清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

松本清聴の映画講座4 『トランスアメリカ』

彼は、子どもときから男性であることに違和感を抱いていた。そして、世間体を重んじる一族のなかで、次第に孤独感を募らせていった。周囲の誤解に取り囲まれて、「孤独」はますます深まり、人が人を無意識のうちに傷つけ合う社会への強い違和感となってそれは膨らんでいった。「本当の私は何なの?」という素朴だが、深い自問を胸に、彼は「自分らしさ」に辿り着くための道を自ら選択しようと決意する。

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ロサンゼルスの片隅にひっそっり暮らすブリーは、「女」になることで確かな自分というものを取り戻そうとしている性同一性障害者である。すでにホルモン治療によって豊かな胸を持ち、トレーニングで女の声も身につけた彼女、いや彼は、周囲の無理解を肌で感じつつも、女になるための最後の手術を受ける日を愉しみにしている。「もう少しの辛抱で、私はは本当の私になれる」、そんな切々とした心の声が聞こえてくるようだった。

その彼も、過去にたった一度だけ、男として女と関わりを持ったことがあった。待ち望んでいた祝福の時を間もなく迎えようとしているある日、その女の子どもであり、父親である自分を探しているという少年が現れた。

激しく動揺するブリー。

父親どころか、種としての男すら捨てようとしていた矢先なのに、自分の息子かもしれない人間が現れたということは、あの投げ捨てた過去に自分を引き戻す<悪の力>が襲いかかってきたのも同然だった。

突然に訪れた現実から逃げ出し、当初の目的を果たそうとするブリーに対して、彼女、いや彼の最大のよき理解者であるセラピストのマーガレットが真実と向き合うことを勧める。それでも「最後の手術」にこだわり、事実から目をそらそうとブリーに、マーガレットは厳しい言葉をぶつける。

父親としての責任をはっきりさせるまで、あなたが手術することに署名することはできないわ」

彼女の署名が得られなければ、自分の夢を実現することも叶わないのだ。

人は一度ならずとも、人生の中における偶然の積み重ねを通じていつの間にか自分にあてがわれた役割、例えば、辛抱強い母親であるとか、貞節な妻であるとか、ひたすら勉強に精を出す親思いの子供であるとか、一家のために生真面目に働く父親であるとか、あるいは仕事熱心なサラリーマンであるとかいった役を演じることに疲れを感じて、逃げ出したくなることがあるものだ。外見ではその役割を立派に演じつつも、親としての、あるいは妻としての自分ではなく、すでに過ぎ去った、あの青春時代の輝きに生きた自分に立ち還り、そうすることによって「自己」を取り戻したいと願うときがあるのだ。

たとえ、世間がそれを逃避だとか、無責任だと決めつけようとも、心の奥からほとばしり出てくる、そうした強い衝動の前で、人はしばしば立ち往生し、「もう一人の自分」を発見する旅に出ることも珍しくはない。

ブリーは、ともかくこの重たい状況から「逃げ出したい」と本気で想っていた。本当の「自分」を手にするために、そうせざるを得ないと固く決意していた。

実は、息子がいるということは、ニューヨークの拘置所からかかってきた一本の電話で知ったのだった。少年は盗みの現行犯で警官に捕まったのだが、彼は男娼を仕事としていたという。ブリーは、マーガレットに説得されて仕方なく少年トビーを遠く離れたニューヨークまで迎えに行くことになった。ちょうど、あの「ダイ・ハード」で主人公がニューヨークからロサンゼルス向かったのとは逆のコースを辿って「彼女」は飛んだ。 戸惑いながらも、息子と対面するブリーだが、父親とは名乗ることができずに、トビーの誤解に乗じて、咄嗟の嘘をつく。  

「私は教会から派遣されて、あなたの世話をすることになったのよ」

つまり、信心深い尼さんの役割を演じることになったのだ。それが更なる誤解とすれ違いのドラマとなって、二人を人生のテストにかけてゆく。そして今度は奇妙な二人、つまり男娼だった少年と女になりきっている中年男のロード・ムービーが始まる。二人を乗せた車は広大な草原を走り抜け、小さな田舎道を通り過ぎて、これまた奇妙な人たちとの出会いを繰り広げていった。

スクリーンでは、不器用で、不格好な生き方しかできない中年女(のように見える)ブリーの仕草の1つひとつが滑稽味を誘う。自分の子どもに真実を隠しつつ、その一方で、精一杯の愛情を振り向けようと必死の努力を続ける「彼女」の姿に、やがて観客の僕たちも次第に惹かれていき、そしてこの想いがいつかトビーに伝わることを願うようになる。

だが、ニューヨークを発つときに生れた<嘘>と<誤解>はなかなかハッピーエンドにつながりそうもない。とうとう、<真実>がばれて、場面は一気に<破局>の様相をみせて展開する。「彼女」が男であることを知ったトビーは激しい嫌悪によって、ブリーを責め立てた。ふたたび<孤独>へと投げ出されたブリー。彼女のしゃがれた声とその不自然な化粧がなぜか悲しみをより深く刻み込んでくる。

それでも、長いアメリカ大陸横断の旅を通じて、二人は互いに反撥し合いながら、やがて共に惹かれ合い、そしていつしか心を開いていく。トビーもブリーの<優しさ>が本物であることに気づくようになる。しかし、それもつかの間、自分をまるで愛人のように思い込んで言い寄って来るトビーに、今度は自分がトビーの父親であることを明かして、二人の間は決定的なものとなるのだ。

そもそも、自己を取り戻すということは、単なる薬や手術によっては手にすることができない。それは、自分という存在を認めてくれる人との本物の出会いの中でしか実現し得えない。人は、<孤独>の中で必死にもがいていても本当の自分を見つけ出すことはできないのであって、生きている手ごたえを引き寄せるためにも、信頼できる他者からの「承認」が必要なのである。

やっと念願の「手術」を終えたというのにブリーの心は晴れないどころか、悲しみんの底へと沈んでいく…。

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この作品のテーマは実にシリアスなものだったが、場面はどこまでもユーモラスなままに推移した。なんと言っても、ブリー役を演じたフェシリティ・ハフマンの物静かだが、真摯な演技が光った。彼女は「本物の女優」、つまり正真正銘の女性なのだが、すぐれたメイキャップのおかげもあって、画面ではどことなく骨張って見え、それとなく男っぽいのだ。それが笑いを誘い、これが当事者にとって深刻なドラマであることを忘れさせるほどのユーモアを感じさせ、人間の温もりを醸しだしている。それがこの映画の持ち味となって拡がり、思わず、観る者をしてこう叫ばせるのである。

「人生って、捨てたもんじゃない!」

そして、ラストシーンを迎えるころには、もう僕はすっかりブリーの「よき理解者」となり、「よき友」となりきっていたのである。

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ところで、この映画は、1人のトランスセクシャルな人間を描いた作品であるが、標題の「トランスアメリカ」には東海岸から西海岸までの大陸横断(トランス・コンチネンタル)という原意と合わせて、「変わりつつあるアメリカ」との意味が込められているとも読めるものだった。アメリカでは、もうずいぶん以前から、道徳主義を唱える集団や人種主義をバックに他者を排除しようとする勢力がその勢いを高めている。そんな中でこの作品は、この国に「本当の優しさ」を取り戻すためのトランスレーションを求めているかのようでもあったのである。