清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

松本清聴の映画講座6 「グリーン・ブック」

 この作品は、ニューヨークの下町ブロンクスで生まれ育った一人のイタリア系アメリカ人の物語である。「おじさん二人の物語」と銘打ったキャンペーンが張られた作品だというのに、敢えて<一人の>と言ったのは、映画の全体が一貫して彼の眼を通した形で描かれているからである。
 その主人公トニー・バレロンガは、マフィア世界で稼いだこともあるという点を除けば、さしてこれといった特徴を持った男ではない。イタリア系にしては少々体格が良くて、喧嘩にはめっぽう強いらしいということくらいしか解らない。どうやら、その熱しやすい性格が徒となって、せっかく勤めた清掃車の運転手という堅気の仕事も棒に振ったようだ。そしてまた、いまや高級クラブ「コパカバーナ」の用心棒兼お偉方の運転手をしている。
 大金持の紳士淑女たちに混じってマフィアなどのイカガワシイ連中がところ狭しと詰めかけたホールで、突然、男たちが暴力沙汰を起こして、場内の空気をぶち壊しかねない騒ぎとなった。あれ、どうなるのだろうかと目を凝らそうとする間もなく、体格のいい男たちが忽然とホールの脇から飛び出して、騒動を引き起こした輩を力づくで押さえ込み、そのうちの一人の男が血気盛んな若者をクラブの外に連れ出して半殺しにしかねないほど拳で殴りつけてしまった。
 これが、この作品の主人公の登場である。
 男は激しい暴力を行使することに何の痛痒も感じないほど、一見凶暴に見えたが、彼には美しく愛らしい妻と二人の可愛い子供がいる、守るべき家族があった。イタリア人らしく、一族の中では家族思いで、そのシーンが現れると、どうしてこの男があんな暴力を揮うのか、不思議に思えるほどだった。おそらく、清掃車の運転手に一度はなったのも、そうした家族のために選んだ堅気の道だったのかも知れない、と僕は勝手に想像していた。
 その「コパカバーナ」が改装のため、しばらく店を閉鎖することになった。そんな訳で、凄みの効いた彼の仕事もしばらくはお払い箱となってしまった。
 どいう訳か、彼はマフィアの仲間が進める仕事も断って、何か別の仕事を待っているかのようでもあったが、そう簡単にいい勤めが見つかるものではない。そんな彼に付き人として用心棒と運転手を兼ねた仕事の話が舞い込んで来る。何と、カーネギーホールの上階に住む黒人の天才ピアニストからの依頼だった。
 まあ、世間並みの白人そのものの彼は、黒人に対して少々偏見を懐いてはいたが、それは白人主義の面を被った人種差別意識というほど強いものではなかった。その話にも特に嫌悪を懐くこともなく、俺の条件を呑んでくれるのなら、その仕事を引き受けてもいいと言う。ただし、これには、もう一つ難点があった。それはアメリカ中西部と南部を興行でめぐる長旅となる上、クリスマス・イブの日までそれを続けなくてはいけないということだった。家族とはしばらく離れ離れになるだけでなく、大事な<ブォン・ナターレ>(クリスマス・イブ)にも不在となるかも知れないのだ。男は、何がなんでもイブの夜にはここに戻ってくると言い放って仕事を受けることにしたのである。

 実は、黒人ピアニストのドクター・シャーリーには、腕っぷしが強く、運転歴の長い男を必要とする理由があった。
 シャーリーはすでにピアニストとして成功しており、上流階級の仲間入りまで果たしていた。アメリカ東部や北部、あるいは比較的リベラルな西海岸であれば、十分に高額の報酬を受けることも当たり前だった。
 その男が、チェロとベースとピアノのトリオ・コンサートを、敢えて、さして高くもないギャラで、2カ月の長旅までして南部で実演しようと決めたのには訳があった。東部では白人社会にも受け入れられ、余分な摩擦を避けようとして、彼等に媚びてまでして上流社会に止まろうとする自分の姿に彼はある種の嫌悪を感じていた。黒人であるにも関わらず、名誉と富を一通り手に入れた彼は、単なる才能だけではなく、自分には人間として堂々と生きてゆく<勇気>が果たしてあるのかどうか、それを知りたかったのである。そこで、彼は不安がいっぱいの南部への旅たちを敢行することに決めたのだ。そして、それが、差別と暴力に満ちたコンサート・ツアーを乗り切るために、イザとなれば自分を守り、トラブルをうまく捌くことのできる、一人のタフな男を必要とする事情だった。
 そんなことは何も知らない少々粗野であるが情には厚い一人の男と、無事に演奏ツアーを終えることができるのか人生を賭けて挑む寡黙なもう一人の男との、二人の旅がスタートする。
 下町で身に着けたスラングを使うトニーと、上流階級と同じ言語を放つシャーリーとはまるで住んでいる世界が違い過ぎるほど違うものだった。このため、二人が共通の感情を懐くことさえ無理なことのように見えた。
 その上、この旅は、もう一つの事情によって決して愉快なものではなかった。
 ある街では、黒人は郊外の粗末なモーテルのようなところにしか泊まれない。だが、白人のトニーはちゃんと普通のホテルに宿をとれるのである。また、シャーリーが化粧室を求めると、黒人はホテルの外にある粗末なトイレしか使用できないとされるのである。バーでは白人の危険な暴力を受ける場面があったが、そこでは夜間は黒人の外出禁止という白人たちが勝手に作ったルール違反が問題とされたのであった。
 この映画のタイトル「グリーン・ブック」とは、そうした黒人が旅をする際にどこで、どのホテルを利用できるか、当地では何が禁止されているか、トイレや飲み屋まで白人用と黒人用に分かれていることなどを記したガイドブックのことである。1962年の時代になっても、そうした人種差別がデモクラシーの国アメリカの州や町で続いていたのである。
 実を言うと、音楽にさして詳しくもない僕は、上流階級の言語を巧みに操り、笑顔も見せない天才ピアニストのシャーリーをあまり好きになれないまま、その二人の旅を眺めていた。主人公のトニーも好感を持つには平凡で退屈な男に見えた。それが、とある南部の州の豪邸で演奏するトリオ・コンサートの場面で、煙草を口に咥えながら、窓の外から眺めていたトニーがシャーリーの奏でるピアノに思わず惹き込まれていくところから様相が変わっていくのである。
 そして、シャーリーが酔っ払った勢いで地元のバーに飛び込んでしまったことから白人たちの恐怖の暴力に遭う場面で、必死の覚悟で彼を救い出す。やがて、トニーはいつしかこの孤独な天才を自ら守ろうと思うようになり、南部の陰湿な差別を憎むようにさえなってゆく。いや、それだけでない。トニーは、後部座席にシャーリーを乗せたリムジンを走らせながら、辺りの緑豊かな草原や田畑を美しい光景をとして眺めるまでになっていくのである。

 そんなトニーが遂に爆発するシーンがやってくる。
 冷たい雨が降りしきる真夜中に、道に迷って、おずおずと車を走行させていた時だった。すぐ後ろからパトカーがついて来て、いきなりトニーの運転する車を止めた。そして免許証を出せと迫ったばかりか、大粒の雨の中を車の外に出ろと言い出した。そして中を覗いて後部座席に黒人がいることを知るや、彼にまで外に出ろと威嚇した。若い方の警官は一瞬躊躇するものの年上の方が強引にシャーリーを引きずり出せと迫ったのである。もう、トニーの堪忍袋が切れるのは時間の問題だった。怒り狂った彼はいきなり警官を一発の拳で殴り倒してしまった。もちろん、二人とも町の拘置所に収監されるのであるが、観ている僕たちは、トニーの中に単なる暴力ではなく、何か人間を想う温かいもの、その正義感にも似た熱情を感じるのである。
 いよいよ、この荒んだコンサート・ツアーの最後の日がやってきた。今夜は、クリスマス・イブの華やかな演奏会だ。だが、ここで、再び「事件」が起こる。
 ここは、あの悪名高い黒人差別の州、アラバマ州バーミンガムの豪奢な屋敷だ。金満家たちの為にする音楽夜会に招かれたシャーリーたちが1人の執事に迎えられてその豪邸内に案内される。だが、シャーリーだけは、粗末な納戸のような狭い部屋に連れていかれ、「ここが、あなたの控え室だ」と指示される。思わず怒りを露わにするトニー。それでも、シャーリーはいつもの通り冷静なままだった。
 そして、シャーリーがトイレを尋ねてそこに向かおうとした時、その執事の男がいきなり、「あなたのトイレはあっちだ」と屋敷の外におかれた黒人専用の場所を指さしたのである。今度は、さすがのシャーリーも、それにどう反応してよいのか、途惑いを見せた。とうとう、屋敷の主と思われる人物も現れて、これが決まりだと言い出した時には、トニーとシャーリーの二人は、ここで遂に、「それが認められないのなら、コンサートには出ない」と言い出してしまったのである。慌てふためく彼らを振り切り、堂々とそこを飛び出そうとする二人の姿に、僕は思わず拍手を送ったものだった。

 最後のコンサート地点から東部のニューヨークまでどれほどの距離があるのだろうか。シャーリーを乗せて、その長い路をトニーは雪が積もって思うように先に進まない車を溜まり溜まった疲れと共に運行し続ける。だが、それももはや限界だ。疲労困憊のトニーはここでちょっとした弱音を吐く。家に辿り着けなくとも構わないから、どこかで休みたいと言い出したのである。
 場面は一転し、ネオンが輝くニューヨークの街中で停車する一台の車が現れる。後部座席でぐったりした格好で眠り込んでいるトニー。そして、運転席から降りたばかりのシャーリーが大声で彼を起こすシーンが映し出される。今度は、ピアニストが用心棒を助けて、何とかイブの夜にトニーを家族に送り届けたのである。

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車の中のトニーとシャーリー

 この作品には、存外、「ホッと」する場面が少ない。それもそのはず、いつ、どこで、暴力や理不尽な差別が襲いかかるかも判らない長旅のことだ。そんな穏やかなシーンは最初から望めないのだ。それでも、僕は二つのシーンで救われた気分になった。
 アラバマ州からの帰り道、黒人だけのライブハウスで、ステージに置かれたピアノを弾いて、一瞬彼らのヒーローになったシャーリーが、いつのまにか黒人たちの輪の中で軽快なセッションを演じている。ロシアの音楽学校で正統な教育を受けたシャーリーにとって、シナリオのないセッションなんぞ、まるでトニーのスラングのようなものだった。ところが、その彼が笑顔を見せながらスウィングしている。それを見ていたトニーも思わずスウィングして応える。まったく境遇の違う二人が一つになった瞬間である。それを観ている僕も、思わず「ホッと」する瞬間だった。
 もう一つは、トニーの妻ドロレスに宛てた手紙の話である。
 コンサートの旅の合間に、束の間の休憩があると、トニーは約束した通り、妻に宛てて手紙を書いていた。その、まるで言わば小学生のような<作文>を覗き込んだシャーリーが詩的情緒をいっぱいに含んだ瀟洒な文章を彼に指南する。場面は変わって、トニーの可愛い妻がその文面に涙をためて読んでいる姿が現れる。この一見どこにもありそうな妻への手紙のエピソードが、僕たちの心を落ち着かせる。ニューヨークでトニーの帰りを待っているドロレスはますます彼を愛おしく思うのである。

 ところで、せっかくクリスマス・イブに間に合って、いまや親族に囲まれて一家団欒の席に居るというのに、トニーの表情が冴えない。1人でカーネギーホールの上階に戻ったシャーリーも寡黙なままに孤独に取り囲まれている。心に中に、何か大きな穴が開いたような、そんな気持ちに襲われているのだ。しかも、あの二人の男が同時にそれを感じている! 
 そして、そのラストで、場面が再び動き出す。意気消沈した表情のトニーの家にシャーリーが笑顔とともにワインボトルを持って訪ねて来たのだ。思わず喜ぶトニー。その一方で、白人ばかりの家にやって来た突然の黒人訪問客に一同は一瞬ためらいを覗かせる。その時、妻のドロレスがシャーリーの胸に飛び込み、こう優しい言葉をかけるのである。
 「素敵なお手紙を有り難う、シャーリー」
 彼女にはすべて解っていたのである、手紙のことも、旅の二人がうまくやっていたことも。
 むろん、そのシーンを眺めた僕が「ホッと」したことは言うまでもない。いや、何か熱いものがこみ上げてくるのを感じでいたのである。

 新宿は歌舞伎町の映画館を後にして、僕は、深夜の夕食を済ませようと、ネオンが彩る明るい通りを進んで、以前しばしば立ち寄ったことのある、老舗のカツ屋に飛び込んだ。こんな時間だというのに、中は客でいっぱいだった。レジを任せられた中年の男が、椅子席に座った僕の前にやって来て、小さな声で「お久しぶりですね」と声をかけて来た。すぐ隣のテーブルでは、中国語を話す若者が3人、何やらしきりに叫んでいた。
 注文の食事が出てくる間、僕は映画館で手に入れたパンフレットを拡げて、作品の中心人物、トニー・バレロンガを演じた男優ヴィゴ・モーテセンの顔がアップになった写真を眺めていた。それは、あの粗野なトニーの顔ではなく、どことなく翳を思わせる物静かな顔立ちだった。そのすぐ横には「1958年、アメリカ、ニューヨーク州生まれ。父はデンマーク人。母はアメリカ人」と記されていた。彼はイタリア系アメリカ人ではなかったのだ。それにしても、あの風貌とスラングとで、この男は見事にイタ公役を演じたものだと、改めて感じていた。
 食事も終わり、再びネオンが輝く通りを抜けて、僕は近くのホテルに戻る途中、辺りのことをすっかり忘れて、ここがニューヨークのクリスマス・イブの夜のように思っていた。トニーがどこかで待っているような気がしたのである。