育てられてきた。そして、優柔不断でくよくよと悩む男、責任を潔く引き受けることなく逃げ回る男をつかまえて、こういったものだった。
 「女の腐った奴みたいだ」。
 今の時代にこんな言葉を使ったら、直ぐさまネットで叩かれかねない表現がついこの間まで平然と使われていたのである。で、今や、むしろ「男の腐った奴」の方が現実に近いのではと思われるほど、世の中が様変わりし始めてしまった。そして、これらの<社会通念>もまた、言語が再生し、流通させてきたものだったのである。<女らしさ><男らしさ>の二分化思考が、僕たちの思考範囲を狭いものに仕立て上げてきた。
 この問題にはもっと根深いものがある。
 言語という道具を使って世界を変革し、作り変えてきたはずの人間が、いつの間にかその言語の虜となって身動きが出来なくなるほどに「言葉の囚われ人」になってしまうということだ。それは、僕たちが言葉に対する警戒心を怠り、ますます無自覚になってゆくに連れて強固なものとなって、真綿のように僕たちの思考を締め上げてくる。そして、一度作られた言語の外に出られなくなり、その惰性的な支配の下で無邪気に暮らすようになる。
 そして常に、少なくともこれまでは、支配力を持った側が次々と言葉を編み出し、それを制度化してきた。その興味深い一例をここに紹介してみようと思う。

<正規・非正規>という言葉の「檻」の中で

 いま、この国の中央に大きな分断線が引かれている。<正規>と<非正規>を分断する壁がそれを厚く覆っている。これは、<ふつう>と<ふつうではない>、<まっとう>と<まっとうじゃない>という色分けともそっくりだ。
 ついこの間までは、「ニートなんてまともな生き方じゃない」「異性愛者なんて、ふつうじゃない」「子供を産まない女は、まっとうじゃない」みたいな言葉まで、飛び出しては物議をかもすこともしばしばだったが、こうした思考は、現在の日本社会の底に深く沈殿したままだ。
 そして、そうした色分けを堅固な<制度>として視覚化させているものの一つが、<正規>と<非正規>だ。労働経済学者やエコノミスト、評論家と呼ばれる人たちまで、この語彙を与件として、何か普遍的な事象でもあるかのように、あるいは自然の出来事のこのように<解説>する向きがある。が、そこにはまた、単なる賃金格差や雇用制度にとどまらない、人間の意識の中に「壁」をつくる作用が働いていることにもっと目を向けるべきであろう。すなわち、この国の人間を二分化して疑わない怠惰な思考がそこに生まれているのだ。
 「非正規」という言葉には、本来るべき姿としての「正規」、つまり<ふつうの><まっとうな>雇用関係が標準としてあり、その標準からの<逸脱>があるという思考慣習が作用している。そして、こうした<逸脱>に対しては自然の勢いのようにして<差別>が伴うのだ。

オランダは「パートタイマー大国」

 すでにヨーロッパでは、正規・非正規というカテゴリーさえ失われているというのに、この国では相変わらず、この二分法がまかり通っている。オランダや北欧、ドイツをはじめとしてこの言葉が死語になりつつある理由は簡単だ。同一労働同一賃金の世界では、時間単位の賃金の差別は基本的になくなっているからである。同種の職務であれは、どのような雇用形態―たとえば、一日8時間労働であろうが、パートタイムであろうが賃金体系や処遇に違いが生じることはないのである。だから、そこに<正規>とか<非正規>とかいう分類は必要もないのだ。
 説明が煩雑になり過ぎると少々理屈っぽくなるので、ここでとても簡潔に分かり易い例を挙げてみよう。
 たとえば、ヨーロッパでも富裕国の一つであるオランダが「パートタイム大国」であることはすでに御存じだろうか。知らない人は、思わず、こう言い出すんじゃないかと僕は恐れているのだけど。
 「ええ、パートタイマーだらけって、ひどいじゃない」
 って。
 でも、そうではないんだ。先ほども言ったように、同一労働同一賃金を達成しているオランダでは、日本で言うとところの「働き方」の違いで賃金やその他の労働条件で差別されることがないので、誰もが自分のライフスタイルに合わせて、自由に労働時間を選択できるためなんだ。
 例えば、小さな子供を抱える若いお母さんが、近くの保育所に子供を預けることができたとしても、やはり親子のスキンシップも大切だといって、週に二日、午後を仕事の休みにして子供と遊ぶための時間を確保する。むろん、労働時間は短くなるので、その分は収入が幾分減ることになるものの、人生の価値を満たす上で大事なものを優先することができるというわけだ。いや、それだけじゃない。こうして手にするのは、仕事と同時にボランティア活動や自己の趣味(自然観察やミュージック活動など)、すなわち社会との能動的な関わりや自己の才能の享受など、人生そのものを豊かなものにするライフスタイルの実現にも生かされている。
 大事なことは、このような国では、わが国でいまだ通用している<正規-非正規>という用語自体が存在しないということだ。そして、誰もが「パートタイマー」として立派に働き、生きているということである。むろん、労働者として立派に保護を受ける存在として、それは受け入れられている。そして、これが今ヨーロッパでいうところのワークライフバランスの本当の姿である。

氷河期世代を救う対策って何のことか?

 ところで、この国の政府は、長い間放置されてきた「失われた世代」に対する対策に乗り出したようだ。名づけて「氷河期世代支援プログラム」というその対策の要点をかいつまんで見ると、要するに、およそ30万人の非正規雇用者を<正規化>する、そのための職業訓練・職業教育などの支援策を講じるというものである。そもそも政府がいうところの「氷河期世代」にはおよそ1,600万人が存在し、そのうちおよそ150万人がその対象となるという中での「30万人救出作戦」であることから、当初よりその効果に疑問が出されていたものであるが、その手法は相変わらず、民間企業に補助金を支給してその政策目的を達成しようというもので、その効果はおろか税金そのものが一部の人材派遣会社に注がれる懸念すら出ているという手法である。かと言って、まったく効果を期待できないというつもりもない。それによって「正規化」を強く望んできた人たちが少しでも救済されるのなら、それはそれで悪くないと思う。
 しかし、この仕組みを作り出した発想そのものには自ずとある種の危うさが潜んでいる。そこには、何よりも「正規であること」が標準であって、そこに人間を当て嵌めることが正義である、あるいはそうなるようにすることが善意である、という思考が根強く作用しているからである。自ら、雇用の流動化と称して「非正規化」を加速しておきながら、それと並行して労働者保護を強化しなくてはならないとの声にも耳を貸さずに右肩上がりの経済成長を夢見てきたことへの責任を一切反古にしたまま、そうしたシステムを変えるのではなく、“悲惨な”氷河期世代を救出してあげようとするわけである、
そして、ここにはもっと深刻な問題が潜んでいる。
 そもそも、こうした思考は、<まっとうでない>ものを<まっとうにする>という発想から出来たものだ。<ふつうでない>ものを<ふつう>に組み入れるための改善策として打ち出されている。だが、ここには、とてつもない軋轢が生じている。これは、単なる「貧困」からの救済対策や就職斡旋の事業などの問題ではない。それは、一つの明確な「文化の衝突」なのである。

これは言葉と文化の衝突だ

 もともとはバブル経済の崩壊に伴う就職難から顕在化したこととはいえ、それがまもなく一世代にも及ぼうとしていることが、文化の変容をもたらした。彼ら・彼女らは、その間に両親世代が当然と思い込んで来た生活スタイルや生き様を、いわば制度の外かから冷徹に眺めながら、サードプレイスとも呼ばれる新しい生活空間を創出して来た。古い企業主義文化や伝統的な家族主義文化に対する強烈な違和感を抱いては、それまでにない「新しいライフスタイル」を創り上げてきた。
 彼ら・彼女らは、古い制度や大きな組織に阿るのではなく、ピュアな仲間関係を大切にし、何よりも互いに「承認」を求めて集う、ささやかではあるが、手応えのある集団と空間における素直な生き方に価値を認めてきた。利益や組織目的のために自己を偽り、あるいは演技をしてまで自己を修正する生き方ではなく、信頼できる仲間の間で培われる共感と承認を何よりも優先する、新しい価値意識と自由で多様なライフスタイルが生れている。
 だからといって、彼ら・彼女らは「働くこと」を拒否していたわけではない。それどころか、「正規」という名の雇用システムの外にあっても、その多くは働き続けてきたのである。そして、「女であれ」「ふつうであれ」という社会の同調圧力に抗して、自らの働き方と自由な生活の確保を模索しづけていた。そこには、自分の外の、「世間」あるいは「社会」という名の得体の知れないものが押しつけてくるものへの違和感と抵抗があった。不条理な縦社会への同意の拒否がある。そして、上から何かの権威のように「同情」して現れては、自分たちの価値観を押し付けてくるものへの抵抗がそこにある。まさに、それがいま、彼ら・彼女らが、今日の日本社会に突きつけている「社会問題」だ。
 時には少々狭い世界のことであったりもする―とは言っても、これはいつの時代も変わらぬ風景である―が、何よりも互いの「承認」を優先する志向、制度化された「権威」よりも身近な「仲間」を大切に思う想像力、そして人間を一つの鋳型にはめ込んで何とも思わない、先行する世代への無言の反発がある。その底に共通して流れているものは、総じて不条理な社会への「抵抗」である。
 ところが、いま新たに打ち出されている<対策>なるものは、その鋳型に彼ら・彼女らをしてはめ込もうとするものである。そこに致命的で、明瞭なズレがある。そこに垣間見えるのは、古い価値意識と新たな価値意識との、言わば「文化の衝突」なのである。
この国はどこへ向おうとしているのか。
 日本はいまや、沈みゆく舟になりつつあるようにも見えるけれども、すでに一人当たりGDPがおよそ4万ドルに達する「豊かな国」となっている。家の中には家電製品が溢れ、ネットで好きな買い物ができるだけでなく、いたるところにコンビニがあり、どこに住んでいても安心して適切な教育や医療を受けられる。都市と農村との違いは相変わらず大きいが、かつてのように地域格差だけでは説明できない<差異>として、人生設計の上での<選択肢>にすらなっている。近年では、「若者の消費欲望が小さくなっている」ことが話題になるほど、この国には<モノ>が溢れている。
 むろん、日本の一人当たりGDPは先進経済国のなかでそれほど目立つものではない。上には上があって、2018年の時点では、日本の3万9,305ドルに対して、ヨーロッパのルクセンブルグ(11万4234ドル)、スイス(8万2,550ドル)、ノルウェー(8万1,694ドル)などと比べるとはるかに見劣りするし、近隣のシンガポール(6万4,041ドル)や香港(4万8,517ドル)にも大きく引き離されている。ドイツ、フランス、イギリスの水準にも達しない。それでも、GDP一人当たり4万ドルというのは、少々大袈裟に言えば、人類史上<驚異的な豊かさ>に到達していることを示していることに変わりはない。
 そもそも、1日8時間労働や9時~17時勤務が当り前という画一的なシステムは、工場労働を基軸とした「貧しい」時代の産物である。これはこれで「貧しさ」からの脱却が課題であった時代にはそれなりの合理性もあったには違いないと思われるが、いまや、その合理性自体が疑われているのだ。問われているのは、戦後日本が再スタートさせた年功序列・終身雇用制というシステムの下で「会社人間」を創り出し、男性中心主義と専業主婦を<標準>とする社会を形づくってきた、その在り方にあるのであって、その逆ではない。

 ところで、先の多和田葉子によるエピソードに戻ると、彼ら・彼女らは、あのような偏見からはすでに自由になっている。人間をマスとして解釈し、その標準でもって「世間並」とする思考からは脱している。世間なるものが造り出した自分及び自分たちの<外>にある基準で物事を推し量ることによって偏見を増長させられることなく、互いを、多様なライフスタイルと趣向をもった、一個の「人間」としての存在を認め合う価値観がそこには流れている。制度や地位や立場で人間を切り分けることを嫌い、そこにある種の異臭をさせ感じ取る新しい生活感覚が潜んでいる。
 遠いどこかの権威によって造り上げられた「常識」や「制度」の鋳型に自己を合わせるのではなく、いわば自生的に創出されてきた仲間の柔らかで、対面的な共感に添って自己の人生を編み上げて行こうとする「新しい生活文化」が、この国でもいま歴史を動かす大きな力になろうとしているのだ。
 オランダの事例は、その新しい生活文化に見合った、仕事、余暇や趣味、ボランティア、そして子育てなどを、自己の生活をより「豊かな」ものにする重要な構成要素とし、それぞれを「パート」して受け入れ生きることの価値に根ざしている。

 先にも触れたように、言語には世界を作り変える力がある。1960年代末頃から先進国を席捲したフェミニズムが社会の風景を一変させたように、<言葉>は世界を編み直す馬力を発揮した。そう、もし社会を変えたいと思うなら、僕たちは、他人が作った言葉に使われるのではなく、自分たちが新たに磨き上げた言葉を、いわば<武器>として用いなければならない。まず、世界を捉える<覗き窓>を変えることから始めまければならないのだ。もう、<正規-非正規>という官製的な言葉の鋳型に人間をはめ込もうとする旧い思考では、この勢いを押しとどめることはできないのである。