清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

松本清聴の映画講座5 根岸吉太郎監督の『雪に願うこと』

季節はもう春だというのに、温かな陽が差し込むことがない。僕は、仕事帰りの黒い鞄と一緒に、夕暮れ時の繁華街を通り抜けて映画館に飛び込んだ。友人が勧めてくれた作品を想い出して、何の予見も持たずにその作品と出会うことになった。

 

陽が沈む頃なのか、それともこれから一日が始まろうとしているのか、まだ白い雪に覆われたままの大地が少し霞んでみえる。そして、狭い、静かな道を一台のタクシーがゆっくりと移動している。あたりには何もない。映画はこうして始まった。まるで、コーエン兄弟の「ファーゴ」の冒頭シーンのような滑り出しだった。だが、これは奇怪な事件や犯罪が画面を覆うこともなく、坦々と物語が進行していく。

主人公の青年・矢崎学(伊勢谷友介)は、この北の暮らしには似合わない薄手のコートを着込み、冷たい風を感じて身をすくめている。背がすらりと高く、もっと威風堂々としていてもよさそうなものなのに、どこか妙に冴えない。
場面はやがて北海道の輓馬のシーンへと誘い、男臭さが充満している観客の中に現れた主人公がますます不釣り合いに思えてくる。その奇妙なズレがある種の予告であることも僕には感じられた。ほどなく、舞台が北の大地の標本のような十勝平野のど真ん中であることを知らされる。
この作品の主人公は、端正な顔立ちの青年であるが、映画を観た者は、本当の主役は、原作の標題のごとく「輓馬」、つまり体重1トンを軽く超える大きな馬であることを知るに違いない。その太い首を激しく揺らし、必死の形相で、レースの途中に設けられた障碍を乗り越えていく様はまさに圧巻である。僕は、その競技の場面を直接見たことはなかったが、まだ子どもの頃、近くの農場で「あれがバンバだよ」と教えられ、その褐色に輝く巨馬に何か眩しいものを感じたことを覚えている。
静けさに包まれた薄明かりの中で、人間と輓馬が競技の練習をしているシーンはさらに印象深いものだった。冷たい空気中にはき出された馬の白い息とその全身から溢れ出る汗が湯気となって沸き立つ瞬間が映し出されている。その幻想的な迫力に思わず興奮し見入ってしまうのは僕だけではないであろう。

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矢崎学は、東京からやってきたばかりだった。荷物一つもっていないところをみると、どうやら逃げるようにして兄のいる矢崎厩舎を訪ねてきた様子だ。だが、場面はそのことを特に語らない。兄の威夫(佐藤浩市)は、13年も前に飛び出したまま母に頼り一枚寄こさなかった身勝手な弟を認めようとはしないが、それにはもっと深い訳があった。それでも、学ぶには他に行くところがない。そうした二人の間の深い「不和」がこの舞台を押し上げていく。
「母さんは、何処にいるの?」
と学は訊くが、
「お前には関係ないだろう。」
と威夫は言葉少なに反応するだけで素っ気ない。

どうしたのだろうと少し気になるが、厩舎の中の馬たちの豊かな表情や仲間たちの愉快な会話を見せられるうちに、このスレ違いは片隅に置かれてしまった。
いつもそうであるが、この作品でも映像がゆったりと流れていく中で、ふと「予感」のようなものが胸の中に沸いてくるシーンが訪れる瞬間があった。映画では、それが二度ほどあり、僕の心を昂ぶらせる場面となった。

一つは、もうピークを過ぎて実績の残せない競走馬ウンリュウと矢崎学との出会いの瞬間である。
学は、ひょんなことから、田舎の大金持ちで、欲と馬と女に目がない男(山崎努)に教えられていた。「レースに勝てなくなった馬は九州に売られてつぶされるんだ」と。競技で結果の出せないウンリュウはそうした馬の運命を辿ろうとしていた。せっかく投資してくれた町の有力者もあきらめ顔で手を引いた。ウンリュウは何も知らずに、厩舎の中に放置されている。
偶々、威夫の押し付けで、厩舎特有の臭いにも鼻を歪めかねなかった彼がその馬の世話をやく係となった。そしてやがて、目が大きく、どこか物静かな表情のウンリュウに次第に引かれていく。ウンリュウもいつしか学の顔に長い鼻を寄せて応えるようになっていた。
そんなある日、小学校時代の同級生で、いまは矢崎厩舎で働いているテツオ(加藤浩司)がこんなことを言ったのである。
「ウンリュウが盛んに口をもぐもぐ動かしているだろう。それ、何だか解るかい?」
「まだ何か食べてるんじゃないか。」
「ちがうよ、あれはあんたが好きだっていう仕草だよ。」
これが、大都会からやってきたヨソ者の学にとっての、初めて「和解」が訪れた瞬間だった。学はウンリュウをますます愛おしく思うようになり、やがて馬が再び競走馬として立ち上がる日を夢見るようになる。

もう一つは、厩舎の「お母さん」こと、晴子(小泉今日子)が兄の威夫とジープに乗って町に出かけるシーンである。二人とも、いつもより少しすっきりとした衣装姿になっている。
車のシートに乗り込んだ春子が言った。
「ねぇ、誘わなくていいの?」
運転席の威夫は不機嫌に応えた。
「ほっとけ、あんなやつ。」
一瞬、二人のあいだに沈黙が訪れた。ジープはゆっくりと前に進み出した。厩舎の裏口で、男たちが枯れ草の山で戯れているのが見えた。むろん、その中にテツオや学もいる。そのすぐ横を通り抜けようとしたとき、ジープが突如停止する。
「呼んでこいよ。」
威夫の言葉に、春子はあたかも褒美でももらったかのような笑顔を見せて、車の外に飛び出した。

残雪が土の道路を濡らしている。その泥だらけの道を抜けて、春子と学と威夫を乗せた車が軽快に走り出した。その行き先がどこか、まだそのシーンが現れる前に感じて、僕の胸は一気に熱くなった。

ひとりの若者が夢を抱いて大都会・東京に出て行った。田舎者であることでバカにされまいと、人前で自分を大きく見せながら、背伸びして暮らしてきた。彼は彼なりに一生懸命だったのだ。だが、ふるさとを省みまいとするその想いが強いほど、家族や母親を忘れている自分に気付かないまま時を過ごしてきた。そしていま、母との13年ぶりの再会を果たそうとしている。

だが、威夫と学の母(草笛光子)は、すでに老人ホームで暮らしていて、その記憶を失い始めていた。やっと訪れることができたとはいうものの、学を迎え入れることも叶わないのだった。

学はすべてを失ったことを知る。ただし、あのウンリュウを除いて。そして、ウンリュウは再びレースへと向かうのだった……。

この映画は、実に粋な作品だった。それは、そこに幾分シリアスなものを覗かせながらも、人間と馬との出会いが人生をもっと輝かしいもの仕立て上げていく、そんなふうに颯爽としたものが心に残る作品だったのである。

20年後―その寂しい風景

カズオ・イシグロノーベル文学賞の発表が行われた時、発表者のスウェーデン・アカデミーのサラ・ダニウス事務局長は、受賞の理由を次のように語ったという。

「感情に強く訴える小説で、世界とつながっているという我々の幻想の下に隠された闇を明るみに出した。」(毎日新聞における「対訳」から)
“who, in novels of great emotional force, has uncovered the abyss beneath our illusory sense of connection with the world”

ヨーロッパ知識人に特有な彼女の難解な言葉が指している意味をどう受け止めたらよいのか、僕には戸惑いしか残らなかった。発表者のサラはまた、直後の記者インテビューに応えて、「ジェーン・オースティンフランツ・カフカを混ぜるとイシグロ氏になる」とも譬えたとのことであるが、この意味も理解は簡単ではなさそうだ。

 

それよりも、青山学院大学の生物学教授の福岡伸一氏の批評「忘れてはならない記憶の物語」(「毎日新聞」2017年10月15日付)の方がはるかに的をついているように僕には読める。その中で福岡氏は、次のようなコメントを行っている。

「イシグロ作品にはディストピア小説、預言小説などと評されることが多いが、私は必ずしもそうは思わない」と断った上で、次のように記している。

「イシグロ作品の通奏低音は『記憶』である。根源的な状況に置かれた誰かであれ、ごく普通に暮らす私であれ、その心を励まし、慰撫し、あるいは乱し、揺るがせるのは、過去の鮮やかで細やかな記憶である。」

「イシグロの小説において、記憶の問題がいかに重要な通奏低音になっているかは彼の長編デビュー作と最新作を読めばわかる。『遠い山なみの光』では、戦後まもない頃の長崎の風景が、まるで小津映画を観るようなきめの細かさで淡々と描かれていく。」

「寡作のイシグロの最新作は『忘れらた巨人』。舞台は中世。鬼や竜が出没する薄暗く、荒涼とした世界。彼は新しい角度から「記憶」の問題に挑んだのだ。個人の記憶ではなく、共同幻想としての集合的な記憶。原題は“The Buried Giant”,埋もれているのは社会的な記憶だ。」

NHKの番組で、イシグロと対談したとき、生物としての人間は絶え間のない合成と分解の流転の中にあり、それゆえ私たちの物資的基盤は確かなものではない、という動的平衡の生命観について私(福岡)が語ると、彼はがぜん興味を示し、だからこそ「記憶は死に対する部分的な勝利である」と言っている(福岡伸一動的平衡ダイアローグ』より)。

僕自身は、イシグロ作品の中でも、『日の名残り』を最も気に入っている。この作品もまた、彼の内面を流れる「記憶」が一つのテーマであるものだが、それもそのはず、主人公スティーブンス氏は、20年前の出来事をまるで昨日のことのように反復し、その20年前をありありと思い描いているのだ。
だが、彼のこの「記憶」は20年という長い年月を一気に飛び越えたもので、彼は最後まで人生が時間とともに大きく変容することに気づかずに時を送っていたことが次第に判明して来る。そして、それがこの主人公に静かではあるが、確かな「悲劇」を呼び寄せることになるのである。

人間とは誠に奇妙な生き物で、おそらく哺乳類の中でも特異な存在であること、それは目の前で推移する「現実」だけではなく、すでに「過去」となった出来事をも生涯抱き続けて生きる、誠に滑稽な生命体なのである。
困難に直面すると、すでにこの世に存在しない父親を思い起こして「父さん、俺どうしたらいいんだ」と叫んでみたり、今は亡き母親に向って「母さん、御免なさい」って謝ったり、死に別れた恋人を思っては、再び涙したりする。そして深い切なさに心を覆われることもあるのだ。この「記憶」という名の不在に語りかける、まことに奇妙な生き物が「人間」の、人間的なところでもある。

だが、そうした記憶はマシーンのように正確なものでは決してない。それどころか、自己に強いインプレッションを与えたものだけを取捨選択して長期記憶という名の貯蔵庫に奥深くストックされた「特別な記憶」なのである。

物語の中で、スティーブンスは、二つの記憶に生きている。大戦後になって、すでに陽気なアメリカ人の主人のものとなった邸宅の執事となっているにもかかわらず、あの「品格」を備えた―と彼自身が今でも誇りに想っている―ダーリントン卿の時代の自信に満ちた記憶と、その時代に出会った女中頭ミス・ケントンとの記憶の二つである。
……………………
物語は、1956年7月のダーリントン・ホールでのことから始まる。そして、ミス・ケントンがここを去ったのは、ちょうど20年前の1936年のことだった。
理想の執事となるべく、これまでの生涯をダーリントン卿に捧げて来たことを誇りに思うスティーブンス。だが、その所有が、戦後米国人のファラディ様に移ったあと、僅か4人で、このダーリントン・ホールの仕事をこなさなくてはいけない。あの頃は17人の雇人を抱えていたこともあったのにである。
そして、どのような状況下に置かれようとも彼は水も漏らさぬ完璧な職務計画を立てて事に臨んでいた。だが、次第にこの計画にはあまりにも「余裕」が無さすぎることに気づいて不安に思うようなる。

 「これほど明らかな職務計画の欠陥に、なぜもっと早く気付かなかったのか。(中略)長 い間真剣に考え抜いた事柄には、えてしてこうしたことが起こるものではありますまいか。なんらの偶発的事件に接し、初めて「目からうろこが落ちる」ということが……。」

「この場合が、まさにそうでした。ミス・ケントンの手紙を読み、その長い、抑えた調子の文章の合間に、間違いなくダーリントン・ホールへの郷愁がにじみ、もどりたいという願望―だと私は確信しております―が込められているのを感じなかったら、私は計画を見直さなかったかもしれません。」

「考えれば考えるほど、明らかであるように思えてまいりました。このお屋敷に大きな愛情をもち、今日では捜しそうにも捜せない模範的な職業意識をもつミス・ケントンこそ、ダーリントン・ホールの職務計画を完璧にしてくれる人物ではありますまいか。」

主人公のこの「特別な記憶」が、この物語の序章であり、やがて結末へと結ぶ"灰色の伏線"となって展開してゆく。

新しい雇い主ファラディ様の奨めもあって、スティーブンスはちょっとした旅に出る機会を持った。ドライブのための車は、ファラディ様がお貸になるということなので、あとは旅の費用と新しいスーツを用意すれば何とかなるだろう。

「こうしたことを考える一方で、私は道路地図を調べたり、ジェーン・サイモンズ夫人の『イギリスの驚異』シリーズから、該当するいくつかの巻に眼を通したりもしました。全七巻のこのシリーズは、各巻でイギリス諸島を一地域ずつ取り上げております。これが書かれた1930年代には、国中の家庭で話題になったと聞いております。」

「それに、さよう、1936年にミス・ケントンがコーンウォールに去ったあと、その地方のことをまったく知らなかった私は、よくサイモンズ夫人の第三巻を手に取って、じっと眺め入ったものでした。デボンとコーンウォールの魅力が写真入りで記述され、さまざまな画家の、雰囲気に満ちた風景スケッチなども添えてあって、ミス・ケントンはこういう場所で結婚生活を送っているのかと、多少の感慨に浸ったことも覚えております。」

ところが、彼の生真面目過ぎるほどの「計画」にもかかわらず、新しい主人ファラディ様から、スティーブンスはからかいを受けることになる。

「自動車旅行の目的地になぜ西部地方を選んだのか。理由には、サイモンズ夫人の御本から魅力的な情景描写の1つも拝借しておけばよかったものを、私はうっかり、かつてダーリントン・ホールで女中頭をしていた者がここに住んでいる、と申し上げてしまったのです。」

「私のつもりでは、要するに、お屋敷が現在小さな問題を抱えていること、その理想的な解決策が昔の女中頭に見出せるかもしれないこと、私はその可能性を探りにいきたいこと……、そんなことを申し上げたかったのだと存じます。」

スティーブンスは、思わずミス・ケントンの名前を出してしまったあと、すぐに戸惑いをみせた。それというのも彼女のことは確実なことはなにも知らない自分に気づいたからであるが、その一瞬の<戸惑い>が余計にファラディ様のからかいをもたらす<好機>となった。

「おいおい、スティーブンス。ガールフレンドに会いにいきたい? その年でかい?」

「君がそんな女たらしとは、ついぞ気が付かなかったよ。」

「気を若く保つ秘訣かな?」

穴があったら入り込みたくなるような羞恥心に襲われながらも、スティーブンスは思い直し、自らに言い聞かせるようにして、こう思うことでその解消に努めたのである。

「私にはファラディ様を非難するつもりは少しもありません。決して不親切な方ではなく、ただ、アメリカ的ジョークを楽しんでおられたのだと存じます。アメリカでは、その種のジョークが良好な主従関係のしるしで、親愛の情の表現だとも聞いております。」

かくして、スティーブンは主人から借りたロールスロイスで目的地の西部地方へと旅立つ。この物語は、「ミス・ケントン」が住む町へと向かう自動車の旅の話であり、片道わずか1週間ほどの旅の間に、彼は、周りの景色や街並みに関心を寄せることもほとんどなく、ひたすら「過去」を回想し続けることになる。つまり、それはまた「過去への旅」の物語でもあるのだ。

…………………
二日目の朝、まだ「静寂の中で目覚め」たばかりのスティーブンスは、ミス・ケントンの手紙に書かれていることを反芻している自分に気づく。

「ところで、<ミス・ケントン>という呼び方については、もっと前にご説明しておくべきでした。正しくは<ミセス・ベン>といいます。もう20年前からそうなのですが、私が身近に接していたのは結婚前のミス・ケントンですし、ミセス・ベンになるためにコーンウォールに去ってからは、一度も会ったことはありません。(中略)それに、先日の手紙によりますと、<ミス・ケントン>と呼ぶことが必ずしも不適当ではないかもしれません。と申しますのは、悲しいことに、その結婚生活がいま破綻しかかっていると察せられるのです。」

結婚がこんな破局に至るということは、もちろん悲劇的なことです。中年も相当な年になったいま、なぜこんな孤独でわびしい思いをしなければならないのか……と、その原因となった遠い過去を、この瞬間も、ミス・ケントンは後悔とともに思い返しているのではありますまいか。そのような心境にあるミス・ケントンにとって、ダーリントン・ホールにもどれたらという思いが、大きな支えになっているのは、容易に想像できることです。」

この時スティーブンスが描いている「記憶」が、完全に時制が乱れていることに読者はすぐに気づくであろう。彼自身がその前段で「20年前」のことと断っておきながら、そのおよそ20年前の手紙について想起するときには、「先日の」手紙と記し、またその20年ほどまえの出来事であるにもかかわらず、「いま」破綻しつつある、と綴ることの不自然さに気づかないままである。彼は「事実」としては過去のことであることを認めながらも、「記憶」としてはその20年前を「いま」そのままに生きているのである。

いったい、どうして、このような錯誤が生じてしまったのだあろうか。それは、スティーブンス自身の心の裡に、彼女、つまり<ミス・ケントン>は特別に鮮明な「記憶」となって植え付けられ、しかも、この20年の間にも昨日の出来事のように反復されてきたからなのである。そのことは、先のミス・ケントンに対する想起、「ミス・ケントンの手紙を読み、その長い、抑えた調子の文章の合間に、間違いなくダーリントン・ホールへの郷愁がにじみ、もどりたいという願望―だと私は確信しております―が込められている」や「この瞬間も、ミス・ケントンは後悔とともに思い返しているのではありますまいか。そのような心境にあるミス・ケントンにとって、ダーリントン・ホールにもどれたらという思いが、大きな支えになっているのは、容易に想像できることです」に象徴的に示唆されている。

スティーブンスは執事としての誇りの中には「私情」は不要だと思い込んではいたが、その「私情」の奥底では、ミス・ケントンがこのダーリントン・ホールにいつか戻ることをあたかも無意識の欲望のごとく、20年間も抱き続けてきたのである。
それがいかに強いものであったかは、ミス・ケントンが運んできた花瓶をめぐる些細な出来事を鮮明に覚えていることでも「立証」できよう。

スティーブンスはつぎのように「証言」しているのだ。

―あれは、ミス・ケントンと父がお屋敷に来て間もない、ある朝のことでした。食器室で書類整理をしておりますと、ドアにノックがありました。そして、返事も待たずにミス・ケントンが入ってきましたので、あっけにとられたのを覚えております。ミス・ケントンは、花を生けた大きな花瓶を抱え、にっこり笑ってこう言いました。

「ミスター・スティーブンス、これでお部屋が少しは明るくなりますわ」

「なんのことですか、ミス・ケントン?」

「外はお日さまさがまぶしいほどですのに、この部屋は暗くて、冷たくて、お気の毒ですわ。お花でもあれば、少しはにぎやかになるかと思いまして」

「それはどうもご親切に」

「ここは、お日さまが少しも入りませんのね? 壁もじめじめしているみたいで」
「いや、ただの水蒸気の凝縮です」、そう言って、私はまた帳簿に向いました。

ミス・ケントンは、テーブルの私の前あたりに花瓶を置き、もう一度食器室をぐるりと見回しました。

「お望みなら、もっと切り花を御持ちしますけれど」

「ご親切はありがたいが、ここは娯楽室ではないのですよ、ミス・ケントン。気を散らすようなものは、できるだけ少ないほうがよろしい」

「でも、………」

この微妙な会話の直後、スティーブンスは執事の模範的な生き方をしてきた自分の父を「ウィリアム!」と呼び捨てにすることへの苛立ちを含んだ非難を彼女に浴びせるのである。以降、二人の会話もとげとげしいものになっていく。

二人の関係に隙間が広がっていったのには、それなりの理由があった。ミス・ケントンの「大きな花瓶」は、単に薄暗い、湿った部屋への飾りつけということにとどまらず、彼女のスティーブンスに対するある種の好意だった。にもかわらず、スティーブンスは、相変わらず頑な執事の職業意識のままにそれを断ってしまうのである。だが、彼はその「好意」を受け止めるだけの余裕を持ち合わせてはいなかったものの、ミス・ケントその人に対しては心のうちに「特別の関心」を抱いたのである。だから、20年後の今日でもその些細な出来事を反芻することを止めなかったのであろう。

この物語は、もう一つの筋、執事としての誇りの源であるあったダーリントン卿にまつわる黒い噂、彼がナチスへの協力者であったという事実に関する漠然とした不安とそれを受け入れたくないと必死で思う主人公の姿というストーリーがまとわりついている。彼がラストシーンで海辺の夕暮れに映える桟橋の灯りを眺めながら涙するのはこのためである。それは暗い底へと沈んでゆく記憶への別れの涙でもあった。

だが、彼はもう一つの「記憶」の意味を読み取ることもできない不器用な人間でもあった。
なぜ、遠くコーンウォールの街で結婚すると言ってダーリントン・ホールを去っていたミス・ケントンが、かつての上司であるスティーブンスに、何度も家を飛び出しては彼にそのことを伝え、今の結婚に自分の幸福はないとの手紙を寄せたのかについて最後まで気が回らないまま、うぶな質問を彼女にぶつけている。これはもう救いようのない無頓着である。

カズオ・イシグロは、人は、目の前の移ろい続ける「現実」よりも、自己の中に蓄えられた確かな「記憶」とともに生きる存在であることを小説に仕立て上げた稀有な作家である。その彼が、作品「日の名残り」で繰り広げてみせたのは、そうした「記憶」が壊れゆく時、そこに明確な悲劇が立ち現われること、それほど「記憶」は自己という存在にとって欠くことのできないものであることを表現している。


丸谷才一が、1990年11月に「週刊朝日」のために書いたカズオ・イシグロ日の名残り』の書評がある。丸谷才一木星とシャーベット』の収めるときには「桟橋のあかり」という題をつけていたものである。その評論がカズオ・イシグロ(土屋政雄訳)『日の名残り』の「訳者あとがっき」に続いて「旅の終わり」という標題で再掲されている。さすがに要を得て簡潔だが、明瞭にイシグロ文学の特徴を捉えたものであり、ここに若干抜き書きをして紹介しておきたい。

「物語は整然としてそしてゆるやかに展開して、スティーブンスが信じてゐた執事としての美徳とは、実は彼を恋ひ慕っていた女中頭の恋ごころもわからぬ程度の、人間としての鈍感さにすぎないと判明する。そしてこの残酷な自己省察は、彼が忠誠を献げたダーリントン卿とは、戦後、対独協力者として葬り去られる程度の人物にすぎなかった、といふ認識と重なりあふ。
 これは充分に悲劇的な物語で、現代イギリスの衰へた倫理と風俗に対する洞察の力は恐ろしいばかりだ。これだけ丁寧に歴史とつきあひながら、しかしなまなましくは決してなく社会をとらえる方法は、わたしを驚かす。殊に、登場人物に対する優しいあつかひがすばらしい。イシグロは執事、女中頭、貴族を、ユーモアのこもった筆致で描きながら、しかし彼らの悲劇を物語ってゆく。」

この小説は、最後のシーンを捉えて「日の名残り」と標題されているが、物語全体を貫いているものは、明らかに「20年後」の主人公の何とも形容し難い寂しい風景なのである。

偶然の「50年後」

週末だというのに何の約束もない帰り道、僕は新宿の大きな書店に立ち寄り、喫茶店で一服した後、久しぶりに映画館に飛び込んだ。懸案の仕事も一段落して、静かな金曜日を過ごそうと思い立ったのだ。いつも通り、鑑賞前に作品の穿鑿など一切せずに、タイトルだけで観る映画を定めて、向かったのである。

邦画のタイトル「50年後の僕たちは」がそれだった。

原題は、奇妙な転校生の名をとった「チック」というものだが、青春ロードムービーのこの作品は肩の凝らない軽快な作品だった。僕自身がまだずっと若かった頃、例えば「アメリカン・グラフィティ」や「イージー・ライダー」、あるいは「スタンド・バイ・ミー」を観た時と同じような感覚に襲われて、自分が少し若返っていくような気分になっていった、そんな映画だった。

高齢者と呼ばれる齢になって改めて気づくことでもあるが、人は大人になっても、年老いていっても、あの青春時代の出来事を昨日のことのように鮮明な映像のまま、痩せた胸の中に大切に仕舞っているいるものだ。

これに対して、若者だった頃の僕は、大人たちはみなその大事な青春の輝きを失って、「現実」という名の退屈な人生をひたすら真面目に生きて言いるのだと思い込んでいた。だが、それは間違いだ。僕たちは今でも青春を抱えて生きている。

 

この作品の中で放浪の冒険譚を繰り広げるのは、二人の「余され者」だった。口下手で引っ込み思案の小柄なマイクと、ロシア移民でヘンテコないで立ちの転校生チックの二人である。「余され者」というのは、彼らのクラスのマドンナ、タチアナの誕生パーティに招待されなかったのは彼ら二人だけだったからである。

まだ14歳だった時の夏休みに、身勝手な両親からも無視されるマイクは、チックが「これは盗んだんじゃない、ちょっと借りただけさ」という小さな車に乗って、二人だけのロードに飛び出す。様々なトラブルやちょっとした盗み、思いがけない人との出逢い、そして大人たちに追いまわされて必死に逃げ惑う二人。その奇怪な冒険が彼ら二人を「友情」という絆で結び合わせてゆく。もう、タチアナなんて、どうでもいいや。それほどに輝く時が流れ出す。その一つひとつのシーンが、彼らの「愉快な記憶」となって刻まれていく。

だが、トルコからの移民の子としてドイツで育ったという監督のこの映画の中には「50年後」が現れることはない。ただ、この夏休みの間に繰り広げられた冒険もやがて終わりを迎えようとしていた時、いつの間にか一緒に行動を共にしていたこれまた奇妙な少女イザと三人で別れの時を惜しむように彼らが交わした言葉が、「50年後もここで会おう」という 約束だったのである。

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驚いたことに、この映画を観た日の週末に、今度は、僕自身の「50年後」に出会うこ

とになった。

………………

その電話が来たのは、金曜日の夕方だった。

「あの、Mさんでしょうか?」

「ええ、Mでございますが。」

「私、北海道のME高校時代に同級生だったOといいます。」

「Oさん? ああ、O・Kさん? これはこれは、お懐かしゅうございます。」

電話の向こうのO・Kの声に耳を立ててあの時代の懐かしい記憶を引き出そうとしたが、少し沈んだその声色はそれをまったく引き寄せなった。まるで初めての声のように思った。

「よく判りましたね。僕がここだと……。」

「実は、ME高校の同窓会を開こうということになって、もう日程と場所を決めているんですが、いま同窓会メンバーの皆さんに声をかけているところです。Mさんの連絡方法が分からず、他の仲間も知らないようだったので、いろいろ調べてそこに辿り着きました。私たちが高校を卒業してから今年でちょうど50年になります。」

「そうか、もう50年ですか。早いものですね。」

「ええ、そこで半世紀目の集まりを持とうということになったのです。11月5日、この日は日曜日ですが、場所もKKRに予約しています。」

「そうですか。それは嬉しい話ですね。是非とも参加させていただきます。」

僕がそう言うと彼は実務的な声で、言った。

「皆さんから、メールで連絡を一斉に取れるようにしています。Mさんのも教えていただければと。」 

「それじゃ、Oさんの携帯番号を教えて下さい。そこにショートメールで僕の電話番号とメールアドレスを書き込んでおきます。その方が確実だと思いますので。」

「はい承知しました。私の方からは、これまでの経緯が分かるメールを送るようにします。」

そう言って、O君の電話は切れた。

二、三日が過ぎて、彼から3回に分けて、同窓会メンバーの消息を伝えるメールが送られてきた。「このメールは、現在、次の30名の皆さんと共有(送信)しています」という言葉とともに、懐かしい名前がずらりと並んでいた。 僕はそのお礼を兼ねて、O君に次のように返信した。

「Oさん  

この間の盛沢山の情報を拝見しました。懐かしい顔ぶれに少々感激しております。  

札幌に移ってからは、M町には早い時期に実家もなく、そちらに戻る機会もありませんでした。また、私は、あまり過去を振り向かない質で、この間も昔の仲間と連絡を取り合うようなことはありませんでした。いま、Oさんのおかげで、あの「良い時代」の面影を追っています。

11月5日には、皆さんとお会いできることをとても楽しみにしています。                                                       

                          ミャンマーヤンゴンより                               

                                M・O    」 

 

O君からのメールを送ってもらった日の翌日、僕は、仕事でミャンマーに向わなくてはいけなかった。このため、その返信はヤンゴン市内のホテルの一室からのものになったが、普段は実にドメスティックな仕事をこなすことに負われている日々である。その合間を縫って、時折、インドネシアベトナム、北京や上海に向かうことがあるけど、長く滞在することはなく、単なる出張の延長に過ぎない。

ところで、O君からいただいたメールの中では各人がそれぞれの半生を記しているが、そこで僕は、僕にとって最も身近であった三人の友への手紙の形を通して、このメールの一覧に刺激された僕の高校時代の「こころの記録」を綴ってみたいと思う。

H君へ

H君、キミがME中学校に転校して来たのは、三年生になった年の春のことだった。新しい転入生がとてもすごい運動能力を持ったスポーツマンだという噂がどこからともなく僕の耳にも届いいた。

君が僕のいる三年C組にやって来た日、隣の組の運動クラブの男の子たちが教室に覗きに来たことを僕は今でもよく覚えている。陸上部の清野君も来た。君は、まるでシルベスター・スタローンのような、まだ14歳の少年にしては不可思議に思えるほどの隆々たる肉体を持っていた。

君は体育の時間にいきなり鉄棒にぶら下がったかと思うと、あの大きな身体にもかかわらず、いきなり大回転をやって見せ、周囲を驚かせた。マットでは軽々と空中回転をしてみせた。冬には、群を抜いたスピードスケート走で周囲を魅了した。

それでも、高校生になった時、君は言った。確か1メートル78センチの君が僕にこう言ったんだ。

「Mちゃん、俺はコンパスが短いから、三段跳びでも限界があるんだ。」

その頃、十勝では大会記録を更新した君だったが、全道大会ではいつも2番手だった。同種の協議では大柄な選手が沢山いる中で、君は必ずしも背が高い方ではなかったのだろう。そのことが君にそうしたことを言わせたのだろうか。

僕は、君の素晴らしい運動能力を認めて、言った。

「スピードの選手になった方がいいよ。この十勝でトップになれば、君はオリンピック選手だって夢じゃない。陸上じゃそれは叶わないだろうけど。」

でも、君はやがて三段跳びで国体に出場し、見事全国の準決勝まで進んだ。同じ頃、あのスポーツマンとしては小柄で、ひょうきんな山河君が棒高跳びで全国2位になった。やがて、清野君も地方大会でやり投げの記録を更新した。もう一人の清野君は野球で全道大会まで進出する快投をみせて話題になっていた。

僕はその後も、スピードスケートの選手H君を勝手に想像し続けていた。

1988年の長野冬季オリンピックで、同じ十勝出身の、わずか162cmの清水宏保選手が500メートル走で金メダルを獲った時、僕は君の姿を重ね合わせて見ていたんだよ。

そう言えば、君も覚えているだろうか?

僕たちの学校では、体育の授業に剣道と柔道があったんだ。別館で行われた授業の、ある日、柔道部の選手たちを相手に君は次々と倒し続けて、彼らが悔し涙を流したことがあった。それで、誰がこいつ、つまりHを倒すのか、男子生徒の間で話題が持ち切りだった。

その時、誰が君を倒したのか、覚えているかい?

柔道部のやつじゃなかったんだ。同じ陸上部の清野君だよ。清野君は一度は組手を見せておきながら、いきなり頭から君の胸元に向って突進したんだ。君はたまらず仰向けになってマットの上にドッと転倒した。そこにいる全員が大きな喝采に沸いたのを僕はよく覚えている。それほど君は何をやっても高校生離れした筋力の持主だったんだ。

もう一つのエピソードを話そう。

これは全校で普通科が9クラスしかない小さな高校の中での、つまり1年生から3年生までを一緒にしたクラス対抗バスケットボール大会が行われた時だった。確か、学園祭の一齣だったとったと記憶しているが、小さな1年生が大きな2年生や3年生に太刀打ちできるわけがないと思われた。ところが、どうしたことか、あれよあれよという間に勝ち進み、とうとう決勝まで僕たちのクラス、1年A組は上っていったんだ。そのチームの中で、君は抜群の冴えをみせて、自分より大きな2年生、3年生より優れたジャンプ力を発揮して次々とボールを奪い、あるいは阻止をした。それを観ている僕たち、わけても女の子たちは興奮の声を上げて夢のようなシーンを応援していた。

これは敵わないと思った3年生が君の俊敏な動きを封じるために足をかけたり、背中を押したりし始めた。先生たちもその様子を見ていたが、誰もそれを止める者はなく、結局、1年A組は2位にとどまった。

でも、僕は覚えているんだ。君がさっぱりした様子でその大会を満喫していたことを。いや、僕たちも得も言われぬ満足感に浸っていた。

 

2年生になり、やがて3年生になる頃、僕たちの教室は、いつのまにか大きな二つのグループに分かれていた。岩田君らのグループと、僕たちのグループとが、まるで水と油にように、互いに別行動をとることも珍しくなかった。いまから考えると、街中に住んでいる連中と、その他つまり周辺からやってきた連中との棲み分けみたいな形で、僕たちはクラスを二分していたのである。

それが頂点に達したのが、修学旅行で起こった「事件」だった。ちょうど京都・奈良を巡っているバスの中で、前列を占めていた僕たちがマイクで歌を歌い始めると、後部座席の連中が突然別の歌を歌い出すという騒動が生まれた。

「おい、こっちが先に歌ってんだ。邪魔するな。」

「お前たちだって、勝手に歌ってんだろう。こっちが勝手に歌ってどこが悪いんだ。」 ま、こんな子供じみたやり取りをした。

僕は、その時、そのバスに担任の勝海先生はもとより、校長先生も同乗していたので、咄嗟に先生に申し訳ない場面を見せてしまったことを後悔している自分を覚えている。  

それはともかく、こういう事情もあって、僕たちはいつも同じ顔ぶれでよく集まることがあった。僕がクラスの役員をやっている時などは、学芸祭や体育際の準備に追われた場合、いつもH君やA君、それにO君、Y君がいた。O君は、その祭典準備で大きなアーチ作りをしていると、いつも黙々とベニヤ板貼付け作業や色塗りを手伝ってくれていた。A君は作業が深夜近くになってもいつも最後まで残って手伝ってくれた。そんな仲間だったから、時折り、中学校の校長先生だった君の家に、ご両親が留守のところを狙ってしばしば集まったことを覚えている。それも、必ずといってよいほど男女同数だった。台所を使わせてもらって皆で調理したものを囲んでは時間を忘れて愉快な時を過ごしたこともあった。

それだけじゃない。僕は君の家に単身でよく遊びにでかけたものだった。実を言うと、友の少なかった僕にとって、これが青春時代では初めての出来事だった。独りで友人のお宅に訪ねるなんて思ってもいなかったんだ。君と君のご家族は、いつも気弱な僕を温かく迎えてくれたので、それが嬉しくて何度もお邪魔することになった。そうしたH君が僕に二つのことを教えてくれたように今でも思っている。

君はもう覚えていないだろうが、一緒にいる間、僕たちはよく洒落やジョークを飛ばしては笑いこけて、愉快な時間を過ごしていた。そんな時、僕は君の天性の優れた運動能力を羨ましく思い、よく言ったものだった。

「僕は母親の体内に、運動神経を置き忘れて来た人間だ。」

すると君は必ず真顔でこう言ったんだ。

「そんなことないよ。Mちゃんは、決して運動に向かないことはないよ。ただ自分にそう決めつけているだけなんだ。そうした考えは、Mちゃんにとってもいいことじゃないよ。」

高校3年の時、たまたま体育の担任がスポーツ指導に成果を出し続けたT先生から地元の教育大学を出たというS先生に代わった。S先生は、前任者と比べて陸上部の指導者としては見劣りするものの、スポーツの得意でない僕のような生徒にも分け隔てなく丁寧に教えてくれた人だった。やがて、H君のアドヴァイスも手伝って、この僕でもマットの上で空中回転をできるほどになった。とうとうクラス対抗の冬のスポーツ競技ではスピードスケートでクラス代表の一人に選ばれて「選手」になったこともあった。むろん、人生においてスポーツで人前に出るなんぞ、これが最初で最後のことだった。  

H君、キミは僕に、自分の殻を打ち破ってチャレンジすることの大切さを教えてくれたんだ。(ちなみに、この年、僕は学校の成績で体育の科目が生まれて初めて「4」になった。それまでは例外なく「2」だった少年が勝ち取った勲章だった)  

もう1つ、君が教えてくれたものがある。 体格に恵まれたH君だったが、それを自慢することもなく、いつも人に気を使う優しい少年だった。君は僕に、能力も特技も異なる人間の間で一番大事なことは、何より人に対する「優しさ」というものだと気づかせてくれたんだ。ちょうど、この頃の僕は、自分を成長させることに夢中で、その「優しさ」というものを失いかけている時だった。それだけ余分に、君の自然な振る舞いが僕には堪えた。僕がいつの間にか仲間を大切にすることへと向かったのも、そうしたH君と親しい友となれたことが大いに役立っている。

そのスポーツ万能のH君がやがて日本体育大学へ進んで、僕は札幌の大学へと道が分かれていった。

そして君は高校の体育の先生になって北海道に戻ってきた。

札幌で会った時、君は言った。

「今の高校生は体が僕より大きい奴が結構いて、新米先生のお出ましをニヤニヤしながら待ち受けていた。だからMちゃん、僕はまず彼らの前でやって見せたんだ。体育館の端から端まで逆立ちしたまま歩いてやったんだ。そうしたら彼らはその時から態度を変えたんだよ。」

この時ほど、僕が君を友に持ったことを誇りに感じたことはなかったよ。

その君が、何度も大怪我をし、ましてや困難な病に冒されたりしたなんて、僕には驚きとしか言いようがないことだった。僕の記憶の中の君は、いつまでも健康で明るく、鋼のような身体を持ったH少年だったのだから。そして僕はいま、改めて、あれほどご親切を受けたお父様やお母様に遂にお会いすることもなく時を過ごしてしまった自分を恥じてもいる。

A・Kさんへ                                 

Kさんとは3年生になってから、沢山のことを話しならがら、よく学校帰りに肩を並べて歩いたことを覚えています。そうした話題の中には、H君と仲違いしていた僕たちのことを心配して、しきりに僕の方から折れなくちゃいけないと君が言っていたこともあった。クラスのYさんが僕のために編んでくれたマフラーを受け取らないのは勇気がないからだとも言ってくれたこともありました。

その頃のKさんは、僕よりはるかに大人で、いつも周りにいる友のことを優しく見つめる眼をもった人だった。そのたびに、僕は自分の小さすぎる心を覗かれたような気がしていました。

こう言ってはあなたに失礼かもしれないけれど、あの頃、そうした二人の帰り道の様子を覗き見て、まるで恋人でもあるかのように噂していた友人もいたほどでした。確かに、僕たちは「特別な関係」にあったと思う。一体何を話しながら、飽きもせず(?)、毎日のように一緒だったのか、今になってはよく覚えていないのですが、僕にとってもあの僅かな時間が充実したものであったことは確かです。

時折り、ご自宅に寄らせていただいて、お母様に二階の部屋まで案内され、ラーメンまでご馳走になったこともよく覚えていますよ。

話は少し逸れるけれど、僕は中学校に進んで初めてクラスの役員のメンバーになった。それまで人前でほとんど声を発しなかた僕は、いつその場から姿を消しても誰も気づかないようなおとなしい少年だった。小学校の時には、あまりに音声を発することがなく、授業でも反応がないので、「この子は少々知恵遅れなのでは」と疑われたことさえあったんだ。その僕が成績だけの評価で生まれて初めてクラスの役員の一人になった。 そんなある日、級長になった大沢茂君と北海道銀行の支店長の娘だった石山さん、そして僕とKさんの四人で、ある事を巡って話し合っていた。クラスの席順を決めることが話題だった。僕たち四人は、廊下で立ち話をしていた。意見がまとまらず、とうとうあの秀才で知られた大沢君がしびれを切らしたように言った。

「じゃあ、君たち一人一人の意見を聴こう。」

あなたと石山さんは適確に何か意見をいった。そしていよいよ僕の番になった。 なにせ人前で何かしゃべることさえ経験がなく、ましてや初めてクラスの役員になったばかりの僕には何か気の利いた意見を思い浮かべることもできなかった。 それで、僕は正直にこう言ったんだ。

「僕にはよく分からない。」って。

そうしたら、大沢君が厳しい目で僕を見つめたまま言った。

「君は卑怯だ。自分の意見を言わない奴は卑怯だ。」

僕にはその意味がすぐには判らなかった。でも、どういうわけか、その大沢君の言葉だけが強く僕の胸に残った。以来、僕はたとえ間違ったことを言って人に笑われても、まず自分の意見を持ち、それを口に出すことのできる人間になろうと思ったのである。(もっとも今では誰かが止めるまで話を続けるほどになってしまったのであるけれど……)

 

ともかく僕は音声を発しない子供だった。

先生に口を開くこともなかった。そんな調子だから、ついに「知恵遅れか」とまで通信簿に記入されるあり様だったのである。そんな折、母子家庭の貧乏な家に、夏休み前の通信簿が運ばれ、そこに「この子は物事をちゃんとしゃべれない」という趣旨のことが書かれていた。普段は成績のあまりの情けなさにも叱りはしなかった僕の母が、火のついたように僕の不甲斐なさを詰(なじ)った。

「男の子が甲斐性がないなのは情けない。」と。

まだ軟な子供ではあったけれども、この母の言葉は僕には堪えた。その日、僕はいたたまれなくなって外へ飛び出し、夜の街をしばらくさ迷い歩いていたことを覚えている。

僕がいかに人前で話すことを怖れていたか、君には解るだろうか。それはまさに僕にとっては一つの明確な恐怖だったんだ。

これも一つのエピソードであるが、小学校6年の前期(実は、後期から僕の学校も給食が導入されたので、弁当を持っていく必要はこれが最後だったが)、お昼休みの時間に貧相な弁当を広げた時だった。箸を忘れたのである。

すでに話したように、人前で音声を発することが苦手だった僕は、先生に「箸を忘れた」というくらいなら、弁当なんか食べなくてもいいやと決め込んでいた。クラスの全員が昼食をとっている間、僕は自分の席でじっとしていることにした。

すると、すぐ後ろの席の大柄な女の子、古出きみえ(?)さんがその様子に気づいて、大声を上げたんだ。

「先生、Mさん、箸を忘れたんですって!」

僕は全身から冷たい汗が流れだすのを感じた。

その時、僕のこと、つまり少年Mの<脅える心>を解できたなら、担任のN先生は、そっと箸を差し出すだけにで済んだはずだった。なのに、手に持った箸を僕に渡すことなく皆の前でこう言ったんだ。

「M、お前、箸を忘れたんだったら、なぜ言いに来ないんだ。」

僕は貝のように口を閉じたまま箸を受け取ることもなく、その1時間をじっと過ごした。むろん、弁当には手をつけることもなかったのである。

そんな気弱な少年であったが、やはり先の母の言葉はずは僕を責め立てた。この情けない自分をどこかで変えなくちゃいけないと思い始めていた。

Kさん、最初に何を試みたと思う?

なかなか想像がつかないことから僕は始めたんだよ。

先ず、少年M君は、音声を発することを練習することからスタートしたんだ。それは、国語の教科書の音読をすることだった。とにかく、毎日、教科書を広げては音読を続けた。 そして、とうとう国語の授業の時間に僕は先生に当てられてその国語の本を大声で読み上げることになった。けれども、やはり極度の緊張が僕の全身を襲って、練習していたほどには勢いよく読み上げることができなかった。それでも、情けないM少年にとっては、いつもよりは上手に読めたんだ。

そこから先のことも僕はよく覚えている。N先生は、こう言ったんだ。

「お、お前でも結構読めるじゃないか。」

僕は再び自信を失いかけていた。でもその時、僕は少しだけこうも感じたのである。

「せめて、先生が、<M君、今日はいつもより上手に読めたね>って何故言ってくれなかったんだろう」と。

僕は分かれ道に立っていた。 この時、「ああ、僕はやっぱり駄目なんだ」と思い込んだとしたなら、僕は自信を失ったままの人生を歩んでいたことだろう。だが、かろうじて僕は思うことができた。

「こんなに努力したのに、先生は何という残酷なことを平気でいうのであろう」と。

わずかな抵抗にも似た感情がふと湧き起こったことだけが救いだった。僕はその夜も音読を止めなかったのである。

やがて僕は、いつしか学校の先生になりたいと思うようになっていた。何故なら、先生のほんの少しの言葉が生徒たちの人生を左右することがあるだろうと、その時感じたからである。実際、僕は愉快な高校時代を過ごした後、本気で先生になろうと思い、一度は札幌教育大学へ進学したのである。

Kさん、その次に僕がチャレンジしたことを当てられるかな?

M少年は、次に意外な行動に出たんだよ。

当時クラスで一番口八丁手八丁の男の子に急接近したのである。それが岩田ライオン堂の岩田孝一君だった。いまで言えば、いじめられっ子といじめっ子の奇妙な組み合わせだ。実際、彼にはよく泣かされもした。何を考えているのかも分からない、まっとうにしゃべることもできない少年だったから、それも当然のことかと思っていた。

でも、人間って不思議なものだね。愚図な少年でもいつもくっついていると、そのうち情が移ったのだろうか、ある土曜日の午後、僕たちは肩を並べて、と言いたいところだが、実際には僕が岩田君の少し後についていっただけなのだけれども、彼が何を思ったのか、こう言ったのである。

「おい、お前、今日は俺の家へ寄っていけよ。姉貴が美味しいカレーライスを作ってくれるっから。」

僕にはとても怖れていたことが訪れたような気分だった。岩田君の家まで行って、お昼まで呼ばれようなんて思ってもみなかったことだったから。でも、僕は「それは嫌だ」という断りをしゃべることもできなく、ただ黙ったまま彼の背中について行った。

岩田君の家は、マッチ箱のような「小さな家」に住んでいた僕にはとても「大きな家」に見えた。だんだん小さくなっていく自分を感じながら、僕は岩田君の部屋だという6畳のがらんとした空間に入っていった。

「いま、姉貴にカレーライスを注文してくるから」と言い残して彼がその部屋を出た後、僕にはその広い部屋で身を固くしたままじっとしていたのである。すると、部屋の片隅に将棋の駒と盤が置いてあるのに気づき、僕は何するともなしなにその駒を絵文字を作って将棋倒しのように横に立てて並べていた。

「おい、いま作ってるから。姉貴のカレーは旨いんだぞ。」

岩田君がいきなりドアを開けたので、僕は咄嗟にその将棋の駒をパタパタと倒してしまった。その時、岩田君がこう言ったのを僕はよく覚えている。

「お、お前、面白いこと知ってるな。」

これが気弱なM少年にとって、餓鬼大将のような岩田君から認められた瞬間のように鮮明に記憶されることになった出来事だった。やがて、下手糞ながらも、自ら進んで手を挙げて教室で発言するようになった。いじめられっ子は、岩田君の喋り方を物まねするとろから始めたのである。その岩田君がすでに故人となったなんていまでも信じられません。

 

一事が万事、こんな具合だったので、クラスの女の子と向き合ってお話することなど、とうていありえなかったのです。そうした僕があなたと学校帰りに、肩を並べて会話を続けていたことは大変な出来事だったのです。

だから、あなたがご結婚されるとの手紙をいただいたとき、あたかも自分のことのように嬉しく思ったものでした。その式典には出席できませんでしたが、近くにお住まいだと知って、急いで新居に訪ねていったのもその気持ちを伝えたいがためでした。

やがて僕が結婚をした後も、妻に時折、あなたのことを話すことがあり、よく言われたものでした。

「また、Kちゃんのことね。」

なのに、連絡を取り合うこともなく、今日まで過ごしてきました。

でも、一度だけ、十勝の中札内に住んでいる姉夫婦を訪ねた折、車でM町の街まで出かけたことがありました。秋風が通りぬけていく街の様子はすかっり変わり果てていて、岩田ライオン堂もなく、Kさんのいたラーメン店も無くなっていました。僕には、あなたのお母様にお礼を言うこともなく過ごしてしまったことが強い悔いとなって押し寄せてくるだけでした。

そのA・Kさんが50年目の同窓会に出られないと聞かされ、僕はいま、H君と一緒に、あなたの住んでいる、北海道の北斗市に向う計画を立てています。

A君へ                    

いよいよ高校生活が始まるというその日は1人の男子生徒に注目が寄せられていた。ME高校開校以来の点差(2番目の優秀な生徒との差、O君か)でトップに入学したという男の子が1年Aクラスにいるというので、僕たちは戦々恐々としていた。あの一番壁側の最前列に座るやつがその噂の男の子だということだったので、どんな気難しい子がそこに坐るのか固唾呑んで待っていた。

それがA・M君だった。

君は、少しも気取ったところがなく、また気難し様子もなかった、大人しい少年だった。僕は君の前に歩み出て、初対面の挨拶をした。君は少し目を下に向け軽い笑みを浮かべて応えた。女の子のように細面で、頬に赤みのある顔立ちの子だった。それがA君についての僕の第一印象だった。

噂によると、A君は、入学してすぐにテニスクラブに入会したということだった。それを知ったのは、近所の1学年先輩の女の子が僕の姉のところにやって来た時、こう言ったからだった。

「え、あの子がA君なの? とてものんびりしていて動きもボーとした人よ。」

その年、北海道新聞社の特別奨学金を受けた全道8人の中に選ばれた天才君、A君って、こんな人だった。むろん、ボーとしていたわけではないが、時おり、何かを考え込んでいるようにも見え、そのくせ取っつきづらいところは微塵もみせなかった男だった。その様子が僕は好きだった。いつの間にか僕たちは友達になっていた。

 

その彼が凡人の僕たちとは少々違う様相を見せたのは、数学の時間だった。方程式を黒板に向って綴っていく先生の説明と記述を観ながら、僕たちは時々、先生のミスを発見することがあった。そんな時は決まって意地悪な声で誰かが言ったものだった。

「先生、それ、ちょっと違いますよ。」

多分、それだけで先生のプライドは十分すぎるほど傷つけられただろうと思われた。 だが、A君の場合は違った。

彼はそんな野暮な事は言わなかった。彼はさも得意げに先生を攻撃することもなかった。 そうでなく、先生が初歩的なミスを犯した時、彼はクスクスと笑ったのである。A君にとってそれは“けしからん”と思ったのではなく、“可笑しい”と感じたのであろう。 そんな調子だから、数学の時間に、君がクスクスと小さな声を発するたびに、先生はよくおろおろしたものだった。僕には先生が気の毒に思えたほどだった。

その先生が1年生の最後の試験結果を生徒全員に手渡すことになった。A君の番になった時、思わず、先生がニヤッと笑ったのを覚えている。その後、先生は僕のそばでこう言ったんだ。

「あいつでも間違えることがあるんだな。あいつの頭を割って中を覗いてみたいよ。」

君は田舎の高校の試験では期末試験・中間試験を通していつも百点を取り続けていたということだった。それが、学年の最終期末試験で一つのミスをやったらしいのである。実は、この頃の僕も数学は得意科目の1つになっていたのだが、上には上があるものだと思い知らされ、自分がいかに凡庸な才能の持ち主であるか厭が上にも自覚せざるを得なかった。それでも僕たちは友達であり続けたのである。

こんなエピソードも覚えているよ。

2年生になる時、クラスの編成替えがあった。僕はその時、一つの企画をめぐらしていた。初めて同じクラスになる人もいっぱいいるので自己紹介の意味も込めて、1人ひとりに「3分間スピーチ」をお願いすることにしたのである。いよいよ、A君の番になった。一同が彼が何を言うか注目している。まだ口下手な君は、登壇した後もやや俯き加減で少し間をおいたのち、ぽつりとこう言ったんだ。

「あのう、どんな問題でも時間さえ与えられれば、必ず解けると思う。」

これ、まさに君だから言えたセリフだ。僕がえらく感動していると、すぐ後ろの席で、T君がニヤニヤしながら言った。

「おれに時間をくれても無駄になるだけだな。」

思わず、僕たちはクスクス笑った。

 

高校3年生の時だったと思う。

アメリカの宇宙船アポロが月面着陸を果たして、アームストロング船長が「この一歩は小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩だ」との名台詞を刻んだ。同じ年、札幌医科大学で日本で初の心臓移植に成功したとのニュースが流れた。科学技術の進歩が明るい未来を約束してくれるかのように眩しく見えた時代だった。体育の時間の合間に、二人でこの二つのビッグニュースについて語り合っていた。

「すごいね、人類が月面に立つなんて。まるでSFの世界がやってきたみたいだ。」

「宇宙船の時代になって、僕たちの時代に自由に月を往復することになるかもしれない。」

そんな会話のはずみで、僕は言った。

「それにしても、心臓が移植できるなら、その他のもの、肝臓でもなんでも移植できるようになるだろうね。でも、人間の脳だけは無理だろうね。」

すると、君が急にニコニコし出したので、僕は咄嗟にこれはやばいことを口にしてしまったのではないかとの不安に襲われた。

君が言った。

「脳以外のすべては移植できるんでしょう?」

「ああ、脳以外はね。」

「それなら大丈夫ですよ。脳にすべてを移植すればいい。」

僕と君とはこんな他愛無いことを言い合っては、愉快な時間を過ごしていたんだ。

 

いよいよ大学受験となった時、君は東京工業大学を受けたが、やはり田舎の高校からそこにストレートで入るのは無理だった。確か札幌で会ったとき、僕は君にこんなことを言ったんだ。

「A君、キミは札幌の予備校に通った方がいいよ。そうすれば、キミは望むところに進むことができるだろう。北大の医学部でも、東工大でも好きなところを選べるんだ。」

その時、君はこう言ったんだ。

「でも、受験勉強は面白くないよ。」

そう言い残して、君は当時国立二期校だった東京の電気通信大学へ進んだ。 その後、君が大学卒業後NECに入社し、長い間、磁気ディスクや半導体の仕事を手がけてきたことを知って、君が「僕たちのA.M君」らしい人生を歩んできたことに僕はなぜか我が事のように誇りに思っている。

 

最後に、もう一つ。

君は「竹本君」という男の子が僕たちのクラスにいたことを覚えているだろうか。君の宿舎の上に住んでいたクラスメイトだった人だ。何故か、僕は彼のことを時折り思い出しては、すまないことをした、という気持ちがいつまでも続いているんだ。

少し背の低い、口数の少ない男の子だった。学芸祭が迫ってきたある日、竹本君が僕たちのグループに近づいてきて、「僕も一緒に準備を手伝いたい」と言ってきた。その時、僕たちは彼を仲間に入れるのじゃなくて、「それなら君がやりたいことをやって見せたらいいじゃないか」と幾分冷たい反応でもって応じたんだ。

彼は出し物の劇のシナリオを書くと言っていた。それを聞いていた仲間も校内で彼の姿を見かけると、「おい、竹本、シナリオは出来たのか」ってからかうような声をかけたりしていた。

そんなとき、誰かが僕のところに飛んできて、「竹本君の様子が変だ」と伝えてきた。ぼくは君の宿舎に向い、その様子を尋ねることにした。君の話では、君の部屋の真上に住んでいる竹本君の声が深夜になっても収まらず、それどころか同じ台詞を何度も反復していて、その声もだんだんと大きくなってきたという。ちょうど、カセット・テープを空回りさせているような感じで、それは一晩中繰り返されたとのことだった。

彼は、自ら引き受けた責任に圧し潰されて精神のバランスを壊してしまったんだ。そのことを知ったとき、僕は「シマッタ!」と思い始めていた。なぜ、彼にもっと親身になってやれなかったのか、僕は後悔していた。

二人で、帯広の緑が丘病院へ行ったとき、竹本君は落ち着いていたように見えた。でも、それが彼と出会う最後となった。

人間とは難しい生きものだ。自分が幸運に恵まれているときには、他人の孤独にも気づかない。かつて自分がそうであったことさえも忘れてしまうんだ。 A君、キミと一緒に竹本君を見舞いに行った帰り道、僕はそんなことをひそっり胸の中で考えていたんだよ。                            (2017年11月3日、記)

…………………

11月5日、皇居を目の前に眺める竹橋のKKRホテルの11回の一室で、「50年目の同窓会」が開かれた。北海道と関東に暮らす23名が集ったその同窓会で、僕は、懐かしい友たちに囲まれて、愉快な時間を堪能した。

 

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15年後の夜

 岐阜からやってきた知人を案内しようと、僕は単身赴任先の東京から札幌に飛んで、久しぶりの札幌すすき野の案内役を買って出ることにした。地元の友人の招待で、ちょっと贅沢な和食を囲んで陽気な時間を過ごした後、彼らを率いて得意げに言った。

「まだ、札幌で仕事をしていた頃に、毎週のように通ったスナックがあるんだ。そのまま残っているかどうか判らないけど、とにかくそこを訪ねてみようと思うんだ。」

僕は彼らの先頭に立って、目当ての店のある繁華街のビルへ向かった。もうかれこれ10年以上も御無沙汰しているところだ。

そのビルの5階の奥に、「マラガ」と記した横に細長い看板があった。

「ここだよ、僕が通った店は。」

とても懐かしい人に出会ったかのような喜びを感じて、僕は胸の高鳴りを抑えるようにして声を上げた。

 

スナック「マラガ」の濃い褐色のドアを開けて中に入ると、レイちゃんが独りで店を守っていた。彼女は、僕の姿を認めて驚いた様子だった。長い黒髪をトレードマークのようしているレイちゃんは、以前と変わらず、あれから長い時間が過ぎたことを忘わすれさせるほどだった。

懐かしさのあまり、僕は思わず言った。

「レイちゃん、全然年取らないね。昔のままだよ。」

穏やかで物静かな彼女が、僕に水割りをすすめながら、昔を思い起こすように語り始めた。

「Mさん、どれほど会っていなかったのかしら。どう言えばよいのか、でもあなたに真っ先にお伝えしたいことがあるの。ママも理恵さんも、二人とも亡くなったのよ。」

「え、ママも理恵ちゃんも?」

「そうよ、ママが亡くなってもう9年にはなるわ。3年半の闘病の後、静かに眠るように亡くなったの。家族葬だったけど、一泊の葬儀に参列したわ。」

 

10数年ぶりに訪れた小さなスナックの店の中で、僕はあのママの死を知らされた。この店がまだ「リオン」と名乗っていた当時のままの姿がそのまま残っている。レイちゃんは、そのママが引退した後を継いで今日までこの店を守ってきたのだった。

「それだけじゃないの、ママが自宅に戻って最期を迎えようとしてしていた時、私は理恵ちゃんと一緒にお見舞いにいったのよ。ところが、その彼女がママの一周忌の前にすい臓がんであることが分かり、それから1年と7カ月で逝ってしまったの。私一人が残されてしまったんだわ。」

僕はここで過した楽しい時のことを思い出しながら、二人の死を知らされて、ただ茫然としていた。

…………………

札幌すすき野の夜景はやけに明るかった。もう夜の9時を過ぎているというのに人影が少なくなることもなく、それどころか、賑わいはこれからといった勢いだった。僕は、いつものように黙ってみんなの後ろについたままそのラウンジに入っていた。軽音楽が流れ、走馬燈がくるくる回る広いホールを囲むようにしてカウンターやソファーセットの置かれたお店が幾つか並んでいる。どの店の客たちも陽気に振る舞っていた。

「ママ、バーボンがいいな。水も一杯くれないか。」

僕の職場の大先輩が、目鼻立ちのすっきりとした和服姿の女に声をかけた。

まだ20代半ばだった僕には随分年上の大人の女に見えた。その女は物静かに腰を折り曲げて承りましたという姿勢を覗かせたかと思うとそっとその場を立ち去った。しばらくして、他のテーブルに挨拶をしてまわっていた彼女がまた僕たちのテーブルに戻って来て、注文の飲み物とつまみと一緒に笑みを運んできた。どことなく陰があるものの気品ある微笑みだと思った。

少し年上の先輩が、「こいつはあまり酒が飲めないから、薄い水割りでもやってくれ」と言っていたので、その女性は音も立てずに僕の前に薄められたウィスキーの入ったグラスを置いた。そして、またすーっと姿が見えなくなった。

 

誰かが言った。

「ここは、一つの広場だけど、周囲の一つひとつの店にそれぞれママがいるんだ。でも、俺はこの店のママが一番だと思っている。」

僕は、いまは姿の見えなくなったその女の美しい表情を思い描いて、訳もなく頷いた。無口な僕にいつも気を配ってくれているUさんが、突然、一同の笑いを誘う愉快な話を始めた。その滑稽さに僕たちも腹を抱えて大声を出して笑った。この男は、いつもこんな場所にやってきては、周囲を和ませるコツというものをよく知っている男だった。

いつの間にか、ソファーの斜め向かいの黒皮の椅子に腰をかけていたママが白い歯を見せて笑っていた。僕はその何とも言えない笑みが彼女をさらに美しくさせているように感じた。

そのお店に連れていってもらうことがしばらく続いた。その度に、先輩たちが「やあ」とか「お久しぶり」とか声をかけるので、僕には彼女と挨拶を交わす機会すらなかった。何度通っても黙って大きなテーブルを囲んで並べられた椅子の一番端の方に坐っていた。そもそも、アルコールも進まない僕だったが、こうしたお店ではしゃぐということはなかった。いつも酔いつぶれた同僚や陽気に振る舞う先輩たちの様子を斜めから観察している方が僕には性に合っていたのである。

 

ある日、Uさんが「別用がある」と言っていつものこの店に現れなかったことがあった。そんな時、ママは静かに佇んだままで、白い歯を見せることもなかった。その時、僕は何故か理由はとくになかったのであるが、そのUさんに代わってママを笑わせることが自分の義務でもあるかのように感じて、必死の思いで、はるか昔にラジオで聞いた小噺や落語、漫才のことを思い出しながらみんなの笑いを誘う話を始めた。周囲は突如として口を開いた僕に驚いた様子だったが、やがて僕の話に合わせて普段と同じように盛り上がった。とうとう彼女も白い歯を見せて笑った。それが嬉しくて、僕はさらに笑い話を繰り出した。

それは一つの至福だった。僕にとって彼女の笑みは宝物のように思えた。そして、彼女の飾らない笑顔に僕は夢中になった。

 

それから数年も過ぎたころだった。

Uさんが、広い職場の隅の方でぽつんと一人残って仕事をしている僕の机のそばに来て、大きな声で言った。

「お前、そんな分厚い眼鏡をかけて、そんなに細かい字を読んで楽しいか?」

そう言ってド近眼の僕を大袈裟にからかったのである。そして今度は、声のトーンを下げて言った。

「おれはこれから飲みにゆくが、お前もついてくるか。その仕事は明日でも十分だろう。」

彼は、背中を丸めて机に向かっている僕のことを思ってわざと声をかけてきたのだ。僕はこの先輩がとても好きだったので、仕事の手を休め、「そうですね、では遠慮なくお供します」と返事をした。

もう外は真っ暗だった。近くのホテル前でタクシーを拾い、僕たちはネオンが輝くすすき野に向った。車の中で、Uさんが言った。

「お前、フランス広場にいたママを知ってるだろう。あのママが自分の店を持ったんだ。なに、ちっぽけなスナックだから大したところじゃないけどな。」

まるで僕が彼女に憧れを抱いていることを見透かしていたかのようだった。

 

スナック「リオン」はすすき野の端のビルの5階にあった。

店の中には、半円形状の大きなカウター席があり、奥の方に7,8人は座われそうなソファ席があった。その奥の席でお客さんたちを相手にしていたママが立ち上がって、こちらを振り返った時、僕はお思わず緊張している自分に気づいた。彼女の方も驚いた様子だった。

僕たちは、カウンター席に並んで腰をかけた。中には二人の女の子がいた。ショートカットの一人は「理恵」と名乗った、なかなか利発な女だった。もう一人は長い黒髪が印象の、おっとりした感じの人で、「礼ちゃん」と呼ばれていた。

Uさんが、愉快な話題を提供し、彼女たちはそれに合わせて、よく笑った。カウンターのこちら側で黙っている僕を指してUさんが言った。

「こいつ変な奴でね、細かい字ばかりを見ているかと思うと、話の中味がやけにリアルなんだ。どうしてこいつに世間のことが解るのか、奇妙な奴だよ。」

先輩は、日頃何かに憑かれたような眼をして細かい文字や数字を追いかけている姿を揶揄しつつ、その割には話に説得力があって、どことなく不思議な奴だと繰り返した。「こいつの書く文章も妙にリアルなんだ」と付け加えた。

その話に興味をもったのか、理恵と名乗る女が僕に尋ねてきた。

「Mさんは、何に関心があるの? お仕事や本が好きみたいだけど…、それ以外に。」

「いいや、特に趣味というものはないんだ。特技もないし、何の取柄もないつまらない人間…。でも、強いてあげれば、時折映画を観ることだけが僕の唯一の愉しみのようなものかもしれないな。」

と応えた。

「じゃあ、どんな映画がお薦めなの。これまで観た映画で一番よかったものは何?」

丸い小顔の理恵さんは、畳みかけるようにして訊いてきた。

奥の席の方から、どっと笑い声が飛んできた。半円形のカウンターでは、大きな花瓶に生けられた赤い大輪の花が褐色の壁を持つくすんだ部屋を華やかに彩っていた。礼さんは、相変わらず、次つぎと運び込まれてくるグラスや皿を洗いながら、時折こちらの様子を眺めては笑みを浮かべていた。

 

この時、僕は初めて人前で映画の話をしたことをよく憶えている。

「それは何といっても、映画『ひまわり』だね。知っているかい、あのマルチェロ・マストロヤンニソフィア・ローレンが出て来るやつだ。あの映画ほど、美しくて悲しい映画はほかに見たことがない。場面が美しければ美しい程悲しみもまたそれだけ深くなる作品だ。」

「それ、どんなお話なの?」

理恵さんが目を輝かせながら尋ねてきた。

「この映画は美しいだけでなく、芸の細かい演出がちゃんと織り込まれているんだ。冒頭のシーンで、とても幸せな若いカップルが、地中海に面する浜辺で、まるで子犬のようにいちゃついている場面が出て来る。この時ソフィア・ローレンの上になったマルチェロ・マストロヤンニが彼女を愛撫するように覆いかぶさるところで、急に咽(むせ)って慌てるんだ。何だ思う?」

「何かしら? で、それで?」

マルチェロは、彼女のイアリングを飲み込みそうになったんだ。それでいきなり咽ってしまったんだ。実は、この時のイアリングが、この映画のラストシーンで再び登場して来るんだよ。もう二度と一緒になれない二人が再会するというその場面で、それは、さりげなく登場する。それが心憎いまでの悲しみをもたらすんだから、たまらないね。」

「へえ、そんなにいい映画なの。私、早速ビデオを借りて観たいわ。」

「やがて二人は結婚し、これ以上ないと思われるほど陽気で幸福な時を過ごすことになるのだが、ちょっとしたことがきっかけで夫のマルチェロは、当時の対ロシア戦争に駆り出されて、その最前線に送られるんだ。もう生きては戻れないかもしれない。それが過酷な戦争ととともに、二人を永遠に引き裂くドラマへとつながっていくんだ。」

「場面が変わって、煤けた鉄のアーチが架かったミラノ駅で、戦地に赴いた若者たちを待ち受けようと、大勢の女たちがホームに押し寄せている。自分の息子を探す少し年老いた母親、夫や恋人の帰りを待ち続けていた若い女たち、その淋しい雑踏のなかにソフィア・ローレンがいる。みんなそれぞれの夫や息子たちのモノクロ写真を持っているんだ。誰か、私の息子、私の夫の行方を知っているかもしれないとの一縷の望み望みを抱いて。だが、夫の姿は現れない。疲れ切った様子のソフィア・ローレンの前を一人の兵士が通り過ぎようとしたとき、彼は突然立ち止まり、こう言うんだ。『仕方がなかったんだ。雪の降り積もったロシアの平原を必死で行軍を続けている間に、その真っ白な雪の上に、次つぎと若い兵士が倒れていく。今朝まで仲間だった兵士が倒れても誰も助けることなどできない、彼もそうした一人だった。僕にはどうすることも出来なかったんだ』と。」

理恵さんは黙って僕の話を聴いていた。話ながら煙草を口に咥えた僕の前でライターに火を灯した。そして、そのままじっと耳を傾けていた。

「激しく運命を妬むソフィア・ローレンが気を鎮めることもできずに荒れるんんだ。やがて、気を取り戻し、夫が生きているかもしれない、そうでなくとも彼の生死を確かめたいと思うようになり、当時は東西冷戦で東の国に行くことすら困難と思われた時代に、彼女は、その頃世界一長いエスカレータがあるとされたモスクワに渡るんだ。あれ、『冷戦』って、理恵さんたちにわかるのかなあ…。」

「わかりますよ。その時代のことだったのね。」

「そう、そんな時代の戦争の出来事が舞台なんだ。映画のタイトルの『ひまわり』というのは、その戦争で亡くなった無数の無名の青年戦士たちを弔うために設けられた墓地に、その弔いの意味を込めて造られた膨大な一面のひまわり畑を指してつけられたものなんだよ。それが、とっても美しくて、妙に悲しさを増幅させるんだ。その人間の背丈ほどに成長したひまわり畑の中を疲れ切ったソフィア・ローレンが通り抜けて往く。」

そして、僕は思わず声を上げて口ずさんだ。

≪ラララ―ラ、ラララララー、ララララ―ラ、ララーラーラ、ラーララーラー≫

「この花畑のシーンであのテーマ音楽が流れる。すると僕にあの悲しいシーンが次々と押し寄せてくるんだ。」

ママが奥の席から戻ってきて、あの笑みと一緒にいきなり声をかけてきた。

「Mさんのお話、とっても面白いわね。その映画を早速観みなくちゃね。今のお話だけも、もう映画をみたような気分だけど…。」

今度は、Uさんが口を挟んで来た。

「こいつやぱりへ変なやつだな。お前の映画話は初めて聞いたが、そこにいたわけじゃないのに、まるで昨日見て来たかのように話すんだから。面白いだろう、理恵、このド近眼の話。」

 

以来、僕は、この店に来るたびに映画の話を迫られることになった。僕は理恵ちゃんやママの笑顔を見たさに、「ひまわり」の後も映画の話を続けた。ビットリオ・デシーカ監督の「自電車泥棒」、スト破りがきっかけで周囲から孤立を深めていく「鉄道員」、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」などのいわゆるネオリアリズム作品のほかに、邦画の、曽我兄弟の仇討ちをテーマにした「富士の夜襲」や中村錦之助主演の「仇討ち」、そしてまだフーテンの寅さんになるずっと前の渥美清が出る「天皇陛下万歳!」、松坂慶子と真田弘之が光る演技を見せた「道頓堀川」といった作品も語った。やがて、男と女の別れと出会いを見事に演出した「別れ道」、黒人で初めてアカデミー賞を受賞した作品「夜の大捜査網」やあの型破りな映画「コンボイ」、映像美でも人を魅了した「ゴッド・ファーザー」の話もした。

どれもこれもすべて、二人の女性、ママと理恵ちゃんの笑顔を見たさに夢中になって語ったものだった。この頃の僕は仕事も充実し、その後は此処に来て、「もう一つの人生」を楽しんでいたのである。

むろん、アルコールに縁がなかった僕もこの店にボトルを置いて、友人や記者仲間を誘って訪れることも増えていった。東京に出向いて単身赴任で仕事をするようになってからも、札幌に戻ったときはよくここに通ったものだった。そうした日々が続いた後、突然ママが店を礼さんに譲って、すすき野から去っていった。それとともに、次第に僕の足は遠のいていった。

利発な理恵ちゃんともいつの間にか親しくなって、お店では彼女が難解なクイズを用意しては僕たちを悩ませたかと思うと、今度は、僕の方も負けじとさまざまなゲームを持ち込んでは彼女に対する反撃を試みたりした。その理恵ちゃんもやがて郷土の北見へ帰り、そこで結婚して幸せな生活を送っているとのことだったが、ママも礼ちゃんも、彼女との連絡先を教えてくれることはなかった。ここすすき野で暮らした女たちは過去をすっかり消して、次の人生を築いていかなければならないのかも知れないと思った。

 

ある時、ママが言った。

「フランス広場で雇われママをしていたときの松ちゃんの様子をよく覚えているの。ほとんど口を開かず、この人、ここにいて楽しいのかしら、と思っていたわ。そんな松ちゃんがこんなにお喋り上手だなんて。あの頃は、心配していたのよ。」

 

その僕を雄弁にさせたママの姿を一度だけすすき野の外で見かける機会があった。店を継いだ礼さんが、ママは南区で喫茶店をしているのよ、と教えてくれたのである。

ある日、その店を自分で車を運転して訪れた。住宅地の中にひっそりと佇んだその店に入ると、ママは1人でいた。一番壁際の席に座り、ぼくはコーヒーを注文した。二人きりだったので、僕は彼女を笑わせる話をすることもなく、じっと時間が過ぎるままに身を任せていた。彼女はお店のレジの傍の椅子に腰をかけたままだった。何故か、すすき野のでお仕事をしていた人を訪ねることはよくないことのように感じて僕は委縮していた。

少し離れたところにいるママに向って、いまも東京で仕事をしていること、それでも時折り用事を思いついては札幌に戻ってきていることを話題にしてわずかな会話をしただけだった。僕は、その時に見かけたママに、やはり、あのどことなく陰があるものの気品ある表情を覗き見ていた。

やがて、この小さな喫茶店に一人の中年の男が入って来たところで、僕は支払いをすませて、店を出た。そして、これが彼女を見かける最後とは知らずに別れた。そのわずか3年後に彼女は闘病生活に入っていたことになる。

 

…………………

それから、およそ12年の歳月が流れていた。礼ちゃんの店「マラガ」を出た後、僕は友人たちと別れてしばらく札幌の夜道を歩いていた。人影も少なくなり、遠くにぽつりとコンビニの明かりが見えた。

 

  灯りを求めて、影法師二つ  

  人目にかからず、通り過ぎて往く。

 

その晩、厚別の自宅の2階の部屋で、僕は眠られぬ一夜を過ごした。

余計なお世話

暑い日だった。僕は全身に汗をかきながら道を急いでいた。

渋谷駅を出て宮益坂を上り、明治通りを少し戻るようにして進むと、右手の方にその映画館はあった。

だが、エスカレーターで3階に上り、そこからにエレベーターに乗り換えて8階へと進まなければいけない。やっとの思いでチケットの購入と上映作品の掲示板を眺めたら目当ての作品が見当たらない。僕が不安に包まれながら、ぼつんと1人でカウンターにいた若い小柄な女性にそのタイトルを伝えると、彼女は僕に同情するような顔を見せた。

「お客様、その映画はここではやっていません。でも、渋谷でやっていらっしゃるのなら、他の映画館を調べてみますのでお待ち下さい。」

どうやら上演館を間違えたようだった。

僕は、やっとたどり着いたとうのに、これじゃもう間に合わないかもれないと思って、ふっと声を漏らした。

「ああ、そうですか。じぁあ、もう駄目かも知れませんね。」

すると、彼女は僕を宥めるような優しい声で言った。

「今すぐお急ぎになれば大丈夫ですよ。ここから歩いていけるところですから。」

僕はその若い女に礼を言うと、再び、エレベーターとエスカレーターを使って表の通りに出た。そして、今来た道を少し戻って左に折れ、重い鞄を抱えたまま、今度は、青山通りに向って小走りに道を進んだ。汗が全身から吹き出しくる。

………………… 

カンヌ国際映画祭では審査員を務めるほどの「国際人」となった河瀬直美監督の『光』は、今度は受賞作とはならなかったものの、『あん』で登場させた永瀬正敏を再び起用して、視覚を失ってゆくカメラマン役を演じさせているという。僕は、その作品のことを想い浮かべながら先を急いだ。

間に合った。

飾り気のない、無色のコンクリートで囲まれたその映画館に飛び込むと、今度は痩せた若い男が無表情のまま、チケット売りしていた。

僕は、作品のタイトルを告げると同時に言った。

「シルバーです。」

男はやはり表情を変えることなく、チケットを差し出した。

薄暗い地階へ降りて、中に入り、僕は前列から二列目の左端の席に腰を沈め、やがて始まるだろう『光』を静かに迎えようと態勢を整えた。「態勢」というのはやや大袈裟であるが、僕はこうして作品を受け入れるための、いわば呼吸合わせのようなものを咒(まじない)のようにするのが常だった。映像とともに流れてくる音以外のすべの雑音を排し、仕事や人生のあれこれもすべて遠くへ追いやって、今まさに始まろうとしている作品の世界へ僕は飛び立つのだ。

ところが、どうした訳か、映像が現れる前に、ステージの脇に背の高いスラリとした女性が姿を見せたかと思うと、作品の解説を始めたのだ。

僕には何のことかしばらく意味が解らなかったが、やがてそれは、川瀬監督がこの作品の中で挿入した(?)別の映画作品のことを語っているようだった。認知症の妻を思いやる主人公をテーマとしたまったく別の作品のことだった。

僕は、強い不安に襲われた。

作品の世界を自ら「体験」することを通じて、光と音の魔術に身を委ねること、それが観る者の心を揺さぶり、「感動」という名の<新鮮な記憶>の至福をもたらしてくれる、それが映画というものだ。なのに、その直前に作品に<予断>をもたらす解説を加え、あまつさえ、他の作品のことを取り出して、その<意義>を語り出したのだ。

<不安>は<不快>に変わり、全身に拡がっていった。 観る者の奔放な「受容の快楽」を予め排除して平然としているその態度に、ある種の「解釈の暴力」を感じ、やがて、その冷酷な<暴力>を笑みを浮かべて語るその女に僕は<敵意>に似た感情を抱き始めていた。

それどころか、やっとその<横暴>が終わったかと思う否や、スクリーンには『光』ではなく、「その前に」との合図とともに、何と『その砂の行方』という別のタイトルの作品が映し出されたのである。

<怒り>とも<絶望>ともつかぬ感情を抱いて、僕はわずか10分ほどで映画館を飛び出した。むろん、シルバー料金の1100円をそのまま捨てて、その場を離れたのである。

……………………

僕は渋谷駅近くの喫茶に入り、気を鎮めることにした。それでも、この<不愉快>は収まらない。いや、増幅する一方だった。そして、とうとう20年以上も前の出来事の記憶が僕を襲ってきたのだった。

それは札幌市内の大きな劇場で起こった出来事だった。

韓国の映画監督が制作したという映画のタイトルは『ミンジャ・明子・ソーニャ』というもので、三つの国で過酷な人生を体験した一人の女性を描いたドラマだというので、そのオープニングに合わせて観賞しようと決めて飛び込んだ作品だった。まだ今よりずっと若かった当時の僕は毎晩のように付き合いの約束を入れるのが習わしのように忙しかった。だから、その日も上演時間をしっかり確かめて、映画鑑賞の後に時間をずらして約束事を入れていた。作品を見終わったら、急いで映画館を飛び出さなくてはいけない。

市内でも最も多くの観客を収容できるその映画館の最前列で僕はその映像が大画面に映し出されるのを待った。直ぐ後ろの席では若い二人がまだぺちゃくちゃと喋っている。さらに離れた奥の席からは紙袋を拡げる音がしていた。それらのすべてが僕に対する無神経な雑音となって襲ってくる。僕は、不愉快極まりないそれらの音を無視して、映像を受け入れる態勢を整えることに集中していた。

ところがどうしたことだろう。

突如、ステージの上に司会者と名乗る女が現れ、そして監督だという中年の男が左袖からやってきたかと思うと、いきなり<トーク>を始めたのである。戦中日本の強制連行やロシア・シベリアの過酷な歴史について語り出し、今度は女が韓国人監督の「功績」を長々と説明し始めた。

僕の胸の中の<苛立ち>がどんどん膨らんでいったことは言うまでもない。

彼らは、しきりにこの作品の<意義>とやらについて喋り続けている。そこで演じられていることは、作品の出来栄えでもなく、その映像の印象についてでもなく、ひたすら映画製作者の<意図>と映画の<社会性>なるものについて、観客に一つの見方を喧伝しようというものだった。北海道の夕張を一つの舞台としたその作品がスクリーンに映し出されたのはそれから30分以上が経ってからのことだった。

この時は、僕は自分の中で膨らんでゆく不快をしきりに抑えながら、映画のシーンを見届けることにしたのだが、結局のところ、30分の遅れがたたって、最後まで観ることはできずに映画館を後にするはめになった。

作品そのものは登場する人物1人ひとりの表情を映し出すことに乏しく、筋だけが画面をなぞる実に面白味に欠けるものだった。主人公が、周囲の人たちと愉快な時を過ごす場面もなく、その生活の中に溶け込もうとするシーンも欠けていた。その上、あの夕張の美しい風景も描かれていないのだ。

それにしても、<社会性>という名を武器に、映画の意義をまるで何かの「教訓」のようにして語る、この種の<正義感>に僕は困惑を覚えないわけにはゆかなかった。教訓を伝えたいのなら、どこかで著名な自称有識者の講演会でも開いたらいい。あるいは優れた書き手を見出してそのエッセイや論文を通じで丹念に道徳を語らせるがよい。

映画はそれを「体験」する一人ひとりの様々な人生によって鍛え上げられた感性によって少しずつ違った色合いをおびて迫ってくるものであり、それを一つの教訓でもって束ねることはできない。そうした読み手(観る者)の「解釈の自由」が映画の魅力ともなっているというのに、事もあろうか、事前に一つの解説を加えて、その<自由>を縮減しようとする不遜な態度、その横柄な思考に僕は得も言われぬ<違和感>を感じ、同時にまた強い<憤り>を抱いたのである。

世間ではよく、優れた作者の作品に直面すると、あるいは著名な作者の言葉に触れると、まるで呪いにでもかかったかのように、その作者の意図や創作力が読者もしくは観客たちを一方的に飲み込んでいくように思いがちである。確かに、そういった面もないわけではないが、だからと言って、これを受け止める側の方が圧倒的に多く、かつ多様であることを見落とすことはできない。 その多様な観る者たちが、1人ひとりの<人生>という名の長い物語の世界の中に、作品(映像)を呼び込み、それぞれの固有なもう一つの物語を編み上げているのである。それが、まさに<鑑賞>というものだ。

一体、彼女らは、何の特権を得て、その多様さ、自由さを削ろうする残酷な仕草をするのだろうか? 僕にはよく理解できないのである。

 

明治座公演『ふるあめりかに袖はぬらさじ』

大地真央が舞台の中央で、床にしゃがみ込んだままの姿で、最後の「一人芝居」を見せる。芝居は、いよいよ終幕へと近づいていた。

「あーあ、恐かったぁあー。」

ちょっと前まで啖呵を切っては男たちをきりきり舞いにするほどの元気を見せていた女が、大きな口を開けたまま、いまにも泣き出さんばかりの大声を張り上げた。

その童のように無防備な声に、観客がどっと笑い出す。

お園は、血気盛んな若い侍たちに取り囲まれて恫喝され、今にも切り殺されるか知れないという恐怖を前に顔面蒼白になって震えていた。その侍たちが不敵な笑みを残して立ち去った後も、床にしゃがみ込んだまま立ち上がることもできない。恐怖のあまり腰が抜けて、何度試みても立ち上がることができないのだ。その大きな体をくねらせ這うようにして床の上を移動する。その様子を見て、観客席の僕たちも思わず固唾を呑んで、お園の一挙一動を心配そうにして眺める。  

なのに、お園は、その不様な姿を晒し必死の形相で床を這いながら、手に触れた徳利の酒を次々と飲み干し始めた。そして、何やらしきりに粋がっている。

「畜生! なんだい、へッ、抜き身が怖くて、刺身なんか喰えるかってんだ。」

と言い終わる間にも、お園は徳利の中を覗き込み、空っぽになったそれを逆さにして酒のしずくが落ちないかを確かめている。そのうち、床を這うのが、女が腰を抜かしているせいなのか、酔っぱらっているせいなのか、解らなくなってしまいそう

だった。

…………………

この芝居は、亀遊という名の薄幸なひとりの「おいらん」と、吉原のときから芸者を続けてきたベテランの気丈なお園との物語である。有吉佐和子原作の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を基に、その役に大地真央を初起用しての演出だった。上記は、そのラストシーンで大地真央演じるお園が迫真力満点の演技を見せた場面だった。舞台の上で、1人残されたお園こと大地真央が悲しさと滑稽さを最後まで綯い交ぜにしながら独演するシーンはまさに<圧巻>としか言いようがないものだった。

おそらく、ここに居た観客たちのすべてがそれを覗き見て、大いなる満足に浸ったことであろうと思われた。

そして、 お園は、<本当>と<嘘>が入り混じった現実の世界で、たとえ揺れ動く心の只中にあっても、ただ一人<真実>に見入っていた。終わりの近くで彼女が吐くセリフがそれだった。

「おいらんは、亀遊さんは、淋しくって、悲しくって、心細くって、ひとり死じまったのさ。」

人知れず、世間の目をさけるようにして葬り去られた一人の「おいらん」の死をお園は忘れることができない。ここに生きていたんだ、それもひょっとすると<幸せ>を手にすることもできたかも知れないというのに、亀遊はその手前で自らの命を絶ったんだ、お園はそう叫んでこの芝居を結ぼうとしていた。

この絞り出すようなお園の台詞に触れて、ぼくは思わず身震いした。

そして年甲斐もなく涙を堪えることができなかった。

………………

舞台は華やかな遊郭の世界を色鮮やかなミュージカル仕立てで開演した。幕末の異国人を押し込めるためにわざわざ開発された居留地「横浜」には、異人を専らの顧客すとする遊郭が建ち並んでいた。いまではその勢いは本場吉原を凌ぐほどのものになっていた。その華やかさを演出する工夫がここに立ち現われていた。

原作には見当たらないその明るいシーンにぼくはほんのちょっと違和感のようなものを感じていたが、それがこの芝居の前触れだった。

この後も、例えば、不機嫌になった米国人客イルウスの機嫌を取ろうと、洋風の派手な厚化粧をした女たちが次々と現れては踊り出し、ついには全員でダンスと歌を披露する。何とも奇妙な姿の女たちが醸し出す俄か仕込みの(?)ミュージカルに、観る者たちもいきなり<笑い>の世界へと引きずり込まれてゆく。

大橋某というたいそうな先生を慕う攘夷の志士たちも、男衆五人が出揃ったところで、このミュージカルをやって見せる。そして、まるで幕間のように差し込まれるその歌舞の後に、真に迫る本筋が顔を覗かせては、僕たちをふたたびシリアスな世界へと引き戻すのである。舞台は、こうして<陰>と<陽>、<明>と<暗>のコントラストを描きながら進行していった。

オープニングでいきなり派手な歌舞を見せた直後、場面は一転して暗がりのなかに塞いだ納戸のような小部屋へと転じていった。

お園が、普段着のままで、階段を上って現れる。

「おいらん、具合はどうですか。あら嫌、真っ暗だよ。」

その行燈部屋に、「おいらん」が一人、粗末な布団で寝ている。横浜岩亀楼の看板女郎として売り出すはずだった亀遊である。だが、いまや病で伏せているだけだった。

お園は持ち前の元気な声で、若い女郎たちが行燈を片付けにきたときくらい、外の明かりを入れてくれればいいものをと愚痴を口にしながら、小さな雨戸を開ける。明かりとともに、目の前に横浜港の全貌が広がって見えた。

「いいお天気ですよ、おいらん、ほら、ここから見ると港は本当にいい眺めですよ。……おや、大きな船、こないだまで見かけなかったけど、あれはどこの船かしら。」

お園の言葉に亀遊が半身を起こしながら答える。

「館の白い綺麗な船でしょう。アメリカの船なんですって、おとといの晩が入船だったのよ。」

「おや、おいらん、あれがアメリカの船だなんて、いったいどうして分かったの?」

「それは、あの、それは、ね。」

しどろもどろになる亀遊に、お園はふと何かを感じるが、その場はそのままやり過ごす。

亀遊のところを訪れる若者があった。

横浜岩亀楼の通事として働く藤吉だった。彼は蘭学を勉強し、やがてアメリカに渡って西洋医学を学びたいとの夢を抱いていた。その藤吉が、薬を届けるという口実をもってしばしば亀遊の部屋を訪れていたのである。どおりで、字の読めない亀遊のところに「攘夷党が暴れた」なんぞが書かれた瓦版が置かれていたわけだ。お園は、ふと湧いてきたような艶話の兆しを喜んだ。

亀遊を訪ねて来た藤吉にばったり出会ったお園が、明るい声で言った。

「おいらんを見舞いに来てくれたのかい? 有り難うよ。……おいらんの顔色がよくなった謎がとけたよ。なるほどねえ。」

物静かな藤吉は、バツが悪そうにして言った。

「おかしなことを仰ってはいけませんよ、姐さん。私はおいらんの病気を心配してやってきただけのことですから。」

お園は、自分に隠すことはないよ、大丈夫だから、と二人を安心せる言葉を吐いたあと、こう言うのである。

「けど、お前さん、おいらんが此処で寝てるって一体、誰から聞いたんだい?」

すると藤吉がひょんな事を言う。

「誰って? それは姐さんからですよ。」

実は、10日ばかり前、もうすっかり酒の酔いが回ったお園が、誰に向って言うわけでもなく、「おいらん一人死にかかっていてもハマ(横浜)じゃ誰も見舞いにいかないのかい、不人情な奴らが揃っているよ」とまくし立てていたというのである。

ここには幾つもの伏線が据え置かれている。

先ず、病に気まで沈んでいた亀遊にも<幸せ>がやってくるかも知れないという<希望>の予兆が垣間見える。そもそも、お園が亀遊を「おいらん」と呼ぶのは、江戸の吉原でまだ遊郭では子供扱いしかされない時から身を立てて花魁にまでなった亀遊のすべてを知りつくしているからだった。同じ芸者としてむしろ羨ましくも見えた彼女が借金を抱えたまま、この岩気楼に引き取られた後も、お園は「おいらん」と呼び続けていたのである。その亀遊が惨めな日々を送っているという時に、藤吉という若者の登場で、あたかも一条の光のように<幸せ>が訪れ始めたかと思われる出来事がそこにあった。だが、やがてそれが余計悲劇の色を濃くすることになるのだ。

そしてまた、ここには、世間の<薄情>に憤りをぶつける、お園の人間味、その人情が映し出されている。そんな<非情>があっちゃいけない、たとえ遊女であっても、人それぞれに人生があるんだ、お園はそう言おうとしていたのである。

物語は、米国人客イルウスが岩亀楼に現れたことで急展開する。

当時は、異人を顧客とする遊郭であっても、外国人向けの「唐人口」と日本人向けの「日本口」の二つを区分けして、遊女もそれそれ別の割り当てがなされていた。このうち、前者、つまり異人さんをもっぱら相手にする遊女を「らしゃめん」と呼んで、周囲の女たちから蔑みと嫉妬もつかない特別な目で見られていた。

<蔑み>は、彼女らが言葉も通じない異人さんを相手にしていることに加えて、しばしば和服にスカーフやブレスレットやイアリング・指輪などを身に着けるという何ともド派手な衣装仕立てにも向けられていた。<妬み>は、豊な国からやってきた異人さんの金払いはすこぶるよく、彼女たちが贅沢な暮らしを手に入れていたことに対して向けられたものだった。

案の定、イルウスが登壇する場面では、マリアとか、メリー、バタフライ、ピーチとか名乗る奇妙ないで立ちの女たちが舞台の上に現れた。そして、次々にイルウスに自分を売り込もうと必死になってアピールしている。

だが、イルウスはどの女も気に入らない。そこへ、先ほどまで寝込んでいたはずの亀遊が真っ白な衣装に身を包んでスーとその姿を現した。化粧もしている。それを見て、通事の藤吉も驚きの余り声が出なくなるほどだった。藤吉は、初めて見る「おいらん」姿の美しさに我を失うところだったのである。

イルウスがすっかり見とれて、「この女に取り換えて欲しい。金ならいくらでも払う」と言い出した。最初は、店のしきたりで女を取り換えるのは認められないと言っていた岩亀楼の主人も、だんだん金の話に引き寄せられてゆく。その間にも、亀遊が倒れ込んで、女中たちが彼女を部屋に連れ戻す。ここから先は、通事の藤吉もシドロモドロになって役に立たなくなる。

大混乱の中に<商談>が成立して、亀遊は本人の意思を別に、金六百両でイルウスに売られることになった。それを知ったお園が、夢中でそれを止めようとするものの、事態はもう動かないところまで進んでしまっていたのである。

「き、亀遊さんは、おいらんは、この話を知ってるんですか?」

心配そうに尋ねるお園に、主人の岩亀は応える。

「知ってるわけないじゃないか。いま決まった話だもの。」

お園は陳情するように言う。

「後生だから、それは勘弁してあげて下さいまし。異人さんと寝た女は、もう一生日本人の中では相手にされなくなっしまうんです。」

「何を言い出すんだ、こんなところで。異人さんと言ったって、鬼じゃあるまいし、ことにこの人は金離れもいいし、話の分かるお人だ。」

そう言い終わるや否や、傍の女中に向って、亀遊をここに呼んで来いと声を上げた。

「待って下さい。それは私が……」

そう言い残して、お園は二階の亀遊の部屋へ向かうのだが……。

亀遊は、その小さな暗い部屋で、剃刀で自害していた。

お園は、彼女の死の本当の理由を知っていた。だが、周囲はみな、異人さんに売られることを知って、それを拒み自害したと考えた。

亀遊は、もし自分の健康が回復したら、また遊女の生活を始めなければならない、そうであったら、藤吉とは永遠に結ばれはしないことになる。いや、このままでいても、間もなく藤吉は遠いアメリカという異国に去って行ってしまうだろう、そうすれば自分の生きる夢はすべて絶たれてしまう。どっちにしても、その未来から一切の希望が失せるのだ。それが、亀遊の自害の本当の理由だった。

しかし、岩亀楼の主人にとって何より懸念されたのは、「異人に売られるのを嫌がって自害した」と世間に風聞が流れ出ることだった。そんなことが知れ渡ったならば、この岩亀楼が攘夷を唱える浪人たちの標的にされることは目に見えていた。役人もそのことを惧れて、事を大きくせず、内々に処理する道を選んだ。亀遊の亡骸は、早々に深い土の中に葬り込まれた。そして何事もなかったかのような日々が続いた。

しばらく時が流れた頃、1人お園だけがその悲しい顛末を怨みながら、二人きりになった場面で、藤吉を責め立てる。

「なぜ逃げなかったのさ。なぜ駈け落ちしなかったのさ。」

いつもの勝気なお園の声に藤吉は、あの日の前日、二人が別れ別れになることを覚悟して抱き合って泣いたことを語り出す。

その時、舞台が反転して、中央奥から真っ白な衣装をまとった亀遊の姿が現われ出て、藤吉と亀遊が手に手をとって静かに歌い出す。強い絆で結ばれたはずの若い二人がステージの上で踊り出す。だが、それは一瞬の閃光のように輝いたかと思うと、亀遊が舞台の上手でゆっくりと廻りながら静かに床の下へと消えていく。観客たちはそれが二人の永遠の別れを再現する場面であることを知る。

その静けさを破る大声が飛び込んで来た。

「大変だ、大変だ!」と男の声。

「どうしたんだい? 何だって?」と女の声。

通りでまかれた瓦版が「岩亀楼の遊女亀遊が、女郎であるにもかかわらず、紅毛碧眼に身を汚されんよりはと親より伝わる懐刀で咽を突きて自害した」、まさに攘夷の魂であり、武士にも優る「烈婦」であると書き記していたのである。しかも、死に際して、見事な筆字の遺書まで残したというのである。字を読める藤吉によれば、その遺書の最後には辞世の一句が認められていて、そこにはこう記されていると言う。

「露をだに、いとふ倭(やまと)の女郎花(おみなえし)、ふるあめりかに袖はぬらさじ。」

お園は、「妙だねえ、おいらんは字なんぞ書けなかった。絵草子すら読めなかったんだ。それに懐刀なんかありゃしないよ、おいらんは剃刀で死んだ」と思わず、口にするも、主人の岩亀に止められる。第一、おいらんは武家の出などではなく、深川の町医者の娘に過ぎない。

そうこうしているうちに、この瓦版を契機に、亀遊は「攘夷女郎」として人々の噂になって語られていく。そして、この噂話によって、岩亀楼が異人相手の遊郭で商売をしていたという事実がかき消され、それを拒んだ武家の鏡のような女郎を抱えていたところだとの評判を受けることになる。

<真相>を知るお園は最初はその<誤解>に違和感を覚えるが、やがて持ち前の明るい立ち振る舞いに合わせて、この<攘夷女郎>話を脚色し、迫真力ある出来事して語り出すことになる。一目その現場を見ようと訪れる客を相手に演じているうちに、何がどこまで本当のことなのか自分でも判らなくなってしまいそうだった。

いつの間にか、亀遊は<亀勇>との表示に変わり、武家の娘になり、吉原でも横浜でも超売れ子の芸者になっていた。イルウスという嫌な米人が払うと言った金も千両にまで吊り上がっていた。

自害した場所も、提灯部屋ではなく、大広間になっていた。その大広間で、尋ねて来た客を前に、お園が一節をぶつ場面がある。

「ようござんすか。亀勇さんはここに坐って、じっと異人さんの眉間に目を据えたまま、かねて覚悟の懐刀を、抜いたと思ったら喉に突き立てた。」

「血は出なかったのかい。」

「あなた、生身の人間が喉を突いたんだ。血はしぶきをあげて、返り血を浴びた異人さんの顔は鬼でしたよ。」

とうとう、本物の攘夷主義にかぶれた侍たちの到来となった。そうこうしている間に、お園が語る大橋某というエラい先生の話と亀遊の書き置きの話が辻褄の合わぬことを知って、攘夷侍たちがが、お園言葉に嘘を読み取った。そして一人の若い侍がいきなり太刀を抜いてお園を切って捨てる構えをみせた。

「ひえッ!」と悲鳴を上げるお園。

この顛末は、大橋某先生の名誉を保つことを優先した侍たちの情けで、何事も無かったかのようにして終える。5人の侍たちが不敵な笑みを浮かべながら下手へと消えてゆく。

そして、先の冒頭の場面が続くのである。

「ああ、恐かったぁあー!」

(ちなみに、ここで再び冒頭の文に戻ってもう一度読まれることをお勧めします/筆者)

…………………

この芝居の時代背景は、開国か攘夷かで、まさに国論が二分化されていた幕末日本の頃のことだった。そんな物騒な世の中で遊郭を一つの舞台にして描いたのが、本作の妙味ともなっている。そして、お園はそうした時代の波に翻弄されながらも、いつの時代にも変わらぬ人間を見つめる率直な眼差しを忘れない女だった。

お園を演じた大地真央は、これまで十八番の「マイ・フェア・レディ」をはじめ、「カルメン」「サウンド・オブ・ミュージック」「ローマの休日」、「クレオパトラ」や「マリー・アントワネット」などのヒロイン役を演じてきた。喜劇と悲劇とが綯い交ぜになったこの作品では、少々お調子者の役を引き受けて、その「人情」を演じて見せるという難しい役に初めて挑戦したという。

それにしても、あの<圧巻>の演技に魅せられたのには参ったね。「これぞ、銭の取れる演技というものであろう」、そう思いつつ僕は明治座を後にした。

外はもう真っ暗だった。人の流れの後をつくようにして夜道を進んでいくと、遠くに灯りがひと塊になって浮かんでいるのが見えた。人形町の辺りだろうと思った。

 

父の日のプレゼントと喫煙・禁煙

近くに住む娘が、2週間も早く、父の日の贈り物だと言って、何やら小さな固い箱を包んだ包装紙のプレゼント持ってきた。喫煙癖から抜けきらない父を想ってか、中には「iQOS」という無煙タバコのセットが入っていた。どうやら、札幌にいる母親と相談しての喫煙家対策のようだった。

そう言えば、近頃は喫煙できる喫茶店の中でも、この「iQOS」とやらを使っている男がやたら増えている。おそらく、自らの健康を意識してというより、マイホームでは喫煙禁止にされていることからやむを得ず、本物のタバコを諦めて、その代用品に「転向」した連中であろうと思っていた。そこには悲しい(?)ことかな、家庭の中での妻との力関係も反映しているに相違ない。

そういう我が家の長男も同居中の彼女に押されて、ついにこの新製品に飛びついてしまった1人である。

………………

僕は公の場ではもちろんタバコを吸わないが、自分の個室にいるときや喫煙可能な喫茶にいるときにはヘビースモーカーになりきっている。依存症と言われればそれまでだが、タバコが僕の情けない頭脳を刺激し、活発化させることは確かなので、とうてい禁煙なんぞあり得ないと思い込んでいる。

そうは言っても、世の中はいまや禁煙ブーム真っ盛りである。東京オリンピックに合わせて、公開の場であれば、飲食店のすべても禁止すべきだとの潔癖主義的(ピューリタン)な意見も出始めた。確かに喫煙は身体によくないとの報告もあるし、何より受動喫煙が社会問題となっている中ではどうも喫煙派には分がよくない。先の都議会選挙で多数派をしめた「都民ファースト」を名乗る集団も禁煙勢力だ。

最近はもうすっかり分煙が当たり前のようになっていて、それを嫌う人のいる閉じられた空間ではタバコを吸わない、通りや広場などの公の空間でも吸わないなど、喫煙者のマナーもしっかり守られるようになってきた。それでも「全面禁煙派」の連中は、タバコそのものが気に入らないようで、それだけにとどまらず「喫煙者」という存在そのものを消しゴムで消してしまいたいような勢いだ。劣勢のままじりじりと後退を迫られる僕にしてみれば、思わず「喫煙者は都民ではないのか」と叫びたくなるほどだ。 

世界保健機関(WHO)の統計2016年によると、日本の男性の喫煙率は33,7%で世界60番目。トップはインドネシアで、これにヨルダン、キリバスが続いてロシアも何と5位にランキングされている。日本は、韓国、中国や東南アジアの国々には及ばないものの、スイス・オランダ・北欧諸国はもとよりドイツ・イタリア・イギリス・フランスよりも高く、いわゆる産業先進国の中でもトップクラスだ。おそらく、こうした事情がオリンピックを前にして喫煙率を押し下げたいとの衝動につながっているのだろう。

これに対して、日本の女性の喫煙率は最近はその高止まりが問題だと国内で指摘される向きもあるが、その数値は10.6%にとどまっている。というのも、女性では産業先進国のドイツ・フランスはもちろん、オランダ・スイス及び北欧諸国よりもはるかに低く、何と喫煙に厳しいカナダやオーストラリアよりも低いのである。むしろここでは、日本が欧米に比べて「男女格差」が目立っていることは少々気になるところである。

女性の喫煙率で世界のトップはナウル(52.0%)であり、これに先のキリバスセルビアが続いている。ちなみに、キリバス共和国は、太平洋上の群島からなるイギリス連邦の1つで、人口11万人の赤道直下の小さな国。また、ナウル共和国イギリス連邦加盟国で、国土面積ではバチカン市国モナコ公国に次いで世界三番目に小さな国だ。

少々話がズレたので元に戻すことにしよう。

タバコは確かに、健康にはマイナス面が少なくなく、決して勧められるものではない。一般に喫煙する人は、あるいは受動的喫煙者であっても、がんや心筋梗塞、気管支ぜんそく慢性閉塞性肺疾患にかかりやすいとの指摘を受けている。

特に近年では、発症する人の9割が喫煙者であるとされた、慢性閉塞性肺疾患に注意が向けられている。一般に、「慢性気管支炎」とか「肺気腫」と呼ばれているものがその例であるが、専門家の間ではこれが将来的に死亡要因の大部を占めるようになるとさえ言われている。ただし、これも必ずしも喫煙との因果関係がすっきりしているわけではない。ディーゼルエンジン排ガスや、ビル群から排出される異常な熱や新鮮な空気に触れる機会の少ない都市生活など多様な環境要因も原因との指摘もあるからだ。

加えて、<タバコ=がん>という、喫煙(者)を敵視するほどに騒がれた因果関係については、今日でも専門家の間で論争が続いている。  

僕自身は愛煙家に近いので、喫煙の害についてあれこれ文句をつけつる資格はあまりないのであるが、タバコにはストレスを軽減・抑制するというメリット効果があるとされているし、長寿にはむしろ適度な喫煙が望ましいとの説もある。

実は、これにはあながち無茶な議論とは言えない興味深い論点が潜んでいる。もしタバコにストレスを軽減する効果があるとすれば、それは様々な病気の抑制や長生きにも貢献している可能性が出てくるからだ。

オランダの研究グループが行った研究調査では、喫煙者は非喫煙者に比べてアルツハイマー病に罹る率が遥かに少なかったことが判明したという。喫煙には確かにボケの防止効果もあるされているのである。これは適度の喫煙が脳の活性化(脳細胞のネットワークづくり促進効果)をもたらしているせいだとも言われている。

また、日本免疫学会会長も務めた順天堂大学の奥村康教授は、自殺者34,000人の中から無作為抽出した2,000人を調べたところ、何とすべての自殺者が非喫煙者であったとの報告を発表している。むろん、この結果に対しては様々な方面から「反論」も出されているが、仮にタバコがストレスを抑制する効用を有しているとするならば、頷ける傾向だと言える。

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しかし何よりも、僕にとって一番気になることは、医学的・実証的結果もさることながら、その検証結果についても専門家の間ですら見解が分かれているにもかかわらず、タバコを嫌う人たちが一斉に<汚れ>を社会から<排除>しようとし、まるで風に草木が靡くようにして、世論が一方向に動き出すことの怖さである。

喫煙反対論者は、その時、自分たちが何をしているのかさえ落ち着いて考えることもしなくなる。それが、例えば、共にどうしようもない強度の喫煙家である、あの創造的なアニメ映画を編み出した宮崎駿や、「北の国から」の人気ドラマを生み出した倉本聰などの人間を<非道>あるいは<非国民>と揶揄して、そうした連中をこの世界から<追放>しようとする試みに通底するということすら思いも寄らぬのだ。

いや、僕は別に喫煙を推奨しているわけでも、ましてや喫煙家たちを称賛して言っているつもりもない。そうではなく、喫煙家の存在も認める<寛容>がこの国には大事だと言いたいのである。

マナーを守り、分煙を徹底することができるならば、その方がはるかに多様性を受け入れることできる懐の深い、より<豊かな社会>を構想することが可能になるのだと思う。少なくとも、世の中を一色に染めて、互いを監視し、社会全体がストレスを貯め込むような風潮は避けたいものである。