清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

デービッド・アトキンソン『国運の分岐点』を読む

 この著者の発言やテキストは、いつ見ても実に歯切れがよく、分かりやすい。先ごろ出版されたこの本も、読みはじめると、ほとんど立ち止まるところもなく、先へ進むことができた。それというのも、その論旨が明快だからだ。要するに、日本の生産性が国際比較でみても低迷しているのは、その背後に、多すぎる中小企業を存続させている“悪の存在”があるからであり、その力に阿ることなく、先ずは中小企業の数を大幅に減らすことで当面の難問は解決するというのである。
 一読者としては、特に、最低賃金の引上げの必要や過少消費からくるデフレ圧力に関する指摘に共感を禁じ得ないものがある。そして、それらを人口減少との結びつきの中で読み取ろうした点にも十分頷かされるものがある。しかし、それらは著者独自の着眼点というわけではない。
 それにしても、この本を読み終わって心の中に残った幾分殺物足りない読後感は、一体、どこから来るのであろうか。それは恐らく、“諸悪の根源”たる中小企業に関する省察がそこにはほとんど見当たらないということによるものであろう。そこで、評者として、若干の物足りなさの原因と思われるものを、ここに数点記してみたいと思う。

(1)一括りの「中小企業(論)」では、何も語ったことにはならない。

 先ず、著者が中小企業の現状を標的にしておきながらも、そこに中小企業と呼ばれるものについての幾分でも踏み込んだ診断や解析があるわけではなく、産業論としての、いわば最低限度の省察の目も向けられていない。
 例えば、一口に中小企業と言っても、小売業や飲食業と製造業、あるいは情報通信業運輸業など業態によってまったく分析の視点やアプローチが異なってくるのであるが、そうしたごく基本的な分類も行われていないし、商業を一つとっても、チェーンシステムを形成しているケースと町中で商店街を構成している個店とでは分析のツールも違ってくる。そこには、これまで展開されてきたさままざま中小企業論や業態別の分析に関する検討も見当たらないのである。
 そのことがまた、例えば製造業であっても、直接消費財を加工してマーケットに売り出す食品製造業と、長い製造工程の一翼を担って生産財を国内の大企業や海外の大手企業に提供する電子部品業などを一括することの拙さに思い至らないことへと結びついているように見える。これでは、アナリストに相応しい「分析」にはとうてい及ばないと思うのだ。

(2)産業組織論的なアプローチも見当たらない。
 そもそも、中小企業と一括して呼ばれるものが、単なる保護政策の対象としてだけでなく、1970年代半ばころから再び着目されるようになったのは、国際経済における影響力もしくは存在感を発揮した日本の大企業の成功神話が広く語られるようになったことと並行して、その要因(秘訣)が探求された頃から、日本固有の産業システム、すなわち系列(大企業-中小企業関係)がその一つの大きな要素として研究されたことに端を発している。
 例えば、トヨタにおける「改善」や「研究開発」の成果が小さな町工場のイノベーションを促進していったことなどが取り上げられた。また、そうした系列が時には親企業が下請け企業に対して行使する圧力につながったという弊害を伴いながらも、大企業が開発した先進的な技術をよりスピーディに、相対的に資本力の脆弱な中小工場に伝播する機能効果をもたらしたとの研究成果も出されていたのであって、画一的な中小企業=非効率論では処理できない省察もなされてきたのである。
 わけても、金型・鋳鍛造などのいわゆる素形材産業の展開が日本の製造業の発展に如何に寄与したものであるかの分析は今日でも価値あるものであろう。主に川崎や東京・大田区墨田区に集積したことで知られる、それらの素形材産業は、日本の代表的産業でもある自動車、航空宇宙、電力、家電や重電などの大手企業のすそ野を形成して、それらの品質を支える共通の産業能力として着目され、研究されてきたものである。それは、一見、大企業の成果と見られた日本の産業の成功物語の時代にあっても、それが、いわゆるトータルな産業システム、すなわち、ある種の「系列」によって成り立っていたことを示す一方、街中の小さな企業の集積が産業の分厚い裾野を担ってきたことを示唆している。そこでは、アトキンソン氏の言うような大企業=効率(より高い生産性)、中小企業=非効率(より低い生産性)といった単純な区分では割り切れない世界がある。
こうしたことは、主に製造業に関して実証的・理論的に解明されてきたのであるが、今日では、システム技術の発達も与って、コールドチェーンや経営組織上のチェーンストアなどにもジャスト・イン・システムが導入されてからは、製造業に限らずより普遍性の高い分析ツールとしても応用されてきたところである。つまり、今日では、企業単位・事業所単位でその規模を色分けする旧い中小企業観では、そうした産業システムの全容を捉えることがほとんどできないのだ。

(3)これでは、グローバル化し新たな産業システムへの移行を見届けられない。

 殊に、現代では、グルーバルな国際規模の産業リンケージが深化しており、中小企業と括られるビジネスの中にも、そうした産業の発展形態に敏感に反応して新たな市場の開拓につなげているケースが数多く生まれている。東アジア地域では、いまや、そうした産業リンケージ・システムが国境を越えて形成されている。しかもそれは、中国の予想以上の産業高度化のインパクトによって、東アジア全体がグルーバルな産業リンケージの中に組み込まれて行く様となって立ち現われている。
 とりわけ、2008年のリーマンショック以降は、そうした様相が一層顕著になった。それまで、中国を含めてアジアの中進国・地域は、世界のアブソーバー機能を一手に引き受けていたアメリカへの輸出によって経済成長を成し遂げてきた。韓国がそれまでの開発独裁を捨てて一気に貿易立国を目指したことでモデル的な成功を収めたものとして注目されたのも、このためであった。1970年代末からNICSと称された韓国・台湾・香港・上海の四つの国・地域、あるいはまた中国本土を含めた「四つの龍」(中国・香港・上海・台湾)などの台頭に注目が寄せられ、19世紀末に日本が非西洋地域で産業的成功を収めて以降およそ百年後の軌跡が起ころうとしていたのである。それも、世界の産業センターを誇っていたアメリカの吸引力に救われものだった。
 ところが、2008年のリーマンショック以降は、そうした構図も大きく様変わりしたのである。衝撃的な大不況の中で、世界の経済再生を担ったのは、中国の巨額な財政支出であった。なにしろ、大不況の震源地であったアメリカにその役割は果たせそうにもない。そんな中で、今度は中国が世界のアブソーバーを担ったのである。そう、世界の産業システムの背景となる世界経済の「風景が変わった」のである。ちなみに、日本の戦後経済は不況に落ち込むと、必ずアメリカの吸引力に依存して輸出を回復し、その勢いで国内の在庫を一掃しては設備投資を復活させるというサイクルを描いてきた。ところが、このリーマンショックの直後は、戦後はじめて、中国の大型景気対策に引き寄せられるようにして景気回復を果たしている。以降、日本の最大の貿易相手国はすでにアメリカではなく中国となっている。
 これを契機に、中国では自ら「中心国の罠」を避けるため、国を挙げて産業の「現代化」に向けて驀進する。今や電子産業分野や電気自動車や宇宙産業はもとより、それまでアメリカが世界を席捲していたプラットホーム産業の分野でも、AIや5Gの世界でも先頭を走る勢いである。実は変わったのは中国だけではない。この時期を境に、韓国や台湾をはじめとする東アジアの国や地域が中国を中心とする産業リンケージ・システムへと組み込まれていくことになったのである。そして、このグローバルな産業リンケージの形成が、日本をはじめ韓国・台湾などの国・地域の中小企業のあり方に大きなインパクトをもたらしている。
 著者が日本の「グランドデザイン」を描くと称しながらも、こうしたグローバルだが身近な産業システムのへ変容に対するアプローチがまったく見受けられないのは誠に残念である。

(4)台湾と韓国のケースで中小企業を見る。

 当面の中小企業問題との関連でいえば、この点においては、同じように東アジアで経済発展を成し遂げた韓国と台湾の比較が興味深いケースであろう。
 韓国はいまや日本にも迫る勢いで、一人当たりGDP3万ドルを超える経済立国を成し遂げている。その間、この国の経済・産業をリードしてきたのがいわゆる「財閥」であった。サムソンや現代などの財閥企業が提供してきたのは、主に中国や東南アジアで台頭してきた「中間層」向けの消費財であった。ところが近年になってその大企業による輸出戦略に陰りが見えはじめた。そして、それらの消費財中国企業が自前で提供できるまでに成長してきたうえ、彼らの方がより先端的な製品を製造・供給する能力を発揮しはじめたからである。
 このためもあって、韓国ではいま、財閥企業へのモラル的な非難と同時に、経済が足踏みするとともに、大企業と中小企業との間の顕著な経済格差が社会問題として取り上げられるようにもなった。そして、層の薄い産業のすそ野が国際競争力の脆弱性と結びついているとの指摘も受けて、能力の高い中小企業の育成に注目が寄せられるようになったのである。折しも日本との産業軋轢が顕在化する中で、この国ではやっと素形材産業の育成が国を挙げての産業政策上の課題となっている。
 これに対して、台湾のケースはまったく逆である。台湾では、その経済発展のスタートから中小企業の存在が大きな力を発揮してきた。ちなみに、アトキンソン氏が「問題」とする中小企業の存在はこの国ではとても重要な役割を占めていて、日本をはるかにしのぐ存在感を示しており、その産業全体に占めるウェートも実に98%に達している。それどころか、そうした中小企業が対外輸出のいわばバネとなって台湾の経済成長を支えてきたのだ。特に、中国が世界の製造業を担い始めた頃に合わせて、大陸部への部品・製造システムの提供基地化と変容し、自国の産業を支えするとともに、主に生産財を供給することによって成功を成し遂げてきている。
 韓国との比較で言えば、台湾では中小企業が産業のすそ野を形成していて、それが自国の経済発展を可能にしていると同時に、この国の安定的な民主主義を成り立たせているとの指摘すらも受けているのである。
 私はここでどちらが正しいのかということを伝えたいわけではない。ただ、一律に中小企業の存在を「敵視」しても何も言い当てたことにはならない事例として述べているだけである。それにしても、この点、こうした省察も欠けたまま、末尾で、取って付けたようにして、中国の「属国」懸念が引き合いにされて、著者の“警告”に重みをもたせようとの意図が透けてみえるものの、惜しいことかな、その冷静な分析の跡も見られないままである。

(5)一括りの「中小企業」という言葉の先へ突破する迫力が必要だ。

 結局、アトキンソン氏自らがその所説を正当化するために使用した一括されたものとしての「中小企業」という言葉に、もう一度立ち戻らねばならないようだ。この曖昧なままに流布された言葉が、著者自身が直感的に読み取ったように、官僚組織の生理と業界の論理によって産み落とされた、いわば“造語”のようなものである。官僚はそれによって“弱者”である中小規模企業の保護者として自らを明瞭に位置づけて権限と予算を確保し、業界団体は、自らその脇に「政治連盟」なるものを創り上げて影響力を行使することでその存在感を増長させてきたのである。この点においては、著者の危惧と告発は当を得ていると言えるが、その、言わば“奴ら”と同じ言語をもって戦おうとしたところに一つの明瞭な落とし穴があったと言えよう。
 そんな言葉を真に受けて、「中小企業」という用語で何かを語ったかのように振る舞うことには明らかにジレンマがある。仮にその論の入り口で「中小企業」という言葉を使うにせよ、そこに斬り込む鋭い“分析”がなければ「出口」は見えないのだ。
 アトキンソン氏は、この官製の言葉自体を解体するところから始めるべきではなかったかというのが評者の拙い感想である。