清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

小さな声でー恩師との再会

平成も30年目になる2018年正月の4日、僕は、札幌駅から「スーパーとかち3号」に乗り込んでいた。千歳空港駅の1つ手前の南千歳駅からは、空港に向かう列車、苫小牧や道南の函館に向う列車、そして道東の帯広・釧路へ向かう列車が三つに分岐してゆく。僕を乗せた列車は、そこから南夕張-追分-占冠-トマムを経て長いトンネルを走り抜けていった。
どこまで進んでも辺りは一面の雪景色で埋め尽くされている。枝だけになった裸の木々の向こうに蒼色に染まった針葉樹が整然と並び、その奥には冬の厳しさにじっと耐えている小高い山並みが浮かんで見えた。風もなく、穏やかな陽の光がキラキラと輝いている。次のトンネルを抜けるとそこはもう十勝平野である。

十勝の中心都市・帯広は、ちょうどアメリカ合衆国内陸部の各州の州都が地理的に真中の位置に置かれているように、広大な十勝平野のど真ん中に位置している。その帯広へと鉄路を急ぐ列車が、徐々にスピードを落とし、車内にアナウンスが流れた。

「まもなく、芽室です。停車の時間が短いので、お降りになる方は早めの備えをして下さい。棚に乗せたお荷物をお忘れないようご注意下さい。」

柔らかな男の声が流れたところで、僕は広げていた本を閉じて小さなショルダーバッグに仕舞い込んだ。棚からオーバージャケットを取り出し、手土産の紙袋を下に降ろした。列車が静かに停車する。
家族連れと思われる一行の後に続いて、プラットフォームに降りてみると、外は存外寒くはなく、冬の季節にしては穏やかな空気が全身を包んだ。僕はいま、母校のある郷里の駅前に出て、胸いっぱいにその空気を吸い込んでみた。すっかり様変わりした街並みに幾分の戸惑いを感じながら、目的地に向かう前に、僕は懐かしさを探すようにして、記憶の誘いに任せて通りを進んだ。
歩きながら、確かこの辺には、金物屋の武藤君がいたところだ、あれは高田呉服店があったところだ、文具と書籍の岩田ライオン堂もそこにあったはずだと、僕の中の記憶がソワソワし始めた。ふと、「コーヒー」の看板を提げた店をみつけて中に入った。
中に入ると、大きなテーブルの上で雑誌を広げていた中年の女性が突然の客に驚いたような仕草を見せながら、奥の厨房へと下がっていた。僕のほかに客はいなかったのである。
がらんとした広い喫茶の中で、僕は昼食の時間であることを思い起こして、チャーハンとコーヒーを注文し、上着のポケットから煙草を取り出した。

 

「M先生は、たしか芽室町の老人介護施設に入所しているはずだわ。」

久しぶりの高校同窓会の席で隣り合ったAさんが言った。

「じゃあ、先生の居所がわかるのですか?」

「ええ、でも、会いに行っても仕方がないわ、きっと。M先生はすでに痴ほう症にかかっていて、訪ねて行っても誰だかわからないって、友人が言っていましたたから。」

それを聞いた僕は、一瞬、もう何年も音信不通のままに過して来た自分を責める気分に襲われていた。でも、咄嗟に別の言葉を発して応じた。

「いや、わからなくてもいいよ、とにかくお会いできるうちに会っておかないと後で後悔することになるだろうから、場所を教えてくれたら必ず訪ねて行くつもりだよ。それに……」

「わかるわよ。その介護施設は私たちの同級生のNさんが経営しているところですもの。」

クラスの中でもしっかり者だったAさんが明るい声で言った。
N氏は町の中心街で銭湯屋を営んでいた家の長男だった。その彼が、今では老人介護施設の経営で町の名士になっているという。

「なんだ、N君のところにお世話になっているのかい。なら、大丈夫だ。彼とも連絡をとって訪ねて行くことにするよ。それに、仮に先生がまったく僕のことを思い出さなくても、奥様には会えるかもしれないだろし。」

そう言って、僕はいつものように元気な声を出して応えた。

年が明けて、いよいよ先生のいる芽室町へ向かうことに決めた時、僕は予め確認していたN氏の携帯に連絡をとった。

「おめでとうございます。同窓会メンバーの幸田です。新年早々にいきなり電話して申し訳ありませんね。実は、中学時代の担任だったM先生があなたの経営する施設に入っておられると伺ったものですから、明日にも訪ねて行こうと思っているのですが。」

「ああ、その通りだよ。明日は、俺は出かけているかもしれないが、施設の方にはちゃんと伝えておくので、そのまま向かってくれればいいようにしておきますよ。でもね、先生にお会いになっても、君のことがわからないと思いますよ。お正月休みだというのに、わざわざ無理に向かわなくても…」

「ええ、そのことも承知しています。お会いできるだけもいいんです。それに、奥様にもお会いできればと…」

「いや、奥さんはすでに亡くなられています。」

「え、奥様は亡くなっているんですか?」

僕は、恰幅のよいN君の姿を想像しながら、その報せに困惑していた。
人間の一生なんて、実に身近いものだ。東京で単身生活をしている間に、僕は恩師や奥様に対する感謝の言葉を伝えることもなく、時を過ごしてしまったのだ。僕は、「やっぱり明日は、是が非でも先生のところに行こう」と強く胸の中でつぶやいていた。

 

食事を済ませて一服しつつ、お店の人に道を尋ねた。

「老人ホームの曙園へ知人に会いに向かうところなんですが、たしか、ここから歩いてゆける場所ですよね。」

「そうね、駅前の大通りをまっすぐ北に進んで、四つ目の角に郵便局がありますから、そこを西の方へ曲って下さい。しばらく進むと小さな坂を下ったところにありますので。」

「助かります。おかげで迷わずに行けそうです。また、チャーハン、とてもおいしゅうございました。有り難うございます。」

そう言って、僕はその喫茶を後にした。

外は相変わらず穏やかで、通りには陽が射していた。それでも人影が少ない歩道を一人歩いていると、だんだん身体が冷えて来るのが分った。積もったまま凍てついた雪の道を進むと、足元で靴音がキュッキュッと鳴った。広い真っ白な通りを赤い小さな車が先を急ぐようにして走りぬけて行った。
かつてこの町には珍しい酒造蔵があった辺りに、酒屋さんの看板が見えた。四角い建物の郵便局は、大通りを挟んでその反対側にあった。
通りを挟んで郵便局の前を過ぎたところで、西に向って道を進んだ。この通りは、僕がまだ子供の頃、母や姉たちと一緒に住んでいた小さな家があった道だった。その遠い記憶と共に僕は、一歩一歩足元確かめるようにして歩いた。しかし、すでに当時の面影を感じさせるものは殆どなく、まるで初めて通るような気分に襲われていった。道は、どこまでも真っ白である。
やがて、なだらかな勾配の坂道にさしかかった。ここを下れば、もうすぐ曙園があるはずだ。札幌から持ってきたお土産の紙袋を下げていた手がすっかり冷たくなっていた。僕は少し歩を速めて歩き出していた。

木造二階建ての瀟洒な佇まいのその老人ホームの正面に立って、僕は軽く深呼吸をしてみた。冷たい空気が胸の中にいっぱい入って、僕の心をきゅっと締めつけてきた。そして、それが何故か、これから始まる密かな出逢いの予兆であるかのように感じた。

ガラス越しに中を覗くようにしてドアを開けると、落ち着いた風情の女が顔を出した。

「あのう、この施設の経営者のNさんと同級生の幸田といいます。今日は、中学校の時代の恩師であるM先生を訪ねてまいりました。」

 僕が挨拶を兼ねてそう言うと、女はすかさず応えて言った。

「お待ちしておりましたわ。主人からお話を伺っておりましたの。」

N氏の妻だというその女性は、「主人は今日は外回りで不在であること」を予定通りに来客に伝えると、そのまま先に進んでエレベーターで2階へ誘導し、静かな廊下の奥の方へと案内してくれた。そして、その一番奥の部屋のひとつ手前のところで立ち止まり、ここがM先生の部屋だと言った。

僕は彼女の背中の後について中に入った。

「M先生、お客さんですよ。」

女は、ベッドの上に横になっていた男にひと際明るい声をかけた。
男は眠り込んでいたというより、微睡みに浸っていたかのような眼をこちらに向けて、いきなり闖入してきた二人を眺め返した。
今度は僕が前に出た。

「先生、M先生。僕です。中学校時代にお世話になった幸田です。幸田修です。」

女が続けて声をかけた。

「Mさん、わかりますか? 幸田さんですよ。」

男は、温和な表情でこちらを眺めながら、こくりと頷いた。

「さあ、起きて頂戴。寝てばっかりじゃダメですよ。それにお客さんが来たのだから、ちゃんと起きないといけませんわ。」

そう女が言うと、先生はゆっくり体を起こし、ベッドの横に脚をぶら下げるようにして座り込んだ。
僕がまた大きな声で言った。

「M先生、幸田です。わかりますか?」

男は、ニコリと僅かに微笑んで、再びこっくりと頷いた。

狭い部屋の壁には、おそらく先生の教え子たちが描いたものであろうと思われる、絵入りの寄せ書きが飾られていた。ベッドのすぐ手前のキャスター付きワゴンの上にはポットと湯飲み茶わんとグラスのほかにお菓子袋などが並べられていた。その向こうの壁側に、奥様の肖像を撮った小さな写真が据えられていた。
まもなく女が部屋を去っていたので、僕と先生の2人きりとなった。

「先生、教え子たちがお見舞いに来てくれるんですね。よく訪ねてくるんですか?」

男は、またニコリとしながら頷いた。

もうすっかり痩せているので、その分顔の皺も目立つものとなっているが、あの若い頃の熱血先生の面影が蘇ってきた。その目が驚くほど透明に澄んで見えた。あの頃の先生は、体形は小柄だったものの、なかなかの美形で、ちょうと俳優の水谷豊の鼻を少し高くしたような顔立ちだった。中学時代の僕は、その先生の表情がとても好きだった。

この部屋に入ってからずっと、先生が一言も音声を発していないことに気づいた。
それでも、とにかく僕は先生にいつもより大きな声をかけて、二人の「対話」が成立しているかのようにして語り続けていた。

「先生は、出された食べ物は何でもちゃんと食べているのですか? 好き嫌いはありませんか?」

先生は黙ったまま頷いた。
ふと、札幌のデパートで手に入れたお土産のことを思い出し、先生に声をかけた。

「先生は甘いものが好きですか?」

今度は、「ウン」という表情を浮かべたような気がしたので、僕は持ってきた紙袋の中から餡の入ったお菓子を取り出し、先生の細い手にそっと握らせた。すると、先生はそれを両手で持ち直して、いかにも美味しそうにして口に運んだ。僕は、そうした先生の横顔をじっと見つめていたが、そこでやっと先生と親しい会話ができたような気分に襲われた。

そうしている間に、僕は次のセリフを考え込んでいた。
やはり、奥様のことを訊いてみよう。先生が嫌がるかもしれないけど、ここに来た以上、そのことを直接触れずに済ませるわけにゆかないような気がしたのである。
僕は思い切って尋ねてみた。

「先生、M先生、奥様は亡くなられたんですって?」

一瞬、先生の手が止まった。そして少し間を置いた後、先生は正面の壁を見つめたまま、その首を横に振った。先ほどまで、ひたすらこくりと頷いていた先生が初めて、それを認めようとしなかったのである。
今度は、僕が黙っていた。
部屋の奥に誂えられた小さな窓の向こうにキラキラ輝く陽が力なく注いでいるのが見えた。

先生はそのまま何事もなかったかのようにして甘いお菓子を食べ続けていた。
僕は話題を変えようと思い、お菓子を食べ終わるのを待って、少々陽気な声で言葉をかけた。

「M先生、先生は、時々、外を散歩することがああるのですか?」

先生は黙ったままじっとしていたが、僕の方に顔を向け、困ったような表情を見せたので、僕はすかさず付け加えて言った。

「先生、廊下を歩きませんか? 寝てばかりじゃ身体によくないし、せめて廊下を一緒にあるきましょうよ。」

先生は、ベッドから脚を下ろし、スリッパをはき始めた。そして、少し先を行く僕の後をついて静かに歩き出した。廊下の灯りは弱弱しく、物音一つ聞こえない静けさに包まれていたので、突然、二人きりの世界に入り込んでしまったかのような気がした。
背がずいぶん小さくなったように見えたが、思ったより、先生の足取りはしっかりしていた。僕たちはテレビのある明るい広い部屋、この施設の「居間」と思われるところに辿り着いた。
大きな四角いテーブルに隣り合って椅子に腰をかけ、先生の小さな手を握りながら先生に向って言った。

「先生、先生はこうやってテレビを見にやってくることもあるんですか?」

でも、何故か先生はしきりに僕を珍しそうに眺めるだけで応えようともしなかった。それでも、それが彼にとってこの瞬間を楽しんでいることだけは判った。というのも、僕の顔をしきりに眺めながら、ニコニコと笑顔を向けていたからである。僕は再びその先生の透き通った瞳を覗き見ていた。

結局、最後まで先生は音声を発しなかった。

先ほどの女がその居間に現れたところで、僕は一度先生の個室に荷物をとりに行き、その場に戻って先生に別れを告げた。

「先生、今日は有り難う。お会いできてよかったです。また、来ますからそれまでお

元気でいて下さいね。」

そう言い終わるや否や、先生はまた大きくニコリを笑みを浮かべた。
女が言った。

「M先生、この人誰? わかりますか?」

むろん、先生は一言も発しないままだった。

…………………
和服姿のM先生がテーブルの向こうのソファーに座りながら言った。

「うちのカミさんが、いまでも君のことをまるで弟のように心配して、時々思い出したように、君のことを聞いて来る。<あの子、いまどうしているかしら?>って言うんだ。」

僕は先生の後ろの方で膝をつきながらこちらに顔を向けている奥様に向って、幾分萎縮しつつ応えた。

「先生の奥様にそんな心配をさせているなんて、何といったらよいのか…」

奥様が何か言おうとしたが、それを待たずに先生が言葉を繋いだ。

「だって、初めて俺の家に来た時、最初の挨拶以外、君は一言も言葉を発せず、せっかくだから夕飯を食べていきなさいとすすめたのに、箸にも手を付けずに帰っていったのだから、よほど印象が深かったんだな。ま、その頃の君は、いまで言えば、自閉症児のようなものだったよ。」

あの頃の僕は人前でしゃべるということにある種の強い恐怖を抱いていた。一同の視線が僕に向って来ることを極度に恐れていたのだった。だから、人に道を尋ねられた時とか、お店で買い物をする時のように、必要に迫られた時以外は、自ら他人に音声を発することもなかったのである。

そんなある日の午後、平塚君と近くの川べりで遊んだ後、彼が突然こう言い出したのだった。

「おい、幸田、これから先生の家に行くぞ。もう遅いし、そろそろ暗くなってきたけど、今のうちに向えば大丈夫だ。」

「え? 先生の家に?」

それが隣のクラスの担任の先生のことだと気づくまでに一瞬の間があったが、どうやら平塚君はしばしばその家に足を運んでいた様子だった。
仲良しの友達を除いて会話をすることもなかった僕は、それまで先生のお宅に訪ねるということは全くなかった。ましてや、予定もなく、いきなり訪ねていくなんて、とうてい考えられないことだった。

「でも、その先生、僕の担任じゃないし、それに知らない人の家に行くなんて僕にはできないよ。」

「構いやしないよ。先生はいつでも歓迎だと言ってくれてるんだ。」

僕は川の浅瀬に石の囲いで作っていたビニール袋の水槽から小さな魚を放して、黙っていた。

「おい、行くぞ。幸田。」

平塚君は膝まで濡れていたズボンの裾をまくりながら裸足のまま靴を履いて歩き出した。その後を追うようにして、僕も濡れた靴下を脱いで靴を履き、小走りに先を急いだ。あたりはもう薄く夜の影が覆い始めていた。遠くで山鳩が鳴く声が聞こえた。

先生の家は、街の南側の公営住宅の中にあった。
平塚君がドアの横のブザーを押すと、中から男の人がドア越しに顔を出した。M先生である。

「おう、よく来たな。平塚。」

先生は嬉しそうな声で言いつつ、初めてみかける僕の方にちらりと目を向けた。

「幸田です。一緒について来ました。」

僕はぺこりと頭を挙げてお辞儀しながら小さな声で言った。
家の中は思ったよりも狭い造りだった。居間の真中に大きな丸テーブルがおいてあり、テレビを背にソファーが置かれていたので、それだけで部屋が余計狭く感じられた。僕と平塚君は差し出された座布団の上で正座して坐り、先生にもう一度挨拶をした。
台所から先生の奥様が顔を出し、冷たいジュースを運んできて、声をかけてきた。

「あら、それじゃ足がしびれるわよ。胡坐でもかいてもっと楽にしなさい。」

その声に、僕は胡坐に姿勢を変え、平塚君は足を前に伸ばした。
その時、どんな会話をしたのか、今となってはよく覚えていない。ただ、先生が職員室での人間関係や教室でのトラブルなどについて、あるいは問題児ことばかりでなく、勉強のよくできる生徒たちのこともいろいろ心配していることを語っていた記憶がある。僕の方は一言もしゃべらず、先生の話に聞き入っていた。明るい性格の平塚君は、先生の奥様と愉快な話をしていた。クラスの友人のこと、クラブ活動に関すること、そして何故か家族の事もしゃべっていた。ベランダのガラス戸の傍の扇風機が音を立て回っていた。

先生が言った。

「俺は、教師の仕事は、でしゃばる奴にはしたいことをやらせて、むしろ目立たない生徒の方を励ますことにあると思っている。そんな子らは、何か一つのきっかけがあるだけで、自信を持つようになり、自分の力で頑張るようになるんだ。」

いまから考えると、先生はまだ若かったのだ。僕と12,3歳ほど年上ということだから、当時は26,7歳の<若造>だったはずである。おそらく新婚さんになったばかりで、まだまだ情熱を持って教師の仕事に挑んでいた頃だったのだろう。先生の声には熱がこもっていた。

時計の針が7時を指そうとなった頃、先生はテレビのスイッチを入れながら言った。

「もう夕飯の時間だ。何もたいしたものは出せないが、晩御飯を食べていったらいい。」

そう言い終わるや、傍にいた奥様に食事の用意をするよう声をかけた。
僕は先生の家にお邪魔するだけでも恐縮していたので、夕飯までお世話になるとは思ってもいなかった。平塚君に「もう、引き上げようよ」と言ったが、彼は帰る様子をみせなかった。
先生の話では、クラスの生徒たちがよくこの家に遊びに来るとのことで、連中の中にはわざわざ晩御飯をめがけて訪れるやつもいるとのことだった。洗濯ものをまとめて持ってくるやつもいると言った。奥様の手捌きも馴れたものだった。けれども、運び出され食事の前で、僕はますます萎縮し、全身が固くなっていくばかりだった。僕はその後も差し出されたものに箸をつけることもなく、ひたすら先生の言葉にじっと耳を傾けていた。

その翌年、M先生は僕のクラスの担任になった。
先生は、何事にも自信がなく、人前で音声を発することもなかった僕の様子をいつも見届けていたのであろう、ある日、校舎の廊下の端を歩いていると、そっと僕の傍に寄ってきて、こう囁いた。

「幸田君、先生はいつもキミの味方だからな。」

以来、先生はしばしば廊下で、誰にも聞こえない小さな声で、この言葉を繰り返した。そして、この小さな声が僕に確かな勇気を与えた。
やがて僕は人前で声を発し、自分の意見を言い、いつしか勉強にも精を出すようになった。それらはすべて先生の期待に応えられる人間になりたいとの熱望にもなっていった。たった一つの言葉が、それほどに僕に大きな影響をもたらしたのである。

 

それから十数年の歳月が流れていた。
和服姿の先生は、あの頃とさして変わった様子もなかったが、すでに教員を辞めて室蘭で教育主事の仕事をしていた。
僕も32歳になっていて、子どもが二人いる大人になっていた。

「先生は、どうして教師をお辞めになったのですか?」

僕の言葉に先生はこう応えた。

「教師を続ける自信が無くなったんだよ、幸田君。実は、教師生活を送っているうちに生徒をよく理解できないことが続いて少々道に迷っていた頃だった。俺の教室でホームルームを開いている時のことだ。クラスで一番勉強のできる子が突然立ち上がって、こんなことを言い出した。<このクラスに給食費も払っていないのに、のうのうと食事を食べている奴がいる>と。実は、給食費を払えない生徒というのは、両親が亡くなって親戚の叔母さん夫婦に預けられた貧しい家の子だった。それをやつは「告発」したんだ。しかも、彼はこう言ったんだ。それが認められることかどうか、ここで採決しようと。俺は頭に血がのぼって想わず大声だ彼を叱りつけた。そうしたら、今度は父兄からクレームが来たんだ。」

先生はその見栄えのする顔をゆがめながら苦しそうにして語り出していた。

「でも…。」

と、僕は言った。

「それでも、先生は止めるべきじゃなかったと思う。そんな時こそ、先生のような人が必要なんであって、そこで教師をやめったら、一体誰がその貧しい子の立場になって応援するんだろう。」

そう言った後で、僕は付け加えた。

「すみません。事情もよく知らないまま勝手な意見を言ってしまって。でも、僕自身がM先生に勇気づけられて自分を変えてきた経験を持っているので、それでついきつい言葉になってしまいました。」

先生は、黙っていた。
奥様も何も言わずじっとしていた。
そして、こんな会話が先生との最後のやり取りとなった。

…………………

別れ際に、僕はもう一度先生の方に向って手を振りながら言った。

「M先生、サヨナラ。また、来ます。」

やはり言葉はなかったが、先生も手を静かに振って応えてくれた。

曙圓を後にして、僕は来た時とは違う別の道を通って歩を進めた。足元でまた靴の下がキュッキュッとなった。突然、空の上から鳥の囀りが聞こえたような気がした。思わず上空を見上げてみた。鳥の姿は見つからなかったが、メガネが大きな露で濡れ、目の回りが急に冷たくなっていった。僕は、それが自分の涙であることにしばらく気づかなかった。