清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

松本清聴の体験的政治学入門12 政権交代を狙う「野心」

「野心」と「粘り腰」で

政治家の仕事には、選挙対策とか不祥事対応とか国会での議論とか、目の前の出来事やスケジュールに合わせてその都度対処しなければならない日課が山積している。それでも、一国のかじ取りを担う政治家であれば、目前の課題に取り組むと同時に、この国を国家百年の大計でリードしていくという気概と戦略をもたねばならない。

ちょうど、わずか52名の衆議院でスタートしたオリジナル民主党が「政権交代」を掲げて経て立ち上がったとき、私は政党運営の中枢で事務局を担っていたが、その頃、よく番記者たちに訊かれた言葉ある。

「Mさん、一体、政権交代はいつ実現するんですか?」

このあまりにも性急な質問に対して、私はいつもこう応えるのが常であった。

「大事をなすには時間が必要だ。物事(の達成)には10年かかる」

実は、このセリフはまったく先が読めない状況の中での言い訳にも似たものに過ぎなかったのではあるが、それだけでなく、事を成し遂げるためには何よりも一歩先を見つめる鋭い洞察力と定めた狙いを一つひとつ着実に積み上げてゆく策略と行動力が重要だとも考えていたのである。

実際に、1998年に統一民主党が誕生してから10年目にこの党は選挙で見事に政権交代を実現した。が、いかんせん、その後の<粘り腰>に欠けていた。

天下を獲ったら、政権基盤を堅固なものにすることもないままに、いきなり難題であるはずの沖縄基地問題原発ゼロ政策、あるいは消費税引き上げを打ち出して、世論との乖離を大きくしたばかりでなく、多くの利害関係者や官僚たちを向こうに回してしまった。

私は当時周囲に対して、①大きな政策転換につながるような改革はすぐに手を付けずに、霞ヶ関(官僚たち)や経済界の一部も協力できる体勢を準備してから着手すべきこと、②その間は、前政権時代の長い間のウミ(膿)を時々抉り出しては問題とし、政権交代があってよかったと世間に思わせること、そして③少なくとも二度の本格予算を組んで国民に安心感を与えるとことを立証して見せること、の3つを囁いてきたが、それも叶わなかった。

事を急ぎ、<及び腰>になり、とうとう政権基盤の確保どころか、政権を投げ出す解散すら行ってしまったのである。

私には、これらのリーダーたちには、石に齧りついてでも政権を維持し、本当に大事を成し遂げたいという、いい意味での<野心>に欠けていたのだと思っている。

昨今の総選挙で野党が躍進したが、政権を奪い取るとの<野心>も戦略も欠けて見えることは誠に残念なことである。

松本清聴の体験的政治学入門11 衆議院総選挙結果の行方

選挙結果と先行きの見えない日本丸

先の衆議院選挙結果は、自民党政権下では、2009年の民主党政権誕生以来の与野党逆転劇で結末を迎えた。石破首相は、政権担当の続投に意欲を見せているようであるが、その先の見通しは決して明るくない。早くも<連立政権>や<パーシャル連合>などの言葉が飛び交っているものの、その実現も容易ではなさそうだ。

この国が、経済や国民生活に関する難問に直面している上、外交・安全保障問題でもその能力が問われている時にあたって、こうした事態は実に困ったことである。

石破内閣は、与野党逆転だけでなく、党内における求心力を著しく低下させて、いまや与党を束ねることすら覚束ない様相である。それどころか、党内にはすでに亀裂が入っていて、果たしてそのまま先へ進むことが出来るのだろうかとさえ噂されている始末だ。ひょっとすると、この党は突然自壊作用も起こしかねないとの指摘もある。

加えて、来年の参議院選挙も控えており、今回勢いを増した野党側がしばらくは様子見となる公算が高い。これでは、部分連合すら容易ではないと思われる。

一方、総選挙は野党勢力の増長という結果をもたらしたものの、これは与党の目に余る失態によるものであって、それが政治の力量によって達成されたものではないことも事実である。首相のいきなりの解散によって時間的制約があったにしても、政権交代をめざすための<野党協力>がほとんどゼロに等しい状況のままの選挙戦だった。それは、例えば、東京24区における政治資金疑惑と旧統一教会疑惑の<合併症状>を抱えた候補者を野党乱立で逃したことに象徴的に示されている。

全国のブロック比例の政党別得票率を見てみると、与野党が拮抗していることが分かる。このことは、野党が一本化されれば、いつでも政権交代が可能な射程距離に突入したことを示唆しており、その分、国民の付託に応えるに足る勢力として野党の責任も増したことを意味している。

ところが、選挙結果は、二大政党への接近というよりも、小党分立の方向に分散的なシフトを見せていて、れいわや保守党などの台頭も目立った。最も躍進したとされる国民民主は<政策実現>というかけ声はいいものの国の統治に関心を寄せているようには見えず、いわば<圧力団体>と化しているのであって、政治の安定化には結びつきそうにもない。

巷では「沈みゆく船」にも譬えられる日本丸をかじ取りする政治や政府が当面確立される見通しはなく、その先行きはいよいよ不透明である。

     [※今回は、時事問題に関するものとなっているので、実名入りで記述した]

松本清聴の体験的政治学入門10 政治家の仕事(3)

政治家の仕事3―プロジェクト

S氏が官房長官であった頃、私はその政務の秘書官として官邸の中の執務室にいた。私の任務は、長官への申し入れや報告の前捌きのほか、特命的な政治問題の処理や、いくつかのプロジェクトチーム(以下、PT)を動かしてその遂行を管理することが主だった。

そのプロジェクトというのは、日常的な処理業務を離れて、中長期的な視野から直面する難題を一つひとつ審議し、その考えをとりまとめていくというものである。例えば、国際金融危機―当時は、まさに米国発のリーマンショックの直後のことだった―にどう対処するかというものがあった。間もなく始まる第四次防衛大綱の作成のための備えのためのもの、あるいはその当時急速に浮上してきたスマートシティ構想に関するものであるなど、実にたくさんのPTを動かしていた。

そのたびに、それぞれのPTに見合った陣形を整えなければならない。国際金融問題では、民間のエコノミスト、経済学者、政府系金融機関のスタッフ、民間企業人らを一堂に集めて、情報を寄せ集め、その課題を明確にして焦点を絞っていくことになるのだが、そのための会合はすべて夜中に行われるのが常だった。

第四次防衛大綱策定に備えては、主任役の何某大学のK教授を筆頭に、国際政治学、防衛研究の専門家、安全保障研究者、宇宙科学政策の専門家らを集めて密かにスタートさせた。これは、後に防衛大綱作成のための四大臣―官房長官防衛大臣財務大臣、国家戦略担当大臣―による非公式会議に反映された。

一介の秘書官の私でも同時に5つほどのPTを同時並行的に動かしていた。ところが、官房長官であるS氏は、その他にも、B型肝炎のプロジェクトや医薬品に関するPT、あるいは医療行政の改革に関するPTなどを抱えており、おそらく十指に迫る非公式会合に携わっていたであろうと思われる。

一応の成案までこぎ着けたものは、第四次防衛大綱策定案など限られたものであったが、これらの多くは政権がもっと持続することが可能であれば、いずれ何らかの形で実際の政策実現に役立てられたことであろう。だが、政権は、わずか3年ほどで瓦解する。

S氏は官房長官退任後もいくつかのPTを立ち上げては、具体的な成果を編み出していった。先にも少し触れたが、これらは日常的な処理業務とは別に行われるので、夜中もしくは土日を使って開かれるものがほとんどで、S氏には<休み>がなかった。

一体に、政治家には、中長期的な視野から政策を構想し、それを形に変えていく仕事がある。だが、このようなPTを動かしている政治家を他に見たことがほとんどないのは淋しい限りである。

松本清聴の体験的政治学入門9 政治が止まる時・動く時(2)

ある政治家の激怒

先に紹介した「加藤の乱」の裏側で、こんなことがあった。

金曜の昼時間に、私のところに一本の電話がかかってきた。

「松っちゃんな、一体、俺の政党はどうしだんだ? 政権交代を目指している野党の党首や幹事長が他党の議員を応援するって、どういうことなんだ。」

電話の向こうの声は怒りで震えていた。

私は、この鹿野さんと格別に親しかった。とういうのも、彼が自民党を離脱して新進党に参加し、やがてその新進党がビッグバンを起こして分裂した後、民主党に小グループを率いて合流してきた時以来、何度も一緒に仕事をする機会があったからである。わけても、衆参合わせて130名を超える議員政党になった民主党政権交代の機を伺うところまで来た頃、「政権運営委員会」なるものを立ち上げて、政党・政治家主導政権運営を目指した提言をとりまとめることになった時だった。この時、彼が座長を務め、私が事務局を担ったことが大きい。その後も、代表直属の組織として立ち上げた憲法調査会でも一緒になった。またもや、彼が初代会長を、私はその事務局を担うことになった。

こうして、いつの間にか互いに忌憚のない意見を交わし合う仲になっていた。

こうしたこともあって、当時代表室の部長をしていた私に電話がかかり、自民党の内紛に過ぎない加藤氏と連絡を取り合っていると報じられたH代表やK幹事長の動きに彼は憤懣やるかたないほどの勢いで語り、私に党の幹部会を招集するよう迫ったのである。

この時、鹿野さんは党の副代表となっており、言わばH代表の相談役のようなポジションにあったので、その意向を代表に伝えて土曜の午後に幹部会が開催されることになった。

普段は多弁な語りをしない鹿野さんだったが、この日は少々いつもとは違った。彼は語気を強めて幹部連中を前にこう言い放ったのである。

「われわれがH代表を選んだのは政権交代を目指すためではなかったのか? そのH代表自身が他党の人間を応援するとは一体何事か」

この時、代表は黙って話を聞いていたが、幹事長役のK氏が他人事のように笑みを浮かべていたのを見届けて、今度は凄まじい声を張り上げて叫んだ。

「幹事長は、その政権交代のために代表を支えるのが仕事ではないか。それが揃いも揃って、一体何事か」

その迫力に周囲は圧倒されていた。

あの時の鹿野さんの権幕が、無謀な加藤の乱に巻き込まれることなく、その数年後、選挙での民主党政権の誕生につながったのだ、と私は今でも思っている。

松本清聴の体験的政治学入門8 政治が止まる時・動く時(1)

加藤の乱の教訓

私がまだ野党のスタッフをしていた頃のことである。当時、自民党政権の中で、「加藤の乱」ということが起こった。

その騒動が起こった時の政権は、M内閣であったが、いわゆる「神の国」発言や官房長官のスキャンダルによる辞任などが続いて内閣支持率が急落し、このままでは翌2001年の参議院選挙で惨敗するとの予想も出始めていた。

ここから先は、いささか裏話めいた、あまり知られていないエピソードがある。内閣支持率が史上例を見ないようなレベルにまで低下した最中、実は当時野党第1党の民主党に所属していて、とりわけ堅固な政治結束力を誇っていた羽田孜グループにこんなアプローチが密かに寄せられていた。それは九州のとある自民党県連の幹事長からのものだったが、「いざとなったら我々は脱藩する覚悟だ。その際には羽田さんのところに馳せ参じるつもりだ」というものだった。調べてみると、全国の県連の中にはそうした動きを同様に見せているところが数県あることも分かった。自民党は足元からの分裂状態を呈していた。

こうした状況の中で、2000年11月9日の夜、自民党加藤紘一ら数名が都内のホテルにて会合を持ち、「M首相には内閣改造をやらせない」との申し合わせがなされ、改造の話が出た場合には内閣不信任で行動するとの密約が交わされた。これが「加藤の乱」へと繋がっていく。

加藤らの行動にはY氏のグループもこれに同調したが、この時の自民党内での「加藤潰し」には凄まじいものがあった。それは有力派閥の意向を無視して先走ったことが何よりも大きい要因だが、同時に、内閣の窮地に付け込み、その機を捉えて倒閣運動をする態度を許せないとの執念にも似た感情も作用していた。加えて、加藤氏が野党第1党の民主党の幹部らと連絡を取り合っているとの情報が流れたことも要因だった。

この乱はマスコミを賑わせたものの、結果としては、大失敗に終わる。

この一件は、二つの教訓を残した。

一つは、政治家は冷徹に力関係を計算して、自らが多数派を制するとの見通しを欠いては行動してならない、ということである。加藤グループは当初から強い結束力を欠いていた上、まんまとその切り崩しに遭い、戦う前にすでに敗北していたのである。

いま一つは、一旦決断したなら、その強い意志を貫くことが大事だということである。加藤氏は土壇場になって採決の議場に出ることすら左右に揺れた。これでは人は追いてこないであろう。かくして、まもなく加藤派は政界からフェイドアウトしていくことになるのである。

                      [※故人についてのみ実名にしている]

松本清聴の体験的治学入門7 政治家の人骨表

政治家の人骨表

選挙の場面を除いて、普通の市民は政治の実際場面や自ら票を投じた政治家の生態を覗き見るチャンスはあまりない。壇上に上がれば、どの政治家も「庶民の味方」のように振る舞い、その話題も立派なことばかりで、ついつい老舗の政党看板や業界の意向を尊重して、よくは知らぬままに特定の候補者を応援したり、支持したりするというのが実態だ。

戦後日本は、民主主義が定着して、政治家は国民の付託に応える公僕となったが、一旦選挙で選ばれると、その翌日からは「センセイ」に豹変したりもする。こうしていつの間にか、有権者のために働く、いわばサーバント(奉仕者)として選ばれたはずの議員が「偉く」なり、役人や業者を顎で使うような政治家も最近は珍しくなくなった。

つい先ごろも、北海道のとある政治家が異様なパワハラじみた言動で話題になったが、それなんぞは、「腹が立つ」というより、あまりの情けなさに「開いた口が塞がらない」といった出来事だった。いったい、政治家という職業は、人生で一度も言葉を交わしたこともなければ、会ったこともない無数の有権者の支持があって誕生するもので、彼は選ばれた瞬間から、それら無数の人々の声に耳を傾け、その叫びを形に変える無限の努力を求められる仕事を背負うという、実に緊張を強いられる職業でもある。

ところが、そのような緊張感はどこへやら、市民生活の最低限のモラルさえ持ち合わせていない政治家が最近とみに増えているように思う。

自ら制定した法を守り国民の税金を預かる立場にある政治家たちが集団で税金逃れをやっていたことが発覚した派閥パーティ資金の還流事件もそうした例の一つであるが、庶民感覚ではまっとうに聞こえない差別発言を繰り返す議員や自身の公設秘書に常軌を逸した暴言を吐いて話題になった女性議員の記憶もまだ新しい。

これらの議員に共通しているのは、自ら起こした不始末に対する受け止め方がこれまた庶民感覚とはおそろしく違うということだった。これらの政治家たちは決まって、「言葉が適切でなかった」とか「表現に問題があった」と言い逃れ、自らの振る舞いの、極端な品位のなさに思いもよらないまま言葉を紡いでいるのだ。

私たちの民主主義には「選ぶ」という以外に他の方法がないので、こうした最低限のモラルにも欠けた政治家たちを裁く手段がない。そのたびに、私は政治家の言動を評価する人骨(人柄)表のようなものがあればよいのではないかとも思うのだ。それはともかく、最低ラインに満たない政治家は自らを処する覚悟も必要だと考えるのであるが、これもまた無いものねだりに終わりそうである。

松本清聴の体験的政治学入門6 政治家の仕事(2)

政治家の仕事2―決断という技について

私が政党のトップの傍用人のような仕事をしていた頃、決まってこう相手に、つまり政党のリーダーにこう言ったことを覚えている。

「代表(=党首のこと)は、日中、十分お身体を休めていて結構です。代表室の中のソファーで寝そべっていてもよいです。ただし、いよいよ決断の時には、そういうわけにはいきません。なぜなら、決断は政治家、わけてもトップにしかできないことですから」

そんな<忠告>を守った代表ではなかったが、私はいまでもあたふたと走り回るばかりでなく、腰を据え、時が来たなら果敢に決断を下すことが政治家の仕事だと思っている。それ以外は、有能なスタッフに委ねる度量も必要だと考えるのである。

敢えて言えば、この<決断>の瞬間こそが政治の要諦とも言える。とういうのも、政治の世界で行われる選択には確実なものはほとんどなく、どれが正解なのか不明なままに、たった一つを選択してその結果に対する評価を後世にその判断を委ねるしかない決断を求められることが多い。第一、錯綜する利害関係の中で、どれを選択しても得をするものと損をするものが現れる。あるいは意見が対立している場合には、どっちを採っても非難は避けられないものだ。

逆に言うと、リーダーの決断一つで、その先の流れを左右することもできるのが<決断>の醍醐味だ。いわば答えのない世界で、たった一つの答えを出して見せるという妙技が政治の政治たるゆえんでもあるのである。

ところで、少し考えれば分かることだが、政治の世界では、組織的な序列というものがない。たとえ1期の若手議員であっても、国会議員になったら対等で、彼は有権者以外に責任をもたず、地元に戻れば一人ひとりがいわば<お山の大将>であるから、その意見も時には好き勝手である。組織手続によって物事を決めることは望めないのだ。

企業経営や役所などの場合は、組織的序列が決まっていて、所定の手続きに大きな誤りがなければ、そこで決定されたことは直ちに<承認>され、それ以降は軋轢を残さずに済む。しかし、政治の世界では、混沌とした状況の中で、しかも組織序列が欠けている場面で選択をしなければならない。

こうした制約を乗り切るために、与党の中では派閥運営ということが自ずと生じることになったのであろう。ボスがいて、その周りに集団が形成される仕組みだ。一見、こうした親分-子関係の仕組みが組織序列に代わるものとして統制を保つ仕掛けとなっている。

それでもやはり、最後は政治のリーダーたちの<決断>がなければ事は前に進まない。

いま、与党の中では裏金問題発覚を契機に、そうした怪しげな仕組み解体すると意気込んでいるが、果たして、そうした<装置>を欠いたままで、この先も首尾よく機敏な決定をくさせるのか、皆目見当がつかないというのが本音であろう。