清聴登場

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ウクライナ侵攻という、出来事をどう読み取るか?

―O君への手紙

ウクライナ侵攻という、この出来事をどう読み取るか?

O君、

君の返事を読んで、僕は反論を試みようとする前に、思わず悲しみに似た感情に囚われている自分を感じていました。それはウクライナ侵攻のことよりも、ずっと手前のところで君の思考が閉じていることに強い失望を感じたせいでもありました。有能な官吏としても“成功”した君が、存外に素朴な思考に囚われて、世界を見るその眼が恐ろしく無邪気なことに僕はまず驚いたのです。

 

君は、僕がバイデン米大統領の一連のメッセージの中に、その問題点を指摘した途端、いきなりアメリカを非難する者は<左派である>とか<所詮、〇〇党は…>とか、あたかもイデオロギーの反対側の声であるかのように語り始めたのです。それは全くウクライナ事件とは無関係にアメリカをひたすら擁護するだけでなく、それとアメリカの傍に身を寄せるばかりの日本の政治の貧しさをも弁護する論述とつながっていたのです。そして、肝心の出来事、つまりウクライナ侵攻については政府の公式見解そのものを繰り返して、“悪の象徴”と化したロシアを非難するだけにとどまったのです。

最初に断っておきますが、僕はこのたびのウクライナ侵攻は非難すべき事柄であり、ロシアはその責めを負うべきだと考えています。それは、戦争はいつでも非人道的であるということが第一ですが、それとともにこの侵攻には正当性が一切ないということ、その論理が、国際社会が築き上げてきた国際法上のルールを無視したものであることもその理由の大きな背景ともなっています。この後者の「理屈」面については、おいおい語っていくつもりです。

 僕が言及したのは、そのことを当然の与件として、この予測された出来事を回避する手立てを十分に行使することも出来なかった要因についてのことだったのです。

 

一般に、政治の世界で起きる出来事についてはそうでありますが、殊に国際政治の出来事を語る際に、僕たちが常に気をつけておかなければいけないことの第一は、“出来事をあたかも自然現象のようにして語ること”の罪の深さについて決して忘れはいけないということです。

実際的なパワーのせめぎ合いの中で生じる政治的な出来事は、どのようなものであっても、それは不断に、国際関係をその底層で支えるシステム(例えば、国際法や国際機関など)とそれを運用する政治力学の相克の中で生まれているものであって、仮に、一方が<悪>に見えて、他方に<正義>があるような場合にあっても、出来事の発生の要因は常にその両者の決断と行動選択に依存しているのです。

それも、後でも触れるつもりでいますが、同じ行動選択に見えるような場合にあっても、その選択の道筋や論理の立て方の違いによって、長期的にどのような効果の相違が生まれるのかも、よく観察しておかなければなりません。というのも、その選択が、目前の出来事の処理にとどまらず、それが、より望ましい、つまり、それ以後のより安全で平和な国際社会を強めていく方向に作用するのか、それとも、それが短期的にはともかく、長期的には逆効果をもたらすのか、それを冷静に見極める鋭い分析力と洞察力が、専門家たちや職業的ジャーナリストたちはもちろん、時代をリードする政治家に最も求められる資質でもあると思うのです。その具体的ケースについては、また後程に触れるつもりでいます。

そうした幾分複雑な思考回路を一切飛ばして、善か悪か、右か左か、あるいは西か東か、といった安易な思考図式で目の前の歴史的な出来事を「理解」したつもりになることほど、軽率で安易なことはないのです。世界はそんなに薄っぺらには作られていないのです。

 

一般的に流布されている情報と初歩的な教養だけで世界の出来事と理解したつもりになる自称知識人やエリートたちの中には、目前の生きた出来事をあたかも自然現象と同じく理解し、あとは一通りの解釈を加えるだけだと思い込んでいます。要するに、政治の世界の中で生じた出来事を眺めるのに際して、自分の眼で物事を冷徹に、つまり予見を排して観察する努力と、それを自らの思考力と判断力を以て鍛え上げた見取り図の中に描いてみせるという思考態度に著しく欠けているのです。しかも、それらの出来事が国際政治のダイナミックな、それもし烈な抗争の結果として生じていることにも思考をめぐらすこともないのです。そして、その与えられた二項図式の認知枠に頼って「善悪」を判断したつもりになっているのです。僕に言わせれば、こうしたことはまさにある種の思考停止に思えるのです。

 

O君、

僕がまず君の言説に感じたのは、その種の思考停止にも似た、実に他愛もない一般的な教養に依存するだけの知識で目の前の生きた出来事を理解したつもりになって、そこに満足しているという、その姿でありました。そこに、批評する精神も冷静な洞察力も全く見当たらないように、僕には感じたのです。

 

ところで、いま僕たちが目撃しているウクライナ侵攻という出来事は単なる自然現象とはまったく異なるものであるばかりでなく、ロシアやウクライナはもちろん、主にNATO諸国やアメリカの行動選択にも大きく依存している出来事なのです。実際、攻める側のロシアも、これらの国々や政治家たちの判断や備え、あるいはメッセージを重要な判断材料として、一連の決断を下し、行動を選択してきたと言ってよいでしょう。

 にもかかわらず、アメリカのバイデン大統領は、ロシアのウクライナ侵攻の直前に、メディアに向かって「まもなくウクライナ侵攻が始まるだろう」と、まるで気象予報士のようにコメントしたのです。僕が、この報道を知って驚いたことは言うまでもありません。この大統領は、この出来事をあたかも真夏のアメリカ大陸を襲うあのハリケーンでもやって来るようにして語ったのです。それは大統領だけでなく、報道官や国務長官にまで一貫しているのです。それどころか、それに先立って行われた米ロ首脳会談の席で、何と、「米国は軍事介入するつもりはない」とまで言い切って、ロシアを勢いづかせもしたのです。

一般に、政治力学、とりわけ軍事的な拮抗が物事の行方を左右するとき、政治の世界では“曖昧戦略”という選択肢が効果を発揮するとされています。例えば、核を行使しようする国に対して、時にこちらがそれを上回る攻撃力を行使する可能性を示唆することによってそれを抑止するというのが通常ですが、このため、核を搭載した原子力潜水艦がどの海域を航海しているのかを曖昧にすることによってその効果を増幅させる場合などがそれに当たります。それは必ずしもそうした行動に出ることを事前に約束するという意味ではなく、緊張した力関係が存在する場面での、いわば「威嚇効果」を狙ったものです。

もし、米国がロシアのウクライナ侵攻を少しでも阻止する意思があるなら、それをあらかじめ封印するような発言あり得なかったと思うのです。しかも、バイデン大統領は、いよいよロシアが侵攻開始となった時点で、「侵攻が小規模でなかったら、強力な経済制裁を行う」と、あたかも一定の侵攻それ自体を傍観するかのようなコメントまでしたのですから、実に奇妙な光景として僕には映って見えたものです。

 

いずれにせよ、このロシアによるウクライナ侵攻という出来事を理解するためには、その歴史的文脈や国際政治上の先例を咄嗟に思い浮かべ、それらとの対比で物事を読み取る資質が求められるはずです。

 

O君、

僕が君に僕の意見を送った時、そうした文脈と照らし合わせて、必要なコメントをしていたのです。ところが、君は、ほとんどそうしたことにも思いを馳せることなく、欧米の側につくか、それともロシアかみたいな二項図式でもって、僕を非難しようとしたのです。

 

しかし、これは、君だけではありませんでした。

ウクライナ侵攻発生前後において、報道番組で披歴されたコメントに中には、一部の例外を除いて、歴史的文脈にも配慮しつつ、いわば比較史的な視点に立った、奥行きある言説を聞くことはあまりありませんでした。それほどに、ジャーナリズムや専門家と自称するコメンテーターのあまりにも“軽い解説”にも僕は驚き、深い失望を覚えていました。

そこで、以下に、それらのコメントに何が欠けているのか、そしてウクライナ侵攻について思考するということはどういうことなのか。僕が考えるところのものを、5点ほど挙げて提示してみたいと思います。

ウクライナの選択肢と難題について

第一は、とあるテレビ局のニュース番組で、自称ロシア・東欧地域研究のスペシャリストと名乗るコメンテーターが、こんな発言をしているのを聞いて、僕は思わず叫んだものでした。

その女性は、こう言ったのです。

ウクライナの大統領はNATO加盟を求めているが、これに対抗する何某氏は、中立を唱えており、ロシアの後ろ盾を受けていると言われている」[ただし、これは筆者が聞き取った要旨]

僕には、その名指しされた人物が実際にどのような人間であるのか十分な情報を持ち合わせていないので、この真偽について判断する資格はないのですが、彼女の語りに、「中立」という選択肢は当初から外されたままになっていることに驚いたのでした。

仮にも、ロシアや東欧の専門家と称するのであれば、ロシアと直接国境を接している国々の実例を挙げて、それを論じる地政学的な素養を持ち合わせていなければならいなはずですが、そこにそうした言及は一切見受けられなかったのです。

と言うのは、僕はこの話を聞いたとき、咄嗟に、第二次大戦直後のフィンランドの歴史的体験を思い出していたからです。

ヨーロッパ北方の「小国」であるフィンランドは、当時のソ連との激しい戦争を戦って国家の独立を維持するという稀有な体験を持った国ですが、如何せん圧倒的な軍事力を誇る当時のソ連に優位な講和を結ぶことになります。それでも、第二次大戦後、そして世界とヨーロッパが東西冷戦に突入した後も、ソ連との間に安全保障上の協定を結んで、西にも東にも与しない「中立」を維持し続けたという経験もしくは「実績」を持っていたからです。この当時、いわゆる西側の知識人や政治家たちが、冷戦思考(西か東か)そのままに、そのぎりぎりの選択をも揶揄してロシア(旧ソ連のこと)に追従する(ようにも見える)の国民の選択を「フィンランド化」(大国に従属する態度の意)と嗤ったほどでした。

だが、およそ千数百キロの長い国境を接するフィンランドにとってロシアとの関係を如何に抑制的なものにするかが極めて現実的かつ切実な課題でした。それが、いわば”生活の知恵”のようにして、国家としての「自立」と引き換えに、西側への参入を回避しつつ「中立」の道を選択するという態度を採らせたのです。この頃のフィンランドはまた、実際に経済的にもソ連との結び付きが強かった。こうして、近隣のポーランドバルト三国がロシアの勢力圏である「東欧」に組み込まれていったのに対し、フィンランドは「中立」を維持し続けることに成功したのです。

こうした歴史的事例にも言及することもなく、あたかもNATOに与するか、それともロシアに屈するかの二者択一が議論の焦点であるかのような印象を与えてしまっていたことに、僕は驚き、また落胆すらしていたのです。

旧ソ連のなかでも軍事的要衝にも位置し、しかもロシアの戦略物資でもあるエネルギーの領域でも重要な拠点となってきたウクライナには当初から二つの選択肢があったと思えるのです。それは、欧州の集団的防衛機構であるNATOに加盟するか、それともロシアともNATOとも軍事的な連合を組まない「中立」の道を選ぶかの、二つの選択肢です。

しかし、ウクライナ国家の現状を覗き見れば、これとても簡単な選択肢ではないことが分かります。

実は、この問題については、ウクライナという国家は自らの中に、当時のフィンランドは別の意味での強い難題を抱えています。と言いますのも、ウクライナは西部と東部の間で反ロシアと親ロシアの両勢力が拮抗してしばしば激しい戦闘をも交えた内紛を生じている国であるからです。国連の調べでは、すでにこの紛争で、ウクライナ東部でおよそ5000人もの死者を出すほどだったのです。この新興の国家はナショナル・アイデンティティすら未だに曖昧な道を歩んでいるのです。1960年代のアフリカでの旧植民地からの独立国の例のように、この国も宗主国(大国)の恣意によって人工的に作られた国家でもあって、歴史も言語も宗教すら異なる人々が混在したまま立ち上げられた国の一つなのです。それが、政府軍と分離派勢力の軍との衝突までもたらしていたのです。その国にいきなり、<あれかこれか>を迫ることすら困難なことは火を見るより明らかなことであろうと誰もが推測できるような事態です。

もし賢明な為政者がいたとするなら、この混沌とした状況をどのようにして<一つの国民>としてまとめ上げていくことができるのか、苦悶しつつも、反ロシアか親ロシアかといった二者択一的な選択肢以外の道を模索したことだろうと思うくらいです。こうしたことに想いをめぐらすこともなく、ひたすらに二百年以上も前に国民国家を立ち上げたヨーロッパの国々と同じようにしかこの国を理解していなかったとすれば、自ずとその判断は正確さを欠くものとなるに違いありません。これは、「自由主義の側に与するか否か」といった素朴な思考で捉えられるものでもないのです。なぜなら、そこではいわばネーション・ステイト・ビルディングという、古典的ながらも、とても困難な課題の克服それ自体が問われている状況だからです。

 僕は、この国には、何よりもまず、あれかこれかという前に、どの大国にも左右されずに、長い時間をかけて国造りをしていくという「大事業」が残されていると思っています。

なぜ、NATOは動かなかったのか?

二つ目は、なぜNATOウクライナ侵攻に対して軍事的介入をしないのか、という点にかかわるものです。これもまた、自称専門家と称するコメンテーターがテレビの時事報道の中で応えていたことですが、これにも僕は再び驚いたものでした。

彼及び彼女は口を揃えて、「それは、ウクライナがまだNATOの加盟国ではないからだ」と言ったのです。むろん、ここでもキャスターと言われるテレビ局の人物もそれ以上そのコメントに質問することはありませんでしたが、これも過去の歴史をひもとくならば、<それが何を語っていないのか>、すぐにも分かることでした。

と言うのも、NATOは東西冷戦構造が崩壊した直後、国連の正式な手続きすらも経ないまま、ヨーロッパ南部に位置するコソボ地域を有するユーゴスラビアにいきなり空爆を加えたという歴史を有しているからです。仮にNATOを構成する主要国にその意思があれば、たとえ域外であっても武力を行使することが可能だったのです。この時の実際の行動選択の是非についてはここでの話題ではないので省きますが、このことを念頭に置くならば、コメンテーターはあのような素朴な回答で事態を解釈したように振る舞うことはできなかったはずです。

問題は、NATO加盟国であるのかどうかにあるのではなく、NATOとしての行動を起こすことがそれ自体として困難であったことにも起因しているとのだと僕は見ています。バイデン政権が誕生する直前までのトランプ時代にそれは極限まで広がっていたのですが、ヨーロッパの主要国とアメリカの間にNATOをめぐって距離が生じていて、フランスなどはNATOについて、アメリカが自国の都合にあわせて舵取りを左右する現状を打破したいとさえ考えるようになっておりました。

しかも、その当のアメリカ自身が、アフガニスタン戦争の後遺症もあって、内向きの国内世論に顔を向けていたのであって、当初から武力介入は選択肢から外されていたのだと見られています。

そこに加えて、ロシアとの経済関係の繋がりの相違がヨーロッパ諸国内でも意見を統一させることを困難にしていたことも作用していた傾向が見受けられます。NATOは、少なくとも武力の行使についてはまとまらなかったのだと僕は見ています。そして、これが真相に近いと思っています。

そうした政治的な現状に深く切りこむことなく、あたかもウクライナNATO非加盟であることが制約であったかのように語ることは、政治の現実に対する考察や分析なくして素朴な見解を披歴するようなものです。もし、ロシアがウクライナ侵攻し、戦闘状態に陥れば、かならず悲惨な結果がもたらされるであろうことは、誰にも予測がついたことです。それにもかかわらず、その軍事的侵略行為を未然に防ぐ行動選択をNATOは回避したのであって、これはウクライナの人々からの期待にも応えるようなものではなかったと僕は思っています。先に引用したアメリカのバイデン大統領の発言もこうした文脈で読み取ることができるでしょう。プーチン氏のロシアは、そこをよく見てあの暴挙にでたのかもしれません。

他の選択種はなかったのか?

この問題に付属して、もう一つ、ウクライナ侵攻に関して見逃してはならない事柄があります。それが3つ目の焦点です。それは、二度にわたって交わされたミンスク合意の件です。

2014年のウクライナ紛争の直後、同年9月に、ベラルーシの首都ミンスクで、欧州安全保障協力機構(OSCE)が介在して、ロシア、ウクライナ、それに未承認の「ドネツク民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の4者が著名した停戦合意が署名されています。でも、これはあまり機能しませんでしたので、2015年になって、今度はフランスとドイツが仲介するかたちで、より包括的な合意が交わされます。

その内容は、

 〇ウクライナと分離独立派双方の停戦の合意

 〇停戦のOSCEによる監視

 〇ウクライナ・ロシア間の安全地帯の設置とそのOSCEによる監視

 〇ウクライナ領内における不法武力勢力や戦闘員・傭兵等の撤退

 〇ドネツク及びルガンスクの特別な地位に関する法律の採択、両地域での選挙の実施

などです。

ところが、2019年に大統領に就任したゼレンスキー氏は、これを反故にしようと訴え始めたのです。彼は、2021年の訪米の際にもこのことをバイデン米大統領の申し出たほどでした。しかも、国内では分離独立派との交戦を開始し、あまつさえロシアに対しても挑発的な発言を繰り返したのです。そこには、こちらにはNATOがついているという気負いもあったように見受けられます。

ドイツやフランスはミンスク合意を尊重するという姿勢でしたが、ゼレンスキー氏の行動選択は、まもなくロシアの強行を誘因することへとつながっていったのです。本来なら、アメリカも含めて、このミンスク合意を守らせる働きかけを行う場面で、バイデン米大統領はロシアがウクライナ国境近辺で大規模な軍事演習を始めた際に、その行動を「侵略行為」だと激しく非難するメッセージを発信してゆくことで、そうした一触即発の状況に油を注ぐ形になってしまったのです。一体、何のためにその合意はなされたのでしょうか。

僕は、何度も繰り返しますが、ロシアに如何なる口実があったにせよ、他国を武力で侵攻する行為を断じて否定しています。そしてその憤りは、それらの悲惨なシーンが映し出されるたびに深く、強くなっています。

しかし、そうした事態をいかにして阻止するかは、それを止める側の行動選択にも深く関わっているのです。こうした点から見れば、ウクライナのリーダーも、とりわけアメリカも、そうした事態の回避に十分な行動選択をしたようには見えないのです。今日になって、僕たちが毎日テレビ報道やネットで覗き見るウクライナ国民と若いロシア兵士の悲惨は、こうした国際政治の力学の顛末でもあるということを片時も忘れてはならないと思っています。

再び、ウクライナNATO加盟問題について

4つ目は、再びウクライナNATO加盟問題についてです。

おそらくヨーロッパの主要国やアメリカがウクライナの首脳陣に対してNATOへの加盟を受け入れることを促し、ゼレンスキー大統領もそれを信じて行動し始めたのでしょう。

プーチン氏のロシア側は、それだけは止めさせたいと思っていたはずです。ロシアに敵対的な政権を排除できないにしても、先に紹介したフィンランドのようにせめて「中立」であってほしいと考えていたに違いありません。だからこそ、あのミンスク合意にも同意したのでしょう。ミンスク合意は、少なくとも、OSCEによる監視という仕組みを取り入れることによって、当面は「中立」に似た効果を期待できるものだったからです。

これは、あのキューバ危機の際にアメリカがソ連の行動に異様なほどの危機感をもって対処したことを想像すれば理解できることです。ロシアにとって自国の領域が接する地理的なゾーンで、対峙する勢力の軍事的拠点が造られることを何よりも回避したいと考えたのであろうと思います。

では、どうしてこんな事態にまでなってしまったのでありましょう。その背景には、以下の二つの事柄が絡んでいると僕は見ています。

その一つは、先も触れましたミンスク合意をウクライナ側が履行する気もなかったことです。そして、もう一つ、ウクライナNATO加盟問題に絡む経緯が決定的な要素として現れてきます。

その前に、いくぶんアメリカが主導するNATOサイドの一連の軍事演習のことにも触れておかねばなりません。なぜなら、それがロシアの、あの軍事演習と侵攻へと繋がっていると思うからです。

NATOはこれまでも何度もウクライナを交えた合同軍事演習を実行しています。

2017年には、9月11日から23日までの間、15カ国約1650名が参加する合同軍事演習を行っています。アメリカの欧州軍は、これを、NATOウクライナの連携を強める訓練が中心だとまでコメントしているほどです。この時点で、ロシア側は、協力の姿勢をみせなくなり、独自の動きを強めていくことになります。

ロシアの侵攻が始まる前年の2021年6月28日にも、NATOは、黒海で合同軍事演習を開始し、アメリカもこれに加わってウクライナから軍艦約30隻と航空機40機が参加する演習をおよそ2週間続けたのです。

そして、2021年10月、バイデン米大統領が主導して、NATOを中心とした15カ国6000人規模の多国籍軍による軍事演習を、ウクライナを交えて実施しています。10月23日には、ウクライナに180基の対戦車ミサイルシステム、シャベリンを配備しています。このミサイル配備は、バイデン氏がオバマ政権の副大統領時代に提案していたものでした。そして予想通り、これに反応して、ロシアのプーチン大統領が10月末からウクライナとの国境沿いに大規模な軍事演習を始めたのです。

にもかかわらず、驚くべきことに、バイデン氏は、プーチンに首脳会談を呼びかけてその実現に成功すると、会談直後の12月7日、「ウクライナで戦いが起きても、米軍派遣は行わない」と公言してしまったのです。そのことはすでに述べた通りです。

バイデン氏は、副大統領の間(2009年1月20日―2017年1月20日)、6回もウクライナを訪問しています。それも訪問のたびに息子のハンター・バイデン氏を伴い、そのハンター氏が2014年4月にウクライナ最大手の天然ガス会社ブリマス・ホールディングスの取締役に月収500万円の高収入で就任したことが発覚していることはすでに周知のことで、大統領時代のトランプ氏がこれを暴こうと、脅しを交えてウクライナの大統領に直接圧力をかけたことでも知られています。ま、このことは特に詳細に及ぶ必要はないでしょう。

しかし、これにもまして見逃せないことは、彼が副大統領をしている間に、当時のポロシェンコ・ウクライナ大統領を説き伏せて、ウクライナ憲法に「NATO加盟」を努力義務として聞き入れさせたことです。

<若干の経緯>

2017年6月8日 「NATO加盟を優先事項にする」との法律を制定

2018年9月20日 「NATOEU加盟をウクライナ首相の努力目標とする」旨の憲法改正法案を憲法裁判所に提出する。

2018年11月22日 憲法裁判所から改正法案に関する許可が出る。

2019年2月7日 ウクライナ憲法116条に「NATOEUに加盟する努力目標を実施する義務がウクライナ首相にある」旨の条文が追加された。

つまり、アメリカは、ウクライナの選択肢を、NATO加盟という一本に絞らせる役割を果たしたのです。

このようなアメリカ側の動きを一つの背景として、ロシアの軍事行動が活発化し、危機に発展する様相が色濃くなってきていました。ところが、実際にウクライナ侵攻が開始されたにもかかわらず、NATOのストルテンベルグ事務総長が2月24日の記者会見で、東欧の部隊増強の方針を示す一方、「ウクライナには部隊を派遣しない」と述べたのです。NATO事務総長のこの発言は、すでにそのような発言を行っていたバイデン氏の見解をなぞる形のものでした。

ところが、バイデン米大統領は、記者団らの「なぜ、部隊の派遣を行わないのか」という質問に応えて、ウクライナに米軍を派遣しない理由に「ロシアは核を持っているから」とも発言してしまったのです。これが、何を意味することになるか、すぐにも想像がつくことでしょう。この発言が、核を持つ中国が尖閣列島や台湾を巡って武力侵攻しても米軍は参戦しないということにもなろうと思われるが、どうでしょうか。

 それはともかく、ロシアと間に長い国境で接するばかりでなく、自国内で親ロシア派と反ロシア派とが抗争を繰り返しているウクライナに対する地政学的、国内政治状況を十分に配慮せず、徒にロシアを刺激することを続けたアメリカの行動選択をどう理解すればよいのか戸惑う話であろうと思うのです。それも、自らは「武力関与はしない」として、ウクライナにその責任を委ねてしまったのです。

国連憲章の精神とルールに立ち返って

最期の点になりました。

僕には、わけても、ロシアのプーチン氏が、ウクライナ侵攻に際して、「ロシア人住民の安全を守るため」のやむを得ざる選択であり、これはいわば「自衛のための闘い」だと発言していたことが気になっています。

話は少々飛びますが、このプーチンの発言を聞いていて、僕には、あのアメリカの湾岸戦争イラク戦争のことが思わず浮かび上がってきたのです。

同じアメリカが起こした戦争でも、ブッシュ父の湾岸戦争とブッシュ息子のイラク戦争では全く質が異なります。その最大の相違は、前者が一通り国連の正規の手続きを経た、いわば国際法上でも合法的な武力の行使であったのに対し、後者はそれを無視した武力行使であったということです。だから、フランス、ドイツ、ロシアがこれに反対したのです。ヨーロッパおいてはブレア氏のイギリスが即座に参戦を決めて、やがて同国内でもブレア首相を「アメリカに尾をふる犬」だと揶揄されたことは記憶にも新しいことです。

しかし、問題はここから先です。その時、正当性を失ったブッシュ・ジュニアアメリカがその戦争を合理化するために持ち出したのが、「先制的自衛権」論だったのです。これは、仮にその相手国が直接アメリカに攻撃を加えていない場合であっても、アメリカの国家と国民に脅威を与えるものには、「自衛」の名の下に攻撃を加えるのは当然であり、かつアメリカはそれを必要とする時には単独でも実行すると、大統領直属の報告書で「宣言」したのです。

もうお気づきだと思いますが、プーチンはこれをそっくり真似たのです。ここにこそ、今回の出来事の深い意味が潜んでいると僕は考えるのです。

一体に、あの大戦の想像を絶する悲惨からの再出発となった国際連合憲章は、二つの原則から成り立っています。

注)ちなみに、あの大戦では、軍人・民間人合わせて、6000万人から8500万人の犠牲者を出したとされています。当時のソ連ナチス・ドイツに蹂躙されたポーランドでは、実に人口の2割が失われたとされています。

 〇国際紛争解決の手段としての国による武力の行使の禁止

 〇自衛の名の下のすべての戦争(武力行使)の原則禁止

戦後復興計画と併せて、戦争のない国際秩序を形成するために、当時の主要国が誓ったのは、何よりも自衛権なるものを封じ込めることにありました。なぜなら、ナチス・ドイツ大日本帝国も、自衛の名の下に戦線を拡大し、あの狂気に満ちた悲惨な戦争を引き起こしたからです。ですから、当初は国連憲章の草案段階にあっては自衛権なるものは一切ご法度になっていたのです。ところが、現実の憲章には「固有の自衛権」という言葉は入っています。

このことから、僕は私事ながらも、こんな場面があるとき生まれたことを思い起こしています。

ある研究会の席上で、国際政治・ヨーロッパ政治史を専門とする大学の教授がこうコメントしたのです。

国連憲章では、国家の『固有の自衛権』を認めている。なぜなら憲章にそれは書かれているからだ」と。

僕はこのとき、発言を求めて、こう切り返したのです。

「確かに、憲章第51条には『固有の自衛権』という文言が書かれている。しかし、この条文全体を読むと判るように、それには二重三重の制限が加えられている。第一に、それが直接的な攻撃を受けた場合の、いわば緊急避難的なものに限っていること、第二に、そうした行動をとる場合には直ちに国連に報告しなければならないとされていること、そして第三に国際機関がその紛争を抑止するための行動に出た時点で停止すること、その三つである。だから、憲章が認めているのは、いはば『制限された自衛権』であって、それこそが基本である」と。

そこには、いかなる場合であっても「自衛」に名の下で武力行使することは原則的に禁ずるという強い決意が潜んでいると、そう語ったのです。

それに、当初の原案になかった「固有の自衛権」なる文言が憲章に入ることになった背景には、大国の一つであり、連合国(戦勝国)でもあったフランスが、アメリカが主導する集団的安全保障への不信から、「それなら、国連に加盟することはできない」と不満を漏らしたという事情があったのです。その結果、いわば政治の妥協の方策としてこの言葉は新たに書き入れられたのでした。その言葉が入った瞬間、イギリスの代表が「それが自由に認められるなら、何のために国連をつくるのかわからなくなる」とまで言ったくらいでした。

それでも、ぎりぎりの選択の中で、憲章51条は、それに二重三重の縛りをかけることを止めなかったのです。

注)それからしばらくして、その研究会の席にいた知人が、その教授がある論説のなかで「制限された自衛権」という言葉を使っていたということを教えてくれました。

 

いずれにせよ、国際連合を立ち上げるまはでもちろん、その後も、国連を構成する国々はこの「自衛の名の下の戦争」を如何に封じ込めることができるかに最も腐心していたのです。

 

実は、国連憲章は、パリ協定やジュネーヴ協定のような「戦争の違法化」という用語を一切使用していません。この用語を使わず、代わって「武力行使の禁止」を掲げたのです。それには確かな理由があるのです。

あの大戦では、先に触れたように、侵略はいつも「自衛」の名の下に繰り返されてきました。その時の論理がことごとく、「これは戦争ではない。これは自衛のための活動だ」というものだったのです。ナチス・ドイツチェコスロバキア(当時)を侵略したときも「ドイツ住民を守る」ための自衛の行為だとされて、宣戦布告なき戦争に突入していったのです。だから、戦争の定義如何にかかわらず、国際紛争の解決の手段としての「武力の行使」それ自体を禁止したのです。それが「戦争の違法化」という曖昧な用語を回避する理由でもあったのです。

ブッシュ・ジュニア氏のアメリカは、「先制自衛権」論を打ち出すことによって、そのパンドラの箱を開けようとしているようにも読めます。そして、今日、プーチン氏のロシアにそのもう一つの逸脱を覗き見ているのです。こうした論理が通れば、国連憲章の精神とその条文はいとも簡単に捨て去られることにもなりましょう。そして、これが、僕が冒頭の部分で、目先の処理はともかく、その選択が長期的にどのような方向に及ぼしていくか、そのことを読み解く知的判断力が求められるといったのも、こうした文脈においてのことでした。

 

僕は、国連憲章という一片の文書がどんなに素晴らしくてもそれだけで世界の平和と安全が維持できるなどとは思っていません。それでも、もしこの精神と条文の内容に沿って世界の国々が行動するなら、そのときはじめて世界の平和と安全は現実的なものになるだろうと考えています。

要は、国政政治を動かす国々の意志と行動力にそれはかかっているのです。そして、それは、プーチン氏のロシアが侵攻の口実とした論理(「これは、自衛のためだ」!)を真っ向から否定するものでなければなりません。いかなる国も自衛の名の下に、国際法上の正規の手続きもなしに他国に武力を行使するようなことがあってはならないのです。

 

O君、

僕がこのように長々とお話したからと言って、今日目の前で繰り広げられている戦争の悲惨を本当の意味で理解したつもりになっているわけではありません。

 また、アメリカとEU諸国が連帯してプーチン氏のロシアに対する経済制裁を断行したり、ポーランドをはじめとる周辺国がウクライナからの避難民を大量に受け入れてその生活支援に当たったりしていることにも、不安とともに期待をもって連日その様子を見守っています。

ただ、ウクライナで起こっている悲惨は、当初から生じさせてはいけないことであって、それを回避するためのぎりぎりの妥協の策をもっと模索するべきだったと今でも思っています。それが何人であれ、いかなる国籍を持つ者であれ、その生活を破壊し、その生命を脅かし、あまつさえ殺戮にまで及ぶ行為を世界は引き起こさせてはいけないと考えるのです。その手前で止めることができるかどうか、それが問われていたのです。それは、決して自然現象にようにして語ってはいけないのです。

少なくとも、それは善悪の二元論で解釈して済ませる事柄ではなく、悲惨を回避するための政治の意志と現実的な技量の問題だと、僕は思うのです。それにしても少々、現実の政治の世界にそれに相応しい指導者が欠けているようにも僕には見えるのです。

 

O君、

僕がアメリカのバイデン大統領の行動選択や彼が発するメッセージに、幾分厳しい批評を行った背景には、こんな思いがあったのですよ。これらは、右とか左とかいったもので処理できる手合いのではないどころか、それを語る僕たち自身の自省の問題としても語られているのです。

 

2022年春

                                    O.M

松本清聴の映画講座8 「レオン」

 残業を終えると、もう時計は9時を回っていた。金曜日の夜、僕は、一人暮らしのマンションに戻る前に、ネオンが輝く新宿・歌舞伎町に立ち寄った。そして深夜の映画館に飛び込んだ。軽い疲れを癒すためにと、シリアスなものを避けて、軽快なものを観たいと思い、この作品に眼をとめた。

一人の精悍な男が、確実に、見事なまでの完璧さで殺しをする。場面はいきなりその無表情な殺陣シーンから始まった。そして難なく、男は相手のボスを追いつめていった。なんだ、かっこいいヒーローがスマートに敵をやっつける、安手のハードボイルド映画じゃないか、一瞬ぼくは無用な心配をしてしまったほどだ。リッュク・ベンソンの映画は、ともかくこうして僕の前でスタートした。だが、やがて、この作品があまたのアクション映画とはずいぶん趣向が違うことを知ることとなった。

 これは、華やかな大都市で、ゴミのように忘れ去られ捨てられてしまいかねない二人の奇妙な出会いが一瞬の輝きを残して消えていった物語である。たった、それだけの閃光=儚い夢を伝えるためにこの映画は作られたのだ。

 

 ニューヨークのリトル・イタリーに出入りする男レオン(ジャン・レノ)は、英語も満足に読めない移民であるが、寡黙にして、仕事を完璧に成し遂げる理想の殺し屋だった。他人との付き合いも避け、毎日を鉢植えの観葉植物だけを相手にひっそりと暮らしている。彼が日課としているのは、その植物に水をやることと、1日に2パックの牛乳を飲み、アパートの狭い一室で体を鍛えることだけだった。わずかに、イタリア・レストランを経営しながら殺しの手配師を密かに続けるトニー(ダニー・アイエロ)との連絡だけが彼の人間関係であった。

 そんな安アパートの同じ階に、マチルダ(ナタリー・ポートマン)の一家が住んでいた。マチルダは、家族からも疎まれる孤独な少女だった。煙草を吸うこの少女は、父からの暴力で生傷が絶えない毎日を過ごしていた。彼女は、日中はいつも部屋に入らず、廊下に連なる階段の上で、ひとり時間をつぶしていた。そして、ときおり、あの無表情な男が階段をのぼってきたときに、挨拶の言葉をかけるのだった。

 ある日、マチルダが街に買い物に出掛けて戻ってくると、悪徳麻薬捜査官の一味が、マチルダ一家の部屋に押し入っていた。商売道具の麻薬をくすねたと疑った奴らが、一家を皆殺しにやってきたのだ。父と母だけでなく、姉と幼い弟までが殺害された。その荒れ果てた部屋のドアの前を、買い物袋を抱えたマチルダがそっと通り過ぎる。恐怖の余り泣き出しそうになるのを必死にこらえながら、廊下の突き当たりに位置するレオンの部屋のドアを叩いて、助けを求めた。

「お願い。中に入れてちょうだい」

 女と遊ぶことさえ避けて、孤独を保ってきたレオンは、突然の訪問客に戸惑う。少女は悲壮な表情で彼に懇願した。そして、運命のドアが静かに開いた。

 プロとして、「女と子どもは殺らない」とのルールを守ってきたレオンだが、突然の小さな訪問客にすっかり困り果ててしまう。とはいっても、追い出すわけにもゆかない。しばらくかくまって欲しいと頼み込むマチルダの要請を断ってはみたものの、どうすることもできずに、奇妙な共同生活を始めるはめになってしまった。

チルダは、レオンに英語の読み書きを教え、ハリウッド映画スターのことも知らない彼の気を惹こうとして次々とその前で演技をする。そして、次第に自分の「居場所」を発見していく。レオンも、そうしたマチルダに父親とも恋人ともつかぬ感情を抱くようになっていった。

 現代社会では、血縁や地縁はもとより、組織を通じた人間のつながりをも超えて、もっと深く人間同士を率直に結びつける出会いを待っている孤独な人間たち、心を閉ざしたままの人間たちが超近代的なメガ都市の片隅に大勢たむろしている。それは、ニューヨークでもロサンゼルスでも、もちろんパリでも東京でも変わりはない。レオンとマチルダの出会いも、そうした都市の人間風景を見事に映し出している。

 レオンは初めて、大切な人のために生きる自分に目覚めていく。そして、とうとう、マチルダのために仕事をすることになる。だが、それはプロの殺し屋の世界を逸脱する行動であることを意味し、それが彼の運命を大きく狂わせていくのだ。あれほどまでに完璧に作られた男が、人間という生き物に触れ、心を動かし、情を通わせていったのである。生まれて初めて誰かのために生きたくなったと告げるレオンに、トニーはこの商売を続けさせることの限界をさとり、不安を抱く。 

家族からも疎外されていたマチルダだが、彼女を慕っていた4歳になる弟の死だけはやりきれないものだった。レオンを殺し屋と知った彼女は、弟の復讐を晴らすため、自分も殺し屋になりたいとレオンに懇願する。途方に暮れながらもマチルダとの共同生活を続け、殺しのテクニックをも教えるレオンであった。

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小さな少女マチルダとレオン

弟たちを殺した犯人を探していたマチルダは、それが麻薬取締局の人間であることを突きとめ、復讐のため、たった一人でそのオフィスに侵入する。が、逆に、その悪徳捜査官スタンフィールド(ゲイリー・オールドマン)に捕まってしまった。レオンは自ら麻薬捜査局を襲い、マチルダを助け出す。これが執拗な性格のスタンフィールドの怒りを爆発させることになった。雇い人のトニーを脅してレオンの居所をつきとめたスタンフィールドは百人を超える警官隊を出動させてアパートを襲撃する。トニーは、彼がどんなに案じても、この世界の掟を逸脱したレオンをこれ以上庇うことはできないと悟ったのだ。

 レオンと警官たちとのすさまじい闘いが切って落とされた。これが、とってもかっこいいんだな。たぶん、そのシーンを観た人たちは、あらためてレオンのプロ魂に惚れ込むと思うよ。それほど、この男は群を抜いた冴えを見せつけ、居並ぶ警官どもをたじろがせるのである。

 たが、所詮は多勢に無勢、次第に二人は追いつめられていく。とうとう最後の瞬間かと思われる場面にさしかかった。警官隊は銃撃隊による攻撃を諦め、重火器でドアを爆破する作戦に転じたのである。レオンはあくまでも冷静だった。ここを決戦場と決意した彼は、部屋の壁を打ち破り、換気口の通路からマチルダと観葉植物の植木鉢を部屋の外に送り出すのだった。泣き叫ぶマチルダ。「あなたと別れたくない」と彼女はしきりにレオンにしがみつく。その手をふりほどいて、マチルダを無理矢理通路に押し込むレオン。こうして、あれほどに心を閉ざしていた「孤独」な二つの魂がふと一つになって輝く一瞬が生まれる。その輝きのまぶしさに、観る者は誰もが心を奪われるであろう。

 

 この作品は、リッュク・ベッソン監督の国際的な出世作となった。公開と同時に全米での好成績が話題となったが、フランスでも驚異的な数値を記録する大ヒットとなったという。日本では『グラン・ブルー』のエゾン役で一躍有名になっていたジャン・レノだったが、この作品を見た人は改めて素晴らしい俳優が誕生したことの興奮を覚えたに違いない。そして、マチルダを演じた少女ナタリー・ポートマンの衝撃的なデビューがあった。僕は、この二人をクローズアップさせるに十分な名演技をやってのけたゲイリー・オールドマンの存在にも大いに注目したいと思っているが、こんな粋な組み合わせもまた映画のおもしろさを際立てていたのである。

 

デービッド・アトキンソン『国運の分岐点』を読む

 この著者の発言やテキストは、いつ見ても実に歯切れがよく、分かりやすい。先ごろ出版されたこの本も、読みはじめると、ほとんど立ち止まるところもなく、先へ進むことができた。それというのも、その論旨が明快だからだ。要するに、日本の生産性が国際比較でみても低迷しているのは、その背後に、多すぎる中小企業を存続させている“悪の存在”があるからであり、その力に阿ることなく、先ずは中小企業の数を大幅に減らすことで当面の難問は解決するというのである。
 一読者としては、特に、最低賃金の引上げの必要や過少消費からくるデフレ圧力に関する指摘に共感を禁じ得ないものがある。そして、それらを人口減少との結びつきの中で読み取ろうした点にも十分頷かされるものがある。しかし、それらは著者独自の着眼点というわけではない。
 それにしても、この本を読み終わって心の中に残った幾分殺物足りない読後感は、一体、どこから来るのであろうか。それは恐らく、“諸悪の根源”たる中小企業に関する省察がそこにはほとんど見当たらないということによるものであろう。そこで、評者として、若干の物足りなさの原因と思われるものを、ここに数点記してみたいと思う。

(1)一括りの「中小企業(論)」では、何も語ったことにはならない。

 先ず、著者が中小企業の現状を標的にしておきながらも、そこに中小企業と呼ばれるものについての幾分でも踏み込んだ診断や解析があるわけではなく、産業論としての、いわば最低限度の省察の目も向けられていない。
 例えば、一口に中小企業と言っても、小売業や飲食業と製造業、あるいは情報通信業運輸業など業態によってまったく分析の視点やアプローチが異なってくるのであるが、そうしたごく基本的な分類も行われていないし、商業を一つとっても、チェーンシステムを形成しているケースと町中で商店街を構成している個店とでは分析のツールも違ってくる。そこには、これまで展開されてきたさままざま中小企業論や業態別の分析に関する検討も見当たらないのである。
 そのことがまた、例えば製造業であっても、直接消費財を加工してマーケットに売り出す食品製造業と、長い製造工程の一翼を担って生産財を国内の大企業や海外の大手企業に提供する電子部品業などを一括することの拙さに思い至らないことへと結びついているように見える。これでは、アナリストに相応しい「分析」にはとうてい及ばないと思うのだ。

(2)産業組織論的なアプローチも見当たらない。
 そもそも、中小企業と一括して呼ばれるものが、単なる保護政策の対象としてだけでなく、1970年代半ばころから再び着目されるようになったのは、国際経済における影響力もしくは存在感を発揮した日本の大企業の成功神話が広く語られるようになったことと並行して、その要因(秘訣)が探求された頃から、日本固有の産業システム、すなわち系列(大企業-中小企業関係)がその一つの大きな要素として研究されたことに端を発している。
 例えば、トヨタにおける「改善」や「研究開発」の成果が小さな町工場のイノベーションを促進していったことなどが取り上げられた。また、そうした系列が時には親企業が下請け企業に対して行使する圧力につながったという弊害を伴いながらも、大企業が開発した先進的な技術をよりスピーディに、相対的に資本力の脆弱な中小工場に伝播する機能効果をもたらしたとの研究成果も出されていたのであって、画一的な中小企業=非効率論では処理できない省察もなされてきたのである。
 わけても、金型・鋳鍛造などのいわゆる素形材産業の展開が日本の製造業の発展に如何に寄与したものであるかの分析は今日でも価値あるものであろう。主に川崎や東京・大田区墨田区に集積したことで知られる、それらの素形材産業は、日本の代表的産業でもある自動車、航空宇宙、電力、家電や重電などの大手企業のすそ野を形成して、それらの品質を支える共通の産業能力として着目され、研究されてきたものである。それは、一見、大企業の成果と見られた日本の産業の成功物語の時代にあっても、それが、いわゆるトータルな産業システム、すなわち、ある種の「系列」によって成り立っていたことを示す一方、街中の小さな企業の集積が産業の分厚い裾野を担ってきたことを示唆している。そこでは、アトキンソン氏の言うような大企業=効率(より高い生産性)、中小企業=非効率(より低い生産性)といった単純な区分では割り切れない世界がある。
こうしたことは、主に製造業に関して実証的・理論的に解明されてきたのであるが、今日では、システム技術の発達も与って、コールドチェーンや経営組織上のチェーンストアなどにもジャスト・イン・システムが導入されてからは、製造業に限らずより普遍性の高い分析ツールとしても応用されてきたところである。つまり、今日では、企業単位・事業所単位でその規模を色分けする旧い中小企業観では、そうした産業システムの全容を捉えることがほとんどできないのだ。

(3)これでは、グローバル化し新たな産業システムへの移行を見届けられない。

 殊に、現代では、グルーバルな国際規模の産業リンケージが深化しており、中小企業と括られるビジネスの中にも、そうした産業の発展形態に敏感に反応して新たな市場の開拓につなげているケースが数多く生まれている。東アジア地域では、いまや、そうした産業リンケージ・システムが国境を越えて形成されている。しかもそれは、中国の予想以上の産業高度化のインパクトによって、東アジア全体がグルーバルな産業リンケージの中に組み込まれて行く様となって立ち現われている。
 とりわけ、2008年のリーマンショック以降は、そうした様相が一層顕著になった。それまで、中国を含めてアジアの中進国・地域は、世界のアブソーバー機能を一手に引き受けていたアメリカへの輸出によって経済成長を成し遂げてきた。韓国がそれまでの開発独裁を捨てて一気に貿易立国を目指したことでモデル的な成功を収めたものとして注目されたのも、このためであった。1970年代末からNICSと称された韓国・台湾・香港・上海の四つの国・地域、あるいはまた中国本土を含めた「四つの龍」(中国・香港・上海・台湾)などの台頭に注目が寄せられ、19世紀末に日本が非西洋地域で産業的成功を収めて以降およそ百年後の軌跡が起ころうとしていたのである。それも、世界の産業センターを誇っていたアメリカの吸引力に救われものだった。
 ところが、2008年のリーマンショック以降は、そうした構図も大きく様変わりしたのである。衝撃的な大不況の中で、世界の経済再生を担ったのは、中国の巨額な財政支出であった。なにしろ、大不況の震源地であったアメリカにその役割は果たせそうにもない。そんな中で、今度は中国が世界のアブソーバーを担ったのである。そう、世界の産業システムの背景となる世界経済の「風景が変わった」のである。ちなみに、日本の戦後経済は不況に落ち込むと、必ずアメリカの吸引力に依存して輸出を回復し、その勢いで国内の在庫を一掃しては設備投資を復活させるというサイクルを描いてきた。ところが、このリーマンショックの直後は、戦後はじめて、中国の大型景気対策に引き寄せられるようにして景気回復を果たしている。以降、日本の最大の貿易相手国はすでにアメリカではなく中国となっている。
 これを契機に、中国では自ら「中心国の罠」を避けるため、国を挙げて産業の「現代化」に向けて驀進する。今や電子産業分野や電気自動車や宇宙産業はもとより、それまでアメリカが世界を席捲していたプラットホーム産業の分野でも、AIや5Gの世界でも先頭を走る勢いである。実は変わったのは中国だけではない。この時期を境に、韓国や台湾をはじめとする東アジアの国や地域が中国を中心とする産業リンケージ・システムへと組み込まれていくことになったのである。そして、このグローバルな産業リンケージの形成が、日本をはじめ韓国・台湾などの国・地域の中小企業のあり方に大きなインパクトをもたらしている。
 著者が日本の「グランドデザイン」を描くと称しながらも、こうしたグローバルだが身近な産業システムのへ変容に対するアプローチがまったく見受けられないのは誠に残念である。

(4)台湾と韓国のケースで中小企業を見る。

 当面の中小企業問題との関連でいえば、この点においては、同じように東アジアで経済発展を成し遂げた韓国と台湾の比較が興味深いケースであろう。
 韓国はいまや日本にも迫る勢いで、一人当たりGDP3万ドルを超える経済立国を成し遂げている。その間、この国の経済・産業をリードしてきたのがいわゆる「財閥」であった。サムソンや現代などの財閥企業が提供してきたのは、主に中国や東南アジアで台頭してきた「中間層」向けの消費財であった。ところが近年になってその大企業による輸出戦略に陰りが見えはじめた。そして、それらの消費財中国企業が自前で提供できるまでに成長してきたうえ、彼らの方がより先端的な製品を製造・供給する能力を発揮しはじめたからである。
 このためもあって、韓国ではいま、財閥企業へのモラル的な非難と同時に、経済が足踏みするとともに、大企業と中小企業との間の顕著な経済格差が社会問題として取り上げられるようにもなった。そして、層の薄い産業のすそ野が国際競争力の脆弱性と結びついているとの指摘も受けて、能力の高い中小企業の育成に注目が寄せられるようになったのである。折しも日本との産業軋轢が顕在化する中で、この国ではやっと素形材産業の育成が国を挙げての産業政策上の課題となっている。
 これに対して、台湾のケースはまったく逆である。台湾では、その経済発展のスタートから中小企業の存在が大きな力を発揮してきた。ちなみに、アトキンソン氏が「問題」とする中小企業の存在はこの国ではとても重要な役割を占めていて、日本をはるかにしのぐ存在感を示しており、その産業全体に占めるウェートも実に98%に達している。それどころか、そうした中小企業が対外輸出のいわばバネとなって台湾の経済成長を支えてきたのだ。特に、中国が世界の製造業を担い始めた頃に合わせて、大陸部への部品・製造システムの提供基地化と変容し、自国の産業を支えするとともに、主に生産財を供給することによって成功を成し遂げてきている。
 韓国との比較で言えば、台湾では中小企業が産業のすそ野を形成していて、それが自国の経済発展を可能にしていると同時に、この国の安定的な民主主義を成り立たせているとの指摘すらも受けているのである。
 私はここでどちらが正しいのかということを伝えたいわけではない。ただ、一律に中小企業の存在を「敵視」しても何も言い当てたことにはならない事例として述べているだけである。それにしても、この点、こうした省察も欠けたまま、末尾で、取って付けたようにして、中国の「属国」懸念が引き合いにされて、著者の“警告”に重みをもたせようとの意図が透けてみえるものの、惜しいことかな、その冷静な分析の跡も見られないままである。

(5)一括りの「中小企業」という言葉の先へ突破する迫力が必要だ。

 結局、アトキンソン氏自らがその所説を正当化するために使用した一括されたものとしての「中小企業」という言葉に、もう一度立ち戻らねばならないようだ。この曖昧なままに流布された言葉が、著者自身が直感的に読み取ったように、官僚組織の生理と業界の論理によって産み落とされた、いわば“造語”のようなものである。官僚はそれによって“弱者”である中小規模企業の保護者として自らを明瞭に位置づけて権限と予算を確保し、業界団体は、自らその脇に「政治連盟」なるものを創り上げて影響力を行使することでその存在感を増長させてきたのである。この点においては、著者の危惧と告発は当を得ていると言えるが、その、言わば“奴ら”と同じ言語をもって戦おうとしたところに一つの明瞭な落とし穴があったと言えよう。
 そんな言葉を真に受けて、「中小企業」という用語で何かを語ったかのように振る舞うことには明らかにジレンマがある。仮にその論の入り口で「中小企業」という言葉を使うにせよ、そこに斬り込む鋭い“分析”がなければ「出口」は見えないのだ。
 アトキンソン氏は、この官製の言葉自体を解体するところから始めるべきではなかったかというのが評者の拙い感想である。

ロスジェネ世代の「問題」は何でないのか(1)

❑ドイツと日本の狭間で作品を発表し続けている多和田葉子が、岩波現代文庫にもなった『エクソフォニー』というエッセイ集の中で、こんなエピソードを紹介している。

―もう20年以上も前になるが、まだ日本に住んでいた頃、アテネ・フランセで『車に引かれた犬』という映画を見た。日本で暮らす西アフリカから来た日本文化研究者の話だが、彼は、日本に住んでいるフランス人たちには、「アフリカには飢餓している人がいるのに君は日本学なんかやっていていいのか」と言われ、飲み屋では酔っぱらった日本人に、「アフリカでは人の肉を喰らうって本当ですか?」と聞かれ、かっとなってテーブルをひっくり返してしまう。」
 そしてー
「フランス語を教えるアルバイトをしようとして広告を出すと、希望者の若い日本人の女性が家を訪ねて来るが、彼がアフリカ人であるのを見ると、驚いて、走り去って逃げて行ってしま」った。
 このエピソードは、まだ日本人が「西洋」を中心にして世界を眺めている、ある意味でハッピーな時代の出来事であるが、ここには、言葉と偏見がもっとも透明に立ち現われている。
 〇フランス人→白人→西洋人→富裕・文明
 〇アフリカ人→黒人→非西洋人→貧困・野蛮
 言葉の一つひとつに連鎖するイメージが張り付いていて、人はそれに拠りかかって世界を解釈している。それが、当事者をして悪意のない偏見と差別を生み出しているのである。そして、そこに人間による人間の<排除>も生まれる。

❑僕たち、と言っても日本人である僕たちのことだけ指して言うわけではない。僕たち人間という種は、世界を眺めるとき、あるいは世界について語り出すとき、それが<言語>という奇妙な装置を使って眺め、思考し、伝達表現する。つまり、人は、<ことば>という<覗き穴>あるいは<色メガネ>を通して初めて世界と切り結ぶことができるのだ。
 むろん、当然のことだが、眼鏡が違えば、世界も異なって見える。そこには常にバイアスというリスクが伴う。キリスト教徒たちは「神の眼」で世界を解釈し続けようとするだろうし、かつてのマルクス主義者たちは、すべて歴史の出来事を「階級闘争」の一色で理解しようとした。そこまで大上段な事例を引き出すまでもなく、われわれは、様々な偏見や予断の中で、つまり、さり気ないバイアスを生きている。
 そうしたもののうちで、もっとも典型的なものが、この国で長く引きずって来た「男尊女卑」の偏屈な生活習慣とそれらを補う言葉だ。たとえば、「良妻賢母」という言葉がこれらを端的に表していた。「女は女らしく」「夫が外で仕事をして、妻は家を守る」という社会通念が<ふつう>だとされてきたのである。
 僕たち人間は、こうしたさまざまな<観念>の海の中で育てられてきた。そして、優柔不断でくよくよと悩む男、責任を潔く引き受けることなく逃げ回る男をつかまえて、こういったものだった。
 「女の腐った奴みたいだ」。
 今の時代にこんな言葉を使ったら、直ぐさまネットで叩かれかねない表現がついこの間まで平然と使われていたのである。で、今や、むしろ「男の腐った奴」の方が現実に近いのではと思われるほど、世の中が様変わりし始めてしまった。そして、これらの<社会通念>もまた、言語が再生し、流通させてきたものだったのである。<女らしさ><男らしさ>の二分化思考が、僕たちの思考範囲を狭いものに仕立て上げてきた。
 この問題にはもっと根深いものがある。
 言語という道具を使って世界を変革し、作り変えてきたはずの人間が、いつの間にかその言語の虜となって身動きが出来なくなるほどに「言葉の囚われ人」になってしまうということだ。それは、僕たちが言葉に対する警戒心を怠り、ますます無自覚になってゆくに連れて強固なものとなって、真綿のように僕たちの思考を締め上げてくる。そして、一度作られた言語の外に出られなくなり、その惰性的な支配の下で無邪気に暮らすようになる。
 そして常に、少なくともこれまでは、支配力を持った側が次々と言葉を編み出し、それを制度化してきた。その興味深い一例をここに紹介してみようと思う。

<正規・非正規>という言葉の「檻」の中で

 いま、この国の中央に大きな分断線が引かれている。<正規>と<非正規>を分断する壁がそれを厚く覆っている。これは、<ふつう>と<ふつうではない>、<まっとう>と<まっとうじゃない>という色分けともそっくりだ。
 ついこの間までは、「ニートなんてまともな生き方じゃない」「異性愛者なんて、ふつうじゃない」「子供を産まない女は、まっとうじゃない」みたいな言葉まで、飛び出しては物議をかもすこともしばしばだったが、こうした思考は、現在の日本社会の底に深く沈殿したままだ。
 そして、そうした色分けを堅固な<制度>として視覚化させているものの一つが、<正規>と<非正規>だ。労働経済学者やエコノミスト、評論家と呼ばれる人たちまで、この語彙を与件として、何か普遍的な事象でもあるかのように、あるいは自然の出来事のこのように<解説>する向きがある。が、そこにはまた、単なる賃金格差や雇用制度にとどまらない、人間の意識の中に「壁」をつくる作用が働いていることにもっと目を向けるべきであろう。すなわち、この国の人間を二分化して疑わない怠惰な思考がそこに生まれているのだ。
 「非正規」という言葉には、本来るべき姿としての「正規」、つまり<ふつうの><まっとうな>雇用関係が標準としてあり、その標準からの<逸脱>があるという思考慣習が作用している。そして、こうした<逸脱>に対しては自然の勢いのようにして<差別>が伴うのだ。

オランダは「パートタイマー大国」

 すでにヨーロッパでは、正規・非正規というカテゴリーさえ失われているというのに、この国では相変わらず、この二分法がまかり通っている。オランダや北欧、ドイツをはじめとしてこの言葉が死語になりつつある理由は簡単だ。同一労働同一賃金の世界では、時間単位の賃金の差別は基本的になくなっているからである。同種の職務であれは、どのような雇用形態―たとえば、一日8時間労働であろうが、パートタイムであろうが賃金体系や処遇に違いが生じることはないのである。だから、そこに<正規>とか<非正規>とかいう分類は必要もないのだ。
 説明が煩雑になり過ぎると少々理屈っぽくなるので、ここでとても簡潔に分かり易い例を挙げてみよう。
 たとえば、ヨーロッパでも富裕国の一つであるオランダが「パートタイム大国」であることはすでに御存じだろうか。知らない人は、思わず、こう言い出すんじゃないかと僕は恐れているのだけど。
 「ええ、パートタイマーだらけって、ひどいじゃない」
 って。
 でも、そうではないんだ。先ほども言ったように、同一労働同一賃金を達成しているオランダでは、日本で言うとところの「働き方」の違いで賃金やその他の労働条件で差別されることがないので、誰もが自分のライフスタイルに合わせて、自由に労働時間を選択できるためなんだ。
 例えば、小さな子供を抱える若いお母さんが、近くの保育所に子供を預けることができたとしても、やはり親子のスキンシップも大切だといって、週に二日、午後を仕事の休みにして子供と遊ぶための時間を確保する。むろん、労働時間は短くなるので、その分は収入が幾分減ることになるものの、人生の価値を満たす上で大事なものを優先することができるというわけだ。いや、それだけじゃない。こうして手にするのは、仕事と同時にボランティア活動や自己の趣味(自然観察やミュージック活動など)、すなわち社会との能動的な関わりや自己の才能の享受など、人生そのものを豊かなものにするライフスタイルの実現にも生かされている。
 大事なことは、このような国では、わが国でいまだ通用している<正規-非正規>という用語自体が存在しないということだ。そして、誰もが「パートタイマー」として立派に働き、生きているということである。むろん、労働者として立派に保護を受ける存在として、それは受け入れられている。そして、これが今ヨーロッパでいうところのワークライフバランスの本当の姿である。

氷河期世代を救う対策って何のことか?

 ところで、この国の政府は、長い間放置されてきた「失われた世代」に対する対策に乗り出したようだ。名づけて「氷河期世代支援プログラム」というその対策の要点をかいつまんで見ると、要するに、およそ30万人の非正規雇用者を<正規化>する、そのための職業訓練・職業教育などの支援策を講じるというものである。そもそも政府がいうところの「氷河期世代」にはおよそ1,600万人が存在し、そのうちおよそ150万人がその対象となるという中での「30万人救出作戦」であることから、当初よりその効果に疑問が出されていたものであるが、その手法は相変わらず、民間企業に補助金を支給してその政策目的を達成しようというもので、その効果はおろか税金そのものが一部の人材派遣会社に注がれる懸念すら出ているという手法である。かと言って、まったく効果を期待できないというつもりもない。それによって「正規化」を強く望んできた人たちが少しでも救済されるのなら、それはそれで悪くないと思う。
 しかし、この仕組みを作り出した発想そのものには自ずとある種の危うさが潜んでいる。そこには、何よりも「正規であること」が標準であって、そこに人間を当て嵌めることが正義である、あるいはそうなるようにすることが善意である、という思考が根強く作用しているからである。自ら、雇用の流動化と称して「非正規化」を加速しておきながら、それと並行して労働者保護を強化しなくてはならないとの声にも耳を貸さずに右肩上がりの経済成長を夢見てきたことへの責任を一切反古にしたまま、そうしたシステムを変えるのではなく、“悲惨な”氷河期世代を救出してあげようとするわけである、
そして、ここにはもっと深刻な問題が潜んでいる。
 そもそも、こうした思考は、<まっとうでない>ものを<まっとうにする>という発想から出来たものだ。<ふつうでない>ものを<ふつう>に組み入れるための改善策として打ち出されている。だが、ここには、とてつもない軋轢が生じている。これは、単なる「貧困」からの救済対策や就職斡旋の事業などの問題ではない。それは、一つの明確な「文化の衝突」なのである。

これは言葉と文化の衝突だ

 もともとはバブル経済の崩壊に伴う就職難から顕在化したこととはいえ、それがまもなく一世代にも及ぼうとしていることが、文化の変容をもたらした。彼ら・彼女らは、その間に両親世代が当然と思い込んで来た生活スタイルや生き様を、いわば制度の外かから冷徹に眺めながら、サードプレイスとも呼ばれる新しい生活空間を創出して来た。古い企業主義文化や伝統的な家族主義文化に対する強烈な違和感を抱いては、それまでにない「新しいライフスタイル」を創り上げてきた。
 彼ら・彼女らは、古い制度や大きな組織に阿るのではなく、ピュアな仲間関係を大切にし、何よりも互いに「承認」を求めて集う、ささやかではあるが、手応えのある集団と空間における素直な生き方に価値を認めてきた。利益や組織目的のために自己を偽り、あるいは演技をしてまで自己を修正する生き方ではなく、信頼できる仲間の間で培われる共感と承認を何よりも優先する、新しい価値意識と自由で多様なライフスタイルが生れている。
 だからといって、彼ら・彼女らは「働くこと」を拒否していたわけではない。それどころか、「正規」という名の雇用システムの外にあっても、その多くは働き続けてきたのである。そして、「女であれ」「ふつうであれ」という社会の同調圧力に抗して、自らの働き方と自由な生活の確保を模索しづけていた。そこには、自分の外の、「世間」あるいは「社会」という名の得体の知れないものが押しつけてくるものへの違和感と抵抗があった。不条理な縦社会への同意の拒否がある。そして、上から何かの権威のように「同情」して現れては、自分たちの価値観を押し付けてくるものへの抵抗がそこにある。まさに、それがいま、彼ら・彼女らが、今日の日本社会に突きつけている「社会問題」だ。
 時には少々狭い世界のことであったりもする―とは言っても、これはいつの時代も変わらぬ風景である―が、何よりも互いの「承認」を優先する志向、制度化された「権威」よりも身近な「仲間」を大切に思う想像力、そして人間を一つの鋳型にはめ込んで何とも思わない、先行する世代への無言の反発がある。その底に共通して流れているものは、総じて不条理な社会への「抵抗」である。
 ところが、いま新たに打ち出されている<対策>なるものは、その鋳型に彼ら・彼女らをしてはめ込もうとするものである。そこに致命的で、明瞭なズレがある。そこに垣間見えるのは、古い価値意識と新たな価値意識との、言わば「文化の衝突」なのである。
この国はどこへ向おうとしているのか。
 日本はいまや、沈みゆく舟になりつつあるようにも見えるけれども、すでに一人当たりGDPがおよそ4万ドルに達する「豊かな国」となっている。家の中には家電製品が溢れ、ネットで好きな買い物ができるだけでなく、いたるところにコンビニがあり、どこに住んでいても安心して適切な教育や医療を受けられる。都市と農村との違いは相変わらず大きいが、かつてのように地域格差だけでは説明できない<差異>として、人生設計の上での<選択肢>にすらなっている。近年では、「若者の消費欲望が小さくなっている」ことが話題になるほど、この国には<モノ>が溢れている。
 むろん、日本の一人当たりGDPは先進経済国のなかでそれほど目立つものではない。上には上があって、2018年の時点では、日本の3万9,305ドルに対して、ヨーロッパのルクセンブルグ(11万4234ドル)、スイス(8万2,550ドル)、ノルウェー(8万1,694ドル)などと比べるとはるかに見劣りするし、近隣のシンガポール(6万4,041ドル)や香港(4万8,517ドル)にも大きく引き離されている。ドイツ、フランス、イギリスの水準にも達しない。それでも、GDP一人当たり4万ドルというのは、少々大袈裟に言えば、人類史上<驚異的な豊かさ>に到達していることを示していることに変わりはない。
 そもそも、1日8時間労働や9時~17時勤務が当り前という画一的なシステムは、工場労働を基軸とした「貧しい」時代の産物である。これはこれで「貧しさ」からの脱却が課題であった時代にはそれなりの合理性もあったには違いないと思われるが、いまや、その合理性自体が疑われているのだ。問われているのは、戦後日本が再スタートさせた年功序列・終身雇用制というシステムの下で「会社人間」を創り出し、男性中心主義と専業主婦を<標準>とする社会を形づくってきた、その在り方にあるのであって、その逆ではない。

 ところで、先の多和田葉子によるエピソードに戻ると、彼ら・彼女らは、あのような偏見からはすでに自由になっている。人間をマスとして解釈し、その標準でもって「世間並」とする思考からは脱している。世間なるものが造り出した自分及び自分たちの<外>にある基準で物事を推し量ることによって偏見を増長させられることなく、互いを、多様なライフスタイルと趣向をもった、一個の「人間」としての存在を認め合う価値観がそこには流れている。制度や地位や立場で人間を切り分けることを嫌い、そこにある種の異臭をさせ感じ取る新しい生活感覚が潜んでいる。
 遠いどこかの権威によって造り上げられた「常識」や「制度」の鋳型に自己を合わせるのではなく、いわば自生的に創出されてきた仲間の柔らかで、対面的な共感に添って自己の人生を編み上げて行こうとする「新しい生活文化」が、この国でもいま歴史を動かす大きな力になろうとしているのだ。
 オランダの事例は、その新しい生活文化に見合った、仕事、余暇や趣味、ボランティア、そして子育てなどを、自己の生活をより「豊かな」ものにする重要な構成要素とし、それぞれを「パート」して受け入れ生きることの価値に根ざしている。

 先にも触れたように、言語には世界を作り変える力がある。1960年代末頃から先進国を席捲したフェミニズムが社会の風景を一変させたように、<言葉>は世界を編み直す馬力を発揮した。そう、もし社会を変えたいと思うなら、僕たちは、他人が作った言葉に使われるのではなく、自分たちが新たに磨き上げた言葉を、いわば<武器>として用いなければならない。まず、世界を捉える<覗き窓>を変えることから始めまければならないのだ。もう、<正規-非正規>という官製的な言葉の鋳型に人間をはめ込もうとする旧い思考では、この勢いを押しとどめることはできないのである。

松本清聴の映画講座7 ジャック・ニコルソンの「カッコーの巣の上で」

 まだ人が寝静まっている未明、薄明かりの原野を一台の車がゆっくりと画面の前方に向かって進んでくる。車はやがて、いつもの1日が始まったばかりの、山中の精神病棟の前で止まった。場面が一転して、明るい一室に変わり、焦点の合わない大きな眼をギョロギョロさせた男の顔がアップとなった。
 「そりゃ、(若い娘に)目の前でぱっと広げられりゃ、黙っちゃいられない さ。」
 男はいかにも凶暴な目つきのままにしゃべりまくっていた。

 舞台は、オレゴン州のとある精神病院。この男マクマーフィ(ジャック・ニコルソン)は、その凶暴性と異常な行動を理由として、刑務所の強制収容農園から送り込まれたばかりだった。彼が来てからというもの、いままで何ごとも無かった病院に少しずつ変化が現れる。
 マクマーフィは、同僚の聾唖でインデアンの大男チーフ(ウィル・サンプトン)にバスケット・ボールを教えたり、絶えず落ち着きのないチェズウィクらと賭けトランプをしたり、味気ない病院生活に刺激を与えていく。しかし、主任看護婦のラチェット(ルイーズ・フレッチャー)は、精神病患者にとっていちばんの毒は刺激的であることだと知っている人間だった。彼女は患者から一切の刺激的なものを遠ざけ、さらにがんじがらめの規則を押し付けて、彼らに柔順に生きることを植え付けていた。
 グループ療法の最中、マクマーフィがテレビで放映中のワールドシリーズを観ることを提案した。しかし、ラチェットはその要請を事もなげに断るのだった。彼女にとって、患者たちが自由に欲望を満たすこと、いなその自由を手にすること自体許せないことだったのである。それでも、院内のフロアの拭き掃除の合間に、テレビに映ったワールドシリーズをほんの少し観戦することができた。マクマーフィも、仲間たちと一緒にそれを楽しんでいると、突然、「時間だ」と言って、テレビのスイッチが切られてしまった。みんな諦めたようにもとの作業に戻っていった。
 その時、マクマーフィが奇妙な行動をとりだした。彼は、電源が切られて何も映っていないテレビに向かって、あたかもそこにワールドシリーズの画面が見えているかのように手をはたき、歓声を上げて、球宴を楽しんでいるかのような仕草をとったのである。
 「そこだぁ、行け行け!」
 「おお! やったぜ。」
 一同は、驚いた表情でこの奇怪な行動に眼を向ける。「こいつ、ほんまに気が変じゃないか」といわんばかりである。何も見えない画面に向かって、大はしゃぎするなんて何という奴なんだと。だが、マクマーフィは一向にそんなことお構いなしだ。彼には、考えがあった。「あきらめちゃダメなんだ」「もっと自由に欲するものを手にしようと試みるべきだ」と彼が叫んでいるようだった。
 秩序を重んじる余り、生きた人間の自由すら平気で無視してしまうこの管理社会に対して、マクマーフィは強い嫌悪感と同時に、腐臭を放つ精神の病、魂の死の匂いを感じ取っていたのである。

 そんなある日、マクマーフィは、病院のバスを乗っ取り、仲間たちを連れて病院脱出をやり遂げる。彼らはやがて釣り船を占拠して海に出るなどして、外の世界の自由な空気を満喫する。が、それも束の間、再び病院へ連れ戻されてしまった。そしてまた、彼らの無気力な生活が繰り返された。
 それでもマクマーフィの闘いはとどまるところを知らない。日課となっている院内清掃をしているとき、彼は、大きなフロアの中央にあった水道の蛇口の付いたコンクリートの固まりを指して、突如、こう言うのだった。
 「誰か、こいつを持ち上げて、外に投げ出してみる奴はいないか?」
 一同は、またまた彼が奇妙なことを言い出したとでもいうような表情になった。そんなものを持ち上げられるわけがないし、第1、そんなことをして一体、どんな意味があるというのだろうか。
 マクマーフィは言った。
 「俺なら、こいつを持ち上げてみせるぜ。」
 「…?」
 そう言うなり、彼はいきなりそのコンクリートの固まりに抱きついた。そしてその巨大な固まりを抱えるようにしながら、何度何度もそれを持ち上げる仕草をする。むろん、そんなものはびくともしない。相変わらず、連中は押し黙ったままだった。
 だが、彼はこの時、こんなセリフを吐くのである。
 「お前らは笑えばいいさ。だが、俺はとにかく試みたんだ。」
 この一瞬の言葉を、ただひとりインデアンの青年、聾唖のチーフだけが見逃さなかった。

 マクマーフィのはからいである晩、病院のなかで密かに規則破りのパーティが開かれた。院外から女の子たちを招き入れて、ワイワイとやりだしたのである。常に何かに怯えるような眼差しの、自閉を伴ったどもりの若者ビリー(ブラッド・ドゥーリフ)が女の子たちと愉快に戯れている。が、翌早朝、その場面に、あのラチェットが事態を知って押し入ってきた。そして恐ろしいほどの血相でビリーを脅し、嫌がる彼を無理矢理院長室へ連れて行った。その恐怖に怯えて錯乱したビリーはグラスの破片で手首を切って自害する。
 怒り狂ったように、マクマーフィが主任看護婦に襲いかかり、その細い首を力一杯絞めつけた。彼女は病人スタッフの屈強な男たちに助けられて救われるのだが、マクマーフィは病院のどこかへ連れ去られていった。


 数日がたったある日の深夜、寝静まった寝室に、そっと骸のようになったマクマーフィが移動ベッドに乗せられて運ばれてきた。彼は、その凶暴性を除去するためと称してロボトミーの手術を施されたのである。そこにいるのはもはやマクマーフィの肉体ではあっても、あの並外れた想像力と行動力を持ち合わせたマクマーフィではなかった。寝静まった病室に再び暗い沈黙が漂いだした。

 その時、一つの大きな影がむっくりと起き上がるのが見えた。

 チーフである。彼は、2メートルはあるかと思われる大きな体をゆっくりと運ぶと、マクマーフィのベッドの前に立ち、そして黙ったまま彼の口元に枕を力いっぱい押し当てた。ほんの少しの痙攣が起こった。マクマーフの肉体的に死が訪れた。

 そして、いよいよラストシーンだ。チーフは憶えていたのだ。マクマーフィの例のセリフのことを。彼は、マクマーフィが言い残した通りに次の行動に出た。が、それがどんなことだったかは映画を観てのお楽しみということにしよう。

 

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 この作品は、1960年代の若者世代にとってヒーローともなった一人の作家が書いた原作をもとに映像化されたものである。ケン・キージーが著したこの小説はベトナム戦争さなかの反体制文化を支持する若者たちから深く愛読されたという。その原作をもって、1968年の「プラハの春」事件で共産国のチャコスロバキアから政治亡命し、アメリカにやってきたプラハの映画監督ミロス・フォアマンが映画化に成功したのだった。人間を鉄の規則に忠実に従う者とそうでない者とに二分し、後者を社会の秩序を脅かす存在として排除する「管理社会」に抗して、人間の自由を謳歌する作品を映像化したのには彼なりの歴史的体験があったのである。

 この映画は実に見応えのある作品だった。なんと言っても、マクマーフィ演ずるジャック・ニコルソンの演技が冴えて、光っていた。その恐るべき個性と並外れた演技力にきっと君たちも魅了されるに違いない。そりゃあ、ニコルソンに惚れるなと言うほうが無理な注文というものだ、と言いたいほどだ。ちなみに、ジャック・ニコルソンはこの作品で、アカデミー主演男優賞を受賞している。

松本清聴の映画講座6 「グリーン・ブック」

 この作品は、ニューヨークの下町ブロンクスで生まれ育った一人のイタリア系アメリカ人の物語である。「おじさん二人の物語」と銘打ったキャンペーンが張られた作品だというのに、敢えて<一人の>と言ったのは、映画の全体が一貫して彼の眼を通した形で描かれているからである。
 その主人公トニー・バレロンガは、マフィア世界で稼いだこともあるという点を除けば、さしてこれといった特徴を持った男ではない。イタリア系にしては少々体格が良くて、喧嘩にはめっぽう強いらしいということくらいしか解らない。どうやら、その熱しやすい性格が徒となって、せっかく勤めた清掃車の運転手という堅気の仕事も棒に振ったようだ。そしてまた、いまや高級クラブ「コパカバーナ」の用心棒兼お偉方の運転手をしている。
 大金持の紳士淑女たちに混じってマフィアなどのイカガワシイ連中がところ狭しと詰めかけたホールで、突然、男たちが暴力沙汰を起こして、場内の空気をぶち壊しかねない騒ぎとなった。あれ、どうなるのだろうかと目を凝らそうとする間もなく、体格のいい男たちが忽然とホールの脇から飛び出して、騒動を引き起こした輩を力づくで押さえ込み、そのうちの一人の男が血気盛んな若者をクラブの外に連れ出して半殺しにしかねないほど拳で殴りつけてしまった。
 これが、この作品の主人公の登場である。
 男は激しい暴力を行使することに何の痛痒も感じないほど、一見凶暴に見えたが、彼には美しく愛らしい妻と二人の可愛い子供がいる、守るべき家族があった。イタリア人らしく、一族の中では家族思いで、そのシーンが現れると、どうしてこの男があんな暴力を揮うのか、不思議に思えるほどだった。おそらく、清掃車の運転手に一度はなったのも、そうした家族のために選んだ堅気の道だったのかも知れない、と僕は勝手に想像していた。
 その「コパカバーナ」が改装のため、しばらく店を閉鎖することになった。そんな訳で、凄みの効いた彼の仕事もしばらくはお払い箱となってしまった。
 どいう訳か、彼はマフィアの仲間が進める仕事も断って、何か別の仕事を待っているかのようでもあったが、そう簡単にいい勤めが見つかるものではない。そんな彼に付き人として用心棒と運転手を兼ねた仕事の話が舞い込んで来る。何と、カーネギーホールの上階に住む黒人の天才ピアニストからの依頼だった。
 まあ、世間並みの白人そのものの彼は、黒人に対して少々偏見を懐いてはいたが、それは白人主義の面を被った人種差別意識というほど強いものではなかった。その話にも特に嫌悪を懐くこともなく、俺の条件を呑んでくれるのなら、その仕事を引き受けてもいいと言う。ただし、これには、もう一つ難点があった。それはアメリカ中西部と南部を興行でめぐる長旅となる上、クリスマス・イブの日までそれを続けなくてはいけないということだった。家族とはしばらく離れ離れになるだけでなく、大事な<ブォン・ナターレ>(クリスマス・イブ)にも不在となるかも知れないのだ。男は、何がなんでもイブの夜にはここに戻ってくると言い放って仕事を受けることにしたのである。

 実は、黒人ピアニストのドクター・シャーリーには、腕っぷしが強く、運転歴の長い男を必要とする理由があった。
 シャーリーはすでにピアニストとして成功しており、上流階級の仲間入りまで果たしていた。アメリカ東部や北部、あるいは比較的リベラルな西海岸であれば、十分に高額の報酬を受けることも当たり前だった。
 その男が、チェロとベースとピアノのトリオ・コンサートを、敢えて、さして高くもないギャラで、2カ月の長旅までして南部で実演しようと決めたのには訳があった。東部では白人社会にも受け入れられ、余分な摩擦を避けようとして、彼等に媚びてまでして上流社会に止まろうとする自分の姿に彼はある種の嫌悪を感じていた。黒人であるにも関わらず、名誉と富を一通り手に入れた彼は、単なる才能だけではなく、自分には人間として堂々と生きてゆく<勇気>が果たしてあるのかどうか、それを知りたかったのである。そこで、彼は不安がいっぱいの南部への旅たちを敢行することに決めたのだ。そして、それが、差別と暴力に満ちたコンサート・ツアーを乗り切るために、イザとなれば自分を守り、トラブルをうまく捌くことのできる、一人のタフな男を必要とする事情だった。
 そんなことは何も知らない少々粗野であるが情には厚い一人の男と、無事に演奏ツアーを終えることができるのか人生を賭けて挑む寡黙なもう一人の男との、二人の旅がスタートする。
 下町で身に着けたスラングを使うトニーと、上流階級と同じ言語を放つシャーリーとはまるで住んでいる世界が違い過ぎるほど違うものだった。このため、二人が共通の感情を懐くことさえ無理なことのように見えた。
 その上、この旅は、もう一つの事情によって決して愉快なものではなかった。
 ある街では、黒人は郊外の粗末なモーテルのようなところにしか泊まれない。だが、白人のトニーはちゃんと普通のホテルに宿をとれるのである。また、シャーリーが化粧室を求めると、黒人はホテルの外にある粗末なトイレしか使用できないとされるのである。バーでは白人の危険な暴力を受ける場面があったが、そこでは夜間は黒人の外出禁止という白人たちが勝手に作ったルール違反が問題とされたのであった。
 この映画のタイトル「グリーン・ブック」とは、そうした黒人が旅をする際にどこで、どのホテルを利用できるか、当地では何が禁止されているか、トイレや飲み屋まで白人用と黒人用に分かれていることなどを記したガイドブックのことである。1962年の時代になっても、そうした人種差別がデモクラシーの国アメリカの州や町で続いていたのである。
 実を言うと、音楽にさして詳しくもない僕は、上流階級の言語を巧みに操り、笑顔も見せない天才ピアニストのシャーリーをあまり好きになれないまま、その二人の旅を眺めていた。主人公のトニーも好感を持つには平凡で退屈な男に見えた。それが、とある南部の州の豪邸で演奏するトリオ・コンサートの場面で、煙草を口に咥えながら、窓の外から眺めていたトニーがシャーリーの奏でるピアノに思わず惹き込まれていくところから様相が変わっていくのである。
 そして、シャーリーが酔っ払った勢いで地元のバーに飛び込んでしまったことから白人たちの恐怖の暴力に遭う場面で、必死の覚悟で彼を救い出す。やがて、トニーはいつしかこの孤独な天才を自ら守ろうと思うようになり、南部の陰湿な差別を憎むようにさえなってゆく。いや、それだけでない。トニーは、後部座席にシャーリーを乗せたリムジンを走らせながら、辺りの緑豊かな草原や田畑を美しい光景をとして眺めるまでになっていくのである。

 そんなトニーが遂に爆発するシーンがやってくる。
 冷たい雨が降りしきる真夜中に、道に迷って、おずおずと車を走行させていた時だった。すぐ後ろからパトカーがついて来て、いきなりトニーの運転する車を止めた。そして免許証を出せと迫ったばかりか、大粒の雨の中を車の外に出ろと言い出した。そして中を覗いて後部座席に黒人がいることを知るや、彼にまで外に出ろと威嚇した。若い方の警官は一瞬躊躇するものの年上の方が強引にシャーリーを引きずり出せと迫ったのである。もう、トニーの堪忍袋が切れるのは時間の問題だった。怒り狂った彼はいきなり警官を一発の拳で殴り倒してしまった。もちろん、二人とも町の拘置所に収監されるのであるが、観ている僕たちは、トニーの中に単なる暴力ではなく、何か人間を想う温かいもの、その正義感にも似た熱情を感じるのである。
 いよいよ、この荒んだコンサート・ツアーの最後の日がやってきた。今夜は、クリスマス・イブの華やかな演奏会だ。だが、ここで、再び「事件」が起こる。
 ここは、あの悪名高い黒人差別の州、アラバマ州バーミンガムの豪奢な屋敷だ。金満家たちの為にする音楽夜会に招かれたシャーリーたちが1人の執事に迎えられてその豪邸内に案内される。だが、シャーリーだけは、粗末な納戸のような狭い部屋に連れていかれ、「ここが、あなたの控え室だ」と指示される。思わず怒りを露わにするトニー。それでも、シャーリーはいつもの通り冷静なままだった。
 そして、シャーリーがトイレを尋ねてそこに向かおうとした時、その執事の男がいきなり、「あなたのトイレはあっちだ」と屋敷の外におかれた黒人専用の場所を指さしたのである。今度は、さすがのシャーリーも、それにどう反応してよいのか、途惑いを見せた。とうとう、屋敷の主と思われる人物も現れて、これが決まりだと言い出した時には、トニーとシャーリーの二人は、ここで遂に、「それが認められないのなら、コンサートには出ない」と言い出してしまったのである。慌てふためく彼らを振り切り、堂々とそこを飛び出そうとする二人の姿に、僕は思わず拍手を送ったものだった。

 最後のコンサート地点から東部のニューヨークまでどれほどの距離があるのだろうか。シャーリーを乗せて、その長い路をトニーは雪が積もって思うように先に進まない車を溜まり溜まった疲れと共に運行し続ける。だが、それももはや限界だ。疲労困憊のトニーはここでちょっとした弱音を吐く。家に辿り着けなくとも構わないから、どこかで休みたいと言い出したのである。
 場面は一転し、ネオンが輝くニューヨークの街中で停車する一台の車が現れる。後部座席でぐったりした格好で眠り込んでいるトニー。そして、運転席から降りたばかりのシャーリーが大声で彼を起こすシーンが映し出される。今度は、ピアニストが用心棒を助けて、何とかイブの夜にトニーを家族に送り届けたのである。

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車の中のトニーとシャーリー

 この作品には、存外、「ホッと」する場面が少ない。それもそのはず、いつ、どこで、暴力や理不尽な差別が襲いかかるかも判らない長旅のことだ。そんな穏やかなシーンは最初から望めないのだ。それでも、僕は二つのシーンで救われた気分になった。
 アラバマ州からの帰り道、黒人だけのライブハウスで、ステージに置かれたピアノを弾いて、一瞬彼らのヒーローになったシャーリーが、いつのまにか黒人たちの輪の中で軽快なセッションを演じている。ロシアの音楽学校で正統な教育を受けたシャーリーにとって、シナリオのないセッションなんぞ、まるでトニーのスラングのようなものだった。ところが、その彼が笑顔を見せながらスウィングしている。それを見ていたトニーも思わずスウィングして応える。まったく境遇の違う二人が一つになった瞬間である。それを観ている僕も、思わず「ホッと」する瞬間だった。
 もう一つは、トニーの妻ドロレスに宛てた手紙の話である。
 コンサートの旅の合間に、束の間の休憩があると、トニーは約束した通り、妻に宛てて手紙を書いていた。その、まるで言わば小学生のような<作文>を覗き込んだシャーリーが詩的情緒をいっぱいに含んだ瀟洒な文章を彼に指南する。場面は変わって、トニーの可愛い妻がその文面に涙をためて読んでいる姿が現れる。この一見どこにもありそうな妻への手紙のエピソードが、僕たちの心を落ち着かせる。ニューヨークでトニーの帰りを待っているドロレスはますます彼を愛おしく思うのである。

 ところで、せっかくクリスマス・イブに間に合って、いまや親族に囲まれて一家団欒の席に居るというのに、トニーの表情が冴えない。1人でカーネギーホールの上階に戻ったシャーリーも寡黙なままに孤独に取り囲まれている。心に中に、何か大きな穴が開いたような、そんな気持ちに襲われているのだ。しかも、あの二人の男が同時にそれを感じている! 
 そして、そのラストで、場面が再び動き出す。意気消沈した表情のトニーの家にシャーリーが笑顔とともにワインボトルを持って訪ねて来たのだ。思わず喜ぶトニー。その一方で、白人ばかりの家にやって来た突然の黒人訪問客に一同は一瞬ためらいを覗かせる。その時、妻のドロレスがシャーリーの胸に飛び込み、こう優しい言葉をかけるのである。
 「素敵なお手紙を有り難う、シャーリー」
 彼女にはすべて解っていたのである、手紙のことも、旅の二人がうまくやっていたことも。
 むろん、そのシーンを眺めた僕が「ホッと」したことは言うまでもない。いや、何か熱いものがこみ上げてくるのを感じでいたのである。

 新宿は歌舞伎町の映画館を後にして、僕は、深夜の夕食を済ませようと、ネオンが彩る明るい通りを進んで、以前しばしば立ち寄ったことのある、老舗のカツ屋に飛び込んだ。こんな時間だというのに、中は客でいっぱいだった。レジを任せられた中年の男が、椅子席に座った僕の前にやって来て、小さな声で「お久しぶりですね」と声をかけて来た。すぐ隣のテーブルでは、中国語を話す若者が3人、何やらしきりに叫んでいた。
 注文の食事が出てくる間、僕は映画館で手に入れたパンフレットを拡げて、作品の中心人物、トニー・バレロンガを演じた男優ヴィゴ・モーテセンの顔がアップになった写真を眺めていた。それは、あの粗野なトニーの顔ではなく、どことなく翳を思わせる物静かな顔立ちだった。そのすぐ横には「1958年、アメリカ、ニューヨーク州生まれ。父はデンマーク人。母はアメリカ人」と記されていた。彼はイタリア系アメリカ人ではなかったのだ。それにしても、あの風貌とスラングとで、この男は見事にイタ公役を演じたものだと、改めて感じていた。
 食事も終わり、再びネオンが輝く通りを抜けて、僕は近くのホテルに戻る途中、辺りのことをすっかり忘れて、ここがニューヨークのクリスマス・イブの夜のように思っていた。トニーがどこかで待っているような気がしたのである。

小さな声でー恩師との再会

平成も30年目になる2018年正月の4日、僕は、札幌駅から「スーパーとかち3号」に乗り込んでいた。千歳空港駅の1つ手前の南千歳駅からは、空港に向かう列車、苫小牧や道南の函館に向う列車、そして道東の帯広・釧路へ向かう列車が三つに分岐してゆく。僕を乗せた列車は、そこから南夕張-追分-占冠-トマムを経て長いトンネルを走り抜けていった。
どこまで進んでも辺りは一面の雪景色で埋め尽くされている。枝だけになった裸の木々の向こうに蒼色に染まった針葉樹が整然と並び、その奥には冬の厳しさにじっと耐えている小高い山並みが浮かんで見えた。風もなく、穏やかな陽の光がキラキラと輝いている。次のトンネルを抜けるとそこはもう十勝平野である。

十勝の中心都市・帯広は、ちょうどアメリカ合衆国内陸部の各州の州都が地理的に真中の位置に置かれているように、広大な十勝平野のど真ん中に位置している。その帯広へと鉄路を急ぐ列車が、徐々にスピードを落とし、車内にアナウンスが流れた。

「まもなく、芽室です。停車の時間が短いので、お降りになる方は早めの備えをして下さい。棚に乗せたお荷物をお忘れないようご注意下さい。」

柔らかな男の声が流れたところで、僕は広げていた本を閉じて小さなショルダーバッグに仕舞い込んだ。棚からオーバージャケットを取り出し、手土産の紙袋を下に降ろした。列車が静かに停車する。
家族連れと思われる一行の後に続いて、プラットフォームに降りてみると、外は存外寒くはなく、冬の季節にしては穏やかな空気が全身を包んだ。僕はいま、母校のある郷里の駅前に出て、胸いっぱいにその空気を吸い込んでみた。すっかり様変わりした街並みに幾分の戸惑いを感じながら、目的地に向かう前に、僕は懐かしさを探すようにして、記憶の誘いに任せて通りを進んだ。
歩きながら、確かこの辺には、金物屋の武藤君がいたところだ、あれは高田呉服店があったところだ、文具と書籍の岩田ライオン堂もそこにあったはずだと、僕の中の記憶がソワソワし始めた。ふと、「コーヒー」の看板を提げた店をみつけて中に入った。
中に入ると、大きなテーブルの上で雑誌を広げていた中年の女性が突然の客に驚いたような仕草を見せながら、奥の厨房へと下がっていた。僕のほかに客はいなかったのである。
がらんとした広い喫茶の中で、僕は昼食の時間であることを思い起こして、チャーハンとコーヒーを注文し、上着のポケットから煙草を取り出した。

 

「M先生は、たしか芽室町の老人介護施設に入所しているはずだわ。」

久しぶりの高校同窓会の席で隣り合ったAさんが言った。

「じゃあ、先生の居所がわかるのですか?」

「ええ、でも、会いに行っても仕方がないわ、きっと。M先生はすでに痴ほう症にかかっていて、訪ねて行っても誰だかわからないって、友人が言っていましたたから。」

それを聞いた僕は、一瞬、もう何年も音信不通のままに過して来た自分を責める気分に襲われていた。でも、咄嗟に別の言葉を発して応じた。

「いや、わからなくてもいいよ、とにかくお会いできるうちに会っておかないと後で後悔することになるだろうから、場所を教えてくれたら必ず訪ねて行くつもりだよ。それに……」

「わかるわよ。その介護施設は私たちの同級生のNさんが経営しているところですもの。」

クラスの中でもしっかり者だったAさんが明るい声で言った。
N氏は町の中心街で銭湯屋を営んでいた家の長男だった。その彼が、今では老人介護施設の経営で町の名士になっているという。

「なんだ、N君のところにお世話になっているのかい。なら、大丈夫だ。彼とも連絡をとって訪ねて行くことにするよ。それに、仮に先生がまったく僕のことを思い出さなくても、奥様には会えるかもしれないだろし。」

そう言って、僕はいつものように元気な声を出して応えた。

年が明けて、いよいよ先生のいる芽室町へ向かうことに決めた時、僕は予め確認していたN氏の携帯に連絡をとった。

「おめでとうございます。同窓会メンバーの幸田です。新年早々にいきなり電話して申し訳ありませんね。実は、中学時代の担任だったM先生があなたの経営する施設に入っておられると伺ったものですから、明日にも訪ねて行こうと思っているのですが。」

「ああ、その通りだよ。明日は、俺は出かけているかもしれないが、施設の方にはちゃんと伝えておくので、そのまま向かってくれればいいようにしておきますよ。でもね、先生にお会いになっても、君のことがわからないと思いますよ。お正月休みだというのに、わざわざ無理に向かわなくても…」

「ええ、そのことも承知しています。お会いできるだけもいいんです。それに、奥様にもお会いできればと…」

「いや、奥さんはすでに亡くなられています。」

「え、奥様は亡くなっているんですか?」

僕は、恰幅のよいN君の姿を想像しながら、その報せに困惑していた。
人間の一生なんて、実に身近いものだ。東京で単身生活をしている間に、僕は恩師や奥様に対する感謝の言葉を伝えることもなく、時を過ごしてしまったのだ。僕は、「やっぱり明日は、是が非でも先生のところに行こう」と強く胸の中でつぶやいていた。

 

食事を済ませて一服しつつ、お店の人に道を尋ねた。

「老人ホームの曙園へ知人に会いに向かうところなんですが、たしか、ここから歩いてゆける場所ですよね。」

「そうね、駅前の大通りをまっすぐ北に進んで、四つ目の角に郵便局がありますから、そこを西の方へ曲って下さい。しばらく進むと小さな坂を下ったところにありますので。」

「助かります。おかげで迷わずに行けそうです。また、チャーハン、とてもおいしゅうございました。有り難うございます。」

そう言って、僕はその喫茶を後にした。

外は相変わらず穏やかで、通りには陽が射していた。それでも人影が少ない歩道を一人歩いていると、だんだん身体が冷えて来るのが分った。積もったまま凍てついた雪の道を進むと、足元で靴音がキュッキュッと鳴った。広い真っ白な通りを赤い小さな車が先を急ぐようにして走りぬけて行った。
かつてこの町には珍しい酒造蔵があった辺りに、酒屋さんの看板が見えた。四角い建物の郵便局は、大通りを挟んでその反対側にあった。
通りを挟んで郵便局の前を過ぎたところで、西に向って道を進んだ。この通りは、僕がまだ子供の頃、母や姉たちと一緒に住んでいた小さな家があった道だった。その遠い記憶と共に僕は、一歩一歩足元確かめるようにして歩いた。しかし、すでに当時の面影を感じさせるものは殆どなく、まるで初めて通るような気分に襲われていった。道は、どこまでも真っ白である。
やがて、なだらかな勾配の坂道にさしかかった。ここを下れば、もうすぐ曙園があるはずだ。札幌から持ってきたお土産の紙袋を下げていた手がすっかり冷たくなっていた。僕は少し歩を速めて歩き出していた。

木造二階建ての瀟洒な佇まいのその老人ホームの正面に立って、僕は軽く深呼吸をしてみた。冷たい空気が胸の中にいっぱい入って、僕の心をきゅっと締めつけてきた。そして、それが何故か、これから始まる密かな出逢いの予兆であるかのように感じた。

ガラス越しに中を覗くようにしてドアを開けると、落ち着いた風情の女が顔を出した。

「あのう、この施設の経営者のNさんと同級生の幸田といいます。今日は、中学校の時代の恩師であるM先生を訪ねてまいりました。」

 僕が挨拶を兼ねてそう言うと、女はすかさず応えて言った。

「お待ちしておりましたわ。主人からお話を伺っておりましたの。」

N氏の妻だというその女性は、「主人は今日は外回りで不在であること」を予定通りに来客に伝えると、そのまま先に進んでエレベーターで2階へ誘導し、静かな廊下の奥の方へと案内してくれた。そして、その一番奥の部屋のひとつ手前のところで立ち止まり、ここがM先生の部屋だと言った。

僕は彼女の背中の後について中に入った。

「M先生、お客さんですよ。」

女は、ベッドの上に横になっていた男にひと際明るい声をかけた。
男は眠り込んでいたというより、微睡みに浸っていたかのような眼をこちらに向けて、いきなり闖入してきた二人を眺め返した。
今度は僕が前に出た。

「先生、M先生。僕です。中学校時代にお世話になった幸田です。幸田修です。」

女が続けて声をかけた。

「Mさん、わかりますか? 幸田さんですよ。」

男は、温和な表情でこちらを眺めながら、こくりと頷いた。

「さあ、起きて頂戴。寝てばっかりじゃダメですよ。それにお客さんが来たのだから、ちゃんと起きないといけませんわ。」

そう女が言うと、先生はゆっくり体を起こし、ベッドの横に脚をぶら下げるようにして座り込んだ。
僕がまた大きな声で言った。

「M先生、幸田です。わかりますか?」

男は、ニコリと僅かに微笑んで、再びこっくりと頷いた。

狭い部屋の壁には、おそらく先生の教え子たちが描いたものであろうと思われる、絵入りの寄せ書きが飾られていた。ベッドのすぐ手前のキャスター付きワゴンの上にはポットと湯飲み茶わんとグラスのほかにお菓子袋などが並べられていた。その向こうの壁側に、奥様の肖像を撮った小さな写真が据えられていた。
まもなく女が部屋を去っていたので、僕と先生の2人きりとなった。

「先生、教え子たちがお見舞いに来てくれるんですね。よく訪ねてくるんですか?」

男は、またニコリとしながら頷いた。

もうすっかり痩せているので、その分顔の皺も目立つものとなっているが、あの若い頃の熱血先生の面影が蘇ってきた。その目が驚くほど透明に澄んで見えた。あの頃の先生は、体形は小柄だったものの、なかなかの美形で、ちょうと俳優の水谷豊の鼻を少し高くしたような顔立ちだった。中学時代の僕は、その先生の表情がとても好きだった。

この部屋に入ってからずっと、先生が一言も音声を発していないことに気づいた。
それでも、とにかく僕は先生にいつもより大きな声をかけて、二人の「対話」が成立しているかのようにして語り続けていた。

「先生は、出された食べ物は何でもちゃんと食べているのですか? 好き嫌いはありませんか?」

先生は黙ったまま頷いた。
ふと、札幌のデパートで手に入れたお土産のことを思い出し、先生に声をかけた。

「先生は甘いものが好きですか?」

今度は、「ウン」という表情を浮かべたような気がしたので、僕は持ってきた紙袋の中から餡の入ったお菓子を取り出し、先生の細い手にそっと握らせた。すると、先生はそれを両手で持ち直して、いかにも美味しそうにして口に運んだ。僕は、そうした先生の横顔をじっと見つめていたが、そこでやっと先生と親しい会話ができたような気分に襲われた。

そうしている間に、僕は次のセリフを考え込んでいた。
やはり、奥様のことを訊いてみよう。先生が嫌がるかもしれないけど、ここに来た以上、そのことを直接触れずに済ませるわけにゆかないような気がしたのである。
僕は思い切って尋ねてみた。

「先生、M先生、奥様は亡くなられたんですって?」

一瞬、先生の手が止まった。そして少し間を置いた後、先生は正面の壁を見つめたまま、その首を横に振った。先ほどまで、ひたすらこくりと頷いていた先生が初めて、それを認めようとしなかったのである。
今度は、僕が黙っていた。
部屋の奥に誂えられた小さな窓の向こうにキラキラ輝く陽が力なく注いでいるのが見えた。

先生はそのまま何事もなかったかのようにして甘いお菓子を食べ続けていた。
僕は話題を変えようと思い、お菓子を食べ終わるのを待って、少々陽気な声で言葉をかけた。

「M先生、先生は、時々、外を散歩することがああるのですか?」

先生は黙ったままじっとしていたが、僕の方に顔を向け、困ったような表情を見せたので、僕はすかさず付け加えて言った。

「先生、廊下を歩きませんか? 寝てばかりじゃ身体によくないし、せめて廊下を一緒にあるきましょうよ。」

先生は、ベッドから脚を下ろし、スリッパをはき始めた。そして、少し先を行く僕の後をついて静かに歩き出した。廊下の灯りは弱弱しく、物音一つ聞こえない静けさに包まれていたので、突然、二人きりの世界に入り込んでしまったかのような気がした。
背がずいぶん小さくなったように見えたが、思ったより、先生の足取りはしっかりしていた。僕たちはテレビのある明るい広い部屋、この施設の「居間」と思われるところに辿り着いた。
大きな四角いテーブルに隣り合って椅子に腰をかけ、先生の小さな手を握りながら先生に向って言った。

「先生、先生はこうやってテレビを見にやってくることもあるんですか?」

でも、何故か先生はしきりに僕を珍しそうに眺めるだけで応えようともしなかった。それでも、それが彼にとってこの瞬間を楽しんでいることだけは判った。というのも、僕の顔をしきりに眺めながら、ニコニコと笑顔を向けていたからである。僕は再びその先生の透き通った瞳を覗き見ていた。

結局、最後まで先生は音声を発しなかった。

先ほどの女がその居間に現れたところで、僕は一度先生の個室に荷物をとりに行き、その場に戻って先生に別れを告げた。

「先生、今日は有り難う。お会いできてよかったです。また、来ますからそれまでお

元気でいて下さいね。」

そう言い終わるや否や、先生はまた大きくニコリを笑みを浮かべた。
女が言った。

「M先生、この人誰? わかりますか?」

むろん、先生は一言も発しないままだった。

…………………
和服姿のM先生がテーブルの向こうのソファーに座りながら言った。

「うちのカミさんが、いまでも君のことをまるで弟のように心配して、時々思い出したように、君のことを聞いて来る。<あの子、いまどうしているかしら?>って言うんだ。」

僕は先生の後ろの方で膝をつきながらこちらに顔を向けている奥様に向って、幾分萎縮しつつ応えた。

「先生の奥様にそんな心配をさせているなんて、何といったらよいのか…」

奥様が何か言おうとしたが、それを待たずに先生が言葉を繋いだ。

「だって、初めて俺の家に来た時、最初の挨拶以外、君は一言も言葉を発せず、せっかくだから夕飯を食べていきなさいとすすめたのに、箸にも手を付けずに帰っていったのだから、よほど印象が深かったんだな。ま、その頃の君は、いまで言えば、自閉症児のようなものだったよ。」

あの頃の僕は人前でしゃべるということにある種の強い恐怖を抱いていた。一同の視線が僕に向って来ることを極度に恐れていたのだった。だから、人に道を尋ねられた時とか、お店で買い物をする時のように、必要に迫られた時以外は、自ら他人に音声を発することもなかったのである。

そんなある日の午後、平塚君と近くの川べりで遊んだ後、彼が突然こう言い出したのだった。

「おい、幸田、これから先生の家に行くぞ。もう遅いし、そろそろ暗くなってきたけど、今のうちに向えば大丈夫だ。」

「え? 先生の家に?」

それが隣のクラスの担任の先生のことだと気づくまでに一瞬の間があったが、どうやら平塚君はしばしばその家に足を運んでいた様子だった。
仲良しの友達を除いて会話をすることもなかった僕は、それまで先生のお宅に訪ねるということは全くなかった。ましてや、予定もなく、いきなり訪ねていくなんて、とうてい考えられないことだった。

「でも、その先生、僕の担任じゃないし、それに知らない人の家に行くなんて僕にはできないよ。」

「構いやしないよ。先生はいつでも歓迎だと言ってくれてるんだ。」

僕は川の浅瀬に石の囲いで作っていたビニール袋の水槽から小さな魚を放して、黙っていた。

「おい、行くぞ。幸田。」

平塚君は膝まで濡れていたズボンの裾をまくりながら裸足のまま靴を履いて歩き出した。その後を追うようにして、僕も濡れた靴下を脱いで靴を履き、小走りに先を急いだ。あたりはもう薄く夜の影が覆い始めていた。遠くで山鳩が鳴く声が聞こえた。

先生の家は、街の南側の公営住宅の中にあった。
平塚君がドアの横のブザーを押すと、中から男の人がドア越しに顔を出した。M先生である。

「おう、よく来たな。平塚。」

先生は嬉しそうな声で言いつつ、初めてみかける僕の方にちらりと目を向けた。

「幸田です。一緒について来ました。」

僕はぺこりと頭を挙げてお辞儀しながら小さな声で言った。
家の中は思ったよりも狭い造りだった。居間の真中に大きな丸テーブルがおいてあり、テレビを背にソファーが置かれていたので、それだけで部屋が余計狭く感じられた。僕と平塚君は差し出された座布団の上で正座して坐り、先生にもう一度挨拶をした。
台所から先生の奥様が顔を出し、冷たいジュースを運んできて、声をかけてきた。

「あら、それじゃ足がしびれるわよ。胡坐でもかいてもっと楽にしなさい。」

その声に、僕は胡坐に姿勢を変え、平塚君は足を前に伸ばした。
その時、どんな会話をしたのか、今となってはよく覚えていない。ただ、先生が職員室での人間関係や教室でのトラブルなどについて、あるいは問題児ことばかりでなく、勉強のよくできる生徒たちのこともいろいろ心配していることを語っていた記憶がある。僕の方は一言もしゃべらず、先生の話に聞き入っていた。明るい性格の平塚君は、先生の奥様と愉快な話をしていた。クラスの友人のこと、クラブ活動に関すること、そして何故か家族の事もしゃべっていた。ベランダのガラス戸の傍の扇風機が音を立て回っていた。

先生が言った。

「俺は、教師の仕事は、でしゃばる奴にはしたいことをやらせて、むしろ目立たない生徒の方を励ますことにあると思っている。そんな子らは、何か一つのきっかけがあるだけで、自信を持つようになり、自分の力で頑張るようになるんだ。」

いまから考えると、先生はまだ若かったのだ。僕と12,3歳ほど年上ということだから、当時は26,7歳の<若造>だったはずである。おそらく新婚さんになったばかりで、まだまだ情熱を持って教師の仕事に挑んでいた頃だったのだろう。先生の声には熱がこもっていた。

時計の針が7時を指そうとなった頃、先生はテレビのスイッチを入れながら言った。

「もう夕飯の時間だ。何もたいしたものは出せないが、晩御飯を食べていったらいい。」

そう言い終わるや、傍にいた奥様に食事の用意をするよう声をかけた。
僕は先生の家にお邪魔するだけでも恐縮していたので、夕飯までお世話になるとは思ってもいなかった。平塚君に「もう、引き上げようよ」と言ったが、彼は帰る様子をみせなかった。
先生の話では、クラスの生徒たちがよくこの家に遊びに来るとのことで、連中の中にはわざわざ晩御飯をめがけて訪れるやつもいるとのことだった。洗濯ものをまとめて持ってくるやつもいると言った。奥様の手捌きも馴れたものだった。けれども、運び出され食事の前で、僕はますます萎縮し、全身が固くなっていくばかりだった。僕はその後も差し出されたものに箸をつけることもなく、ひたすら先生の言葉にじっと耳を傾けていた。

その翌年、M先生は僕のクラスの担任になった。
先生は、何事にも自信がなく、人前で音声を発することもなかった僕の様子をいつも見届けていたのであろう、ある日、校舎の廊下の端を歩いていると、そっと僕の傍に寄ってきて、こう囁いた。

「幸田君、先生はいつもキミの味方だからな。」

以来、先生はしばしば廊下で、誰にも聞こえない小さな声で、この言葉を繰り返した。そして、この小さな声が僕に確かな勇気を与えた。
やがて僕は人前で声を発し、自分の意見を言い、いつしか勉強にも精を出すようになった。それらはすべて先生の期待に応えられる人間になりたいとの熱望にもなっていった。たった一つの言葉が、それほどに僕に大きな影響をもたらしたのである。

 

それから十数年の歳月が流れていた。
和服姿の先生は、あの頃とさして変わった様子もなかったが、すでに教員を辞めて室蘭で教育主事の仕事をしていた。
僕も32歳になっていて、子どもが二人いる大人になっていた。

「先生は、どうして教師をお辞めになったのですか?」

僕の言葉に先生はこう応えた。

「教師を続ける自信が無くなったんだよ、幸田君。実は、教師生活を送っているうちに生徒をよく理解できないことが続いて少々道に迷っていた頃だった。俺の教室でホームルームを開いている時のことだ。クラスで一番勉強のできる子が突然立ち上がって、こんなことを言い出した。<このクラスに給食費も払っていないのに、のうのうと食事を食べている奴がいる>と。実は、給食費を払えない生徒というのは、両親が亡くなって親戚の叔母さん夫婦に預けられた貧しい家の子だった。それをやつは「告発」したんだ。しかも、彼はこう言ったんだ。それが認められることかどうか、ここで採決しようと。俺は頭に血がのぼって想わず大声だ彼を叱りつけた。そうしたら、今度は父兄からクレームが来たんだ。」

先生はその見栄えのする顔をゆがめながら苦しそうにして語り出していた。

「でも…。」

と、僕は言った。

「それでも、先生は止めるべきじゃなかったと思う。そんな時こそ、先生のような人が必要なんであって、そこで教師をやめったら、一体誰がその貧しい子の立場になって応援するんだろう。」

そう言った後で、僕は付け加えた。

「すみません。事情もよく知らないまま勝手な意見を言ってしまって。でも、僕自身がM先生に勇気づけられて自分を変えてきた経験を持っているので、それでついきつい言葉になってしまいました。」

先生は、黙っていた。
奥様も何も言わずじっとしていた。
そして、こんな会話が先生との最後のやり取りとなった。

…………………

別れ際に、僕はもう一度先生の方に向って手を振りながら言った。

「M先生、サヨナラ。また、来ます。」

やはり言葉はなかったが、先生も手を静かに振って応えてくれた。

曙圓を後にして、僕は来た時とは違う別の道を通って歩を進めた。足元でまた靴の下がキュッキュッとなった。突然、空の上から鳥の囀りが聞こえたような気がした。思わず上空を見上げてみた。鳥の姿は見つからなかったが、メガネが大きな露で濡れ、目の回りが急に冷たくなっていった。僕は、それが自分の涙であることにしばらく気づかなかった。