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「やさしい猫」余情

やさしい猫』は、中島京子による日本の小説。読売新聞夕刊の連載小説として2020年5月7日から2021年4月17日まで書き綴られ、2021年8月19日に中央公論社より刊行された。作品は、第56回吉川英治文学賞の受賞作となった。

この原作を基に、NHKがテレビドラマ「やさしい猫」を製作(脚本・矢島弘一)、今年6月24日(土)から全5回が上映された。

TVドラマ「やさしい猫」

シングルマザーで保育士のミユキは、震災ボランティアで訪れた東北で、偶々、一人のスリランカ人青年クマラと出会う。それからおよそ1年後、隣町の商店街で二人は運命的な再会を果たすことになる。2人は懐かしさのようなものを感じて惹かれ合い、「友達」になるが、やがて互いに気になる存在となってゆく。そして、まもなくミユキの娘・マヤ(伊東蒼)を交えた3人は家族のように一緒に暮らし始める。異国人と一緒に暮らすことには同僚保育士のほなみはよき理解者だが、アパートの大家おばさんは初めはこの共同生活を怪しげにみている。だが、そうした誤解も解けていくようになり、二人は結婚を決意する。

田舎で独り暮らしをしているミユキの母のところにも出かけて同意を求めることもした。

ところが、婚姻届を提出し正式に夫婦となった直後、クマラはオーバーステイを理由に入管施設に収容され、母国への強制送還を命じられることなった。

場面は一転し、入管の取調室のような一室。

口頭審理では偽装結婚ではないかと一方的に疑われ、人の気持ちを無視する過酷な言葉と質問を浴びせられる。絶望するクマラとミユキ。入管での面会はアクリルごしに30分のみとされ、その理不尽な対応への憤り、助けることもできない口惜しさにミユとマヤの心は打ちひしがれていく。何とか処分の再考と訴えるも、入管局の担当責任者の上原は一連の措置は組織的に決めたことで勝手に変更したりすることなどできないと素っ気なくミユキの申し入れを拒絶する。

収容施設を訪ねたあと、すっかり路頭に迷い込んでいるミユキの前に、あの冷たい応対でミユキを不快にさせた上原が現われた。その彼が今度は、わずかな望みを託して裁判に訴える道があると示唆する。そして、彼とは旧知の中であるという弁護士・恵耕一郎(滝藤賢一)を紹介する。上原は入管の現状に疑問を感じ、入管職員であることを自ら辞して一民間人となり、今は行政書士の仕事を始めていたのだった。

クマラを助けるためには、裁判を起こして裁決取り消しを勝ち取り、在留特別許可を得るしかない。望みは、ただ家族3人で暮らしたいだけだ。ささやかな願いを胸に秘め、弁護士と家族3人の国を相手どった戦いが始まる。

◇◇◇◇◇

クマさんこと、スリランカかからやってきたクマラさんの本当の名前はとても長い。

「マハマラッカラ パッティキリコララーゲー ラナシンハ アキラ エーマンタ クマラ」

それが、日本の落語に出てくるじゅげむじゅげむを思わせたことから、ミユキがその長い人の名前をそらんじて見せて、二人で笑ったところから急速に距離も縮まってゆくのである。このクマさんの長い名前の一件は、のちに公判の場面でも登場してくることになる。

絵を描くことが大好きなアヤは、この幸せなカップルを一枚の絵画に仕立て、それが絵画コンクールの中学生部門の佳作として賞まで獲得るほどだった。幸せがずぐそこまでやってきたことを暗示するその絵のタイトルは<ハピネス>だっった。

<登場人物>

◦首藤ミユキ(優香)

 再婚時に旧姓「奥山」を名乗る。二人が出会った時は32歳だった。保育士として働き、母子家庭を守っている。前の夫が亡くなったのは、娘のマヤがまだ3歳の時のことだった。

◦クマラ(オミラ・シャクディ)

スリランカからやって来た若者。24歳だった。日本語も上手にしゃべることができ、日本では自動車整備工として働いていた。

◦首藤マヤ(伊東蒼)

 原作では語り手になっているが、ミユキのたった一人の娘。まもなく小学4年生になる。裁判時には、高校生になっていた。少々、内気だが、絵を描くことが大好きな女の子。

◦ほなみ(石川恋)

保育所の同僚。ミユキのとっての良き理解者

◦ぺレイアさん

被災地の炊き出しにボランティアで参加していた常連。スリランカ料理の店を持っている。スリランカ人コミュニティのリーダーでもある。

◦ナオキくん(南出浚嘉)

 北海道からの転校生。異性への興味よりはるかに強い知的好奇心を持つ。マヤのもっとも良き理解者かつ頼もしい応援者となる。

◦ハヤトくん(ラディン)

 トルコからやってきたクルド人の若者。背がすらりと高く、なかなか見栄えもいい。本人は日本生まれであるが、それでも「難民の子」であることには変わりはない。

◦同じアパートに住む少々口うるさそうなおばさん(池津祥子)

◦鶴岡(山形県)のおばあちゃん・マツコ(余貴美子)

 ミユキの母親。<外国人>と一緒になるという娘に最初は冷たく当たるが、やがて二人の心温かい応援者となってゆく。

◦上原賢一(吉岡秀隆)

 最初、入国管理局の主任審議官として登場する。退職し、行政書士となっていた。彼がミユキに最後の手段としての裁判のことを伝える。

◦弁護士恵耕一郎(滝藤賢一)

 労働問題や外国人労組者のことを扱っているようだ。生真面目で、足で証拠を集める、正義感の強い弁護士でもある。

◦弁護士江藤麻衣子(山田真歩)

 難民事案に詳しく、それを主な専門領域としている。

◦訟務検事の女・占部(麻生祐未)

 厳しい質問で証言する者たちを追い詰めてゆく。国の立場に立つ人物。

スリランカ人ウィシュマさんの事件

おそらく、著者の中島京子さんは、この作品を書き上げる一つの動機として、この物語の中心にスリランカ人を据える際に、あるエピソードを思い描いていたに違いないと思われる。実際、この物語の向こうには、この国における悲しく、悍(おぞ)ましい、そして「冷たい」出来事があった。<ウィシュマさん死亡事件>がそれである。

◇◇◇◇◇

2021年3月6日、スリランカから日本へやってきた一人の、若い女性が、閉鎖された部屋の中で死亡した。亡くなったのはウィシュマ・サンダマリアさん。2017年に学生ビザで来日して日本語学校に通っていた、いわゆる外国人在留者だったが、不法滞在の疑いで入国管理局に収容されままになっている間にいわば衰弱死した。また、33歳だった。

体調は、2021年1月頃から悪化し始め、やがて嘔吐を繰り返し、体重が急減した。にもかかわらず、点滴もされず、適切な治療も行われることはなかった。彼女が必至の想いで懇願した仮方面もついに無視された。密閉された空間の中で言葉の暴力のようなものまで受けていた。極度の飢餓状態に陥っていて、体温の低下も始まっていたとされる彼女の不自然な死に対して、遺族は、入管当局の「未必の故意」に相当するとして刑事訴訟に訴えた。

しかし、2022年6月、名古屋地方検察庁はこれを不起訴とした。その理由は「死因の特定に至らず、不作為による殺人や殺意を認める証拠がなかった」というものだった。

世界中がロシアのウクライナ侵攻のニュースに目を奪わている2022年3月4日、遺族は同時に、入管局が適切な医療措置を施すことも行わなかったことを理由として、国に対する損賠賠償を求める国家損賠賠償訴訟を起こしている。

◇◇◇◇◇

ウィシュマさんの遺品中に、直筆のメモが残されていた。それは、入管施設に設けられた投書箱に投函された手紙だった。手紙は、入管内部をチェックする役割を担う視察委員会に宛てたものだったが、それが開けられたのは彼女が亡くなった2日後のことであって、投函されてから1カ月以上が経っていた。

愛知県津島市に住むウィシュマさんの支援者、真野明美さんが、仮方面が許可されたら、彼女を一緒に暮らす約束をしていて、手紙のやりとりを続けていた。

まもなく死を迎えるだろうウィシュマさんのの手紙には、こう綴られていたという。

「まのさん と いっしょに いろいろ やりたい」

「わたし きたら、いっしょに たくさん りょうり を つくって たべましょう」

真野さんに届いた最後の手紙は、もう日本語で書くことすら困難だったのであろう、全部英語だったという。

“I need to eat but I can’t eat. All the food and water vomiting out. I don’t know what to do.”

(「食べなきいけないけど、食べられない。食べ物と水を全部吐いてしまう。どうしていいのか分からない」)

亡くなる3日前、真野さんは、すかっり衰弱しきったウィシュマさんを訪ねて面談している。その時、彼女が言い遺した言葉がこれだった。

「ここから連れてって」

◇◇◇◇◇

著者は、同種の別の事件のことからもヒントを得て、主人公の一人クマラさんを登場させたのであろう。原作の中には牛久収容所も登場している。収容された人間が体調の不調を訴えたが、聞き入れられず、やむなく支援者らが救急車を呼んだものの、施設から追い返されるという出来事も小説の中には描かれている。そして、その背景には、以下のような多くの出来事が潜んでいる。

<入管施設収容者の病死や衰弱死そして自殺>

2014年、東日本入国管理センターに収容されていたカメルーン男性が死亡したことをめぐって、男性の母親が「不調を訴えていたにもかかわらず、速やかに救急搬送などを行わず、適切な医療を受けさせなかった」などとして国を相手に損害賠償を求めて裁判を起こした。水戸地方裁判所は入管の対応の過失を認めた上で、165万円を賠償するよう命じたが、現在も、双方が上訴して争われている。

収容中に病気や自殺で亡くなった人は、統計を取り始めた2007年以降でも18人に及ぶという。2018年4月には、茨城県牛久市にある東日本管理センターに収容されていたインド人男性ディパク・クマルさん(32歳)が9カ月にもわたる長期収容の結果、自殺した。

ウィシュマさんが亡くなる1年8カ月も前、2019年6月24日、大村管理センターでナイジェリア人男性サニーさんが餓死するという事件が起きている。

難民認定を拒む日本

2019年4月、東京入管に収容中のクルド難民申請者のチョラク・メメットさん(38歳)が、12日の夜に体調不良となっって病院での診察を訴えたにもかかわらず受け入られることがなかった。そこで家族と支援者が救急車を呼び寄せたが、医師の資格を持たない入管職員の一方的な判断で、救急車が2度も追い返されるという事件が起きた。このため、これに抗議する有志たちが品川の東京入管局前に集まり、夜通し叫んだ。[このことがSNS上で話題になり、翌13日には国会でも議論に取り上げられて、事件発生から30時間後のになってやっとメメットさんは病院に運ばれた。脱水症状だったという]

メメットさんは、彼の母国トルコでは、国をもたないクルド人は弾圧と差別を受けてきた。親族にもクルド独立運動の参加者がおり、家族とともに日本へ政治難民としてやって来た。その後、4度もの難民申請にもかかわらず認定されず、その都度「仮放免」を繰り返した。2018年1月、手続のために入国管理センターを訪れると、家族には「仮放免」を認める一方、メメットさんはいきなり収監されてしまったのである。

◇◇◇◇◇

<難民条約>

難民の定義と位置づけを始めて明確に定めて、すべての国がこれを受け入れ、彼らに「人権と基本的自由を保障」することを明確にしたのは、1951年のことである。その基底に流れているが1948年の世界人権宣言だった。

「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出自、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別も受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享受することができる」

(第2条第1項)

しかし、日本は長い間難民条約に加盟せず、国際世論の非難の的となってきた。日本が難民条約を批准したのは、その30年後の1981年になってからのことである。

<極端に少ない日本の難民認定

ちなみに、原作の文中に麻衣子先生一緒に恵弁護士がマヤに「難民とは何か」を丁寧に説明する件があり、その中で、日本の難民認定数が諸外国に比べて極端に低いことにも触れている。

「でも、カナダでは[難民申請者の]67%の人が認められて、他の先進国でも基本、二桁は認定されているのに、日本が1%に満たないってのは、なあ。災害があって、避難所に千人逃げてきたのを、あんたんちは家が流されたわけじゃないもんだろう。あんたは避難所の飯をただ食いしようとしてんだろって、997人(ママ)追い返しているようなもんだろ。」 (p.265)

ここに、2023年6月15日時点の数値がある(日本難支援民協会提供)。

       認定率   認定数

 ドイツ   20.9%   46,787人

 アメリカ  45.7%   46,629人

 フランス  20.9%   41,681人

 カナダ   59.2%   30,598人

 イギリス  68.6%   18,551人

 イタリア  13.9%    7,193人

 日 本    2.0%    202人

この極端な数値について、日本難民支援協会は、次のようなコメントを行っている。

「各国の置かれた状況は違うため単純比較はできませんが、世界でも類を見ない極めて少ない認定数であることは事実です。[この数値に限らず]例えば、シリア難民の認定率(2020年)は、ドイツでは78%、アメリカでは62%、オーストラリアでは89%ですが、日本では、2011年から2020年の間で117人が申請したところ、認められた人は22人に留まっています。」

これにはさらに次の事情も考慮しなければならない。シリア難民の大量発生時に、欧米諸国や南米のブラジルなどがその受け入れ数を対外的に表明したのに対し、日本は唯一、その表明を行わず、このため、日本に難民申請を求める人の数が予め制限されたいたという、もう一つの事情でである。このため、日本に難民の避難先を求めるシリア人の数はそれだけでも初めから抑制されたものとなっていたのである。

ゼノフォビア

ウィシュマさんの遺族の弁護士を務める指宿(いぶすき)昭一氏は、会見の席上で、この事件には「ゼノフォビア(外国人嫌悪)」が潜んでいると何度も繰り返した。ゼノフォビアとは、異質な存在に対する理由なき嫌悪や恐怖、忌避の感情のことで、一般には「外国人嫌い」とも訳されることがある。ただし、この嫌悪の感情は、一見自然なものに思われることもあるが、それはむしろ反復する要人の発言やメディアの報道によって補強・増幅され、人々の心の中に作り上げらたもであることが多い。特に、日本にあっては、その西洋志向が強まった明治の近代化以降にアジアの近隣諸国に属する人々を嫌悪する感情が醸成された。そして、そうしたアジアを見下す意識や感情は21世紀の今日まで続いているのである。

僕が原作を読んで特にここで紹介したい、その一つのエピソードを取り上げてみようと思う。

クマさんが、ミユキさんとその娘マヤさんが住んでいる小さな部屋のあるアパートに出入りするようになった「ハピネス」な時代の、つまりまだ難民問題が顕在化しない頃の一つエピソードがある。

アパートの住人のおばさんの話である。

一度、同じアパートに住むおばさんが突然、ミユキさんとわたしがいるところへやってきて、すごくこわい顔をして、

「あなたのところへにガイジンが来ている」

と言ったことがあった。

「あ、はい。友だちで」

ミユキさんがそう答えると、おばさんはものすごく腹を立てて、

「あなたがいないときに、おたくのお子さんと遊んでいましたよ!」

と怒鳴った。

「はあ、あの、ときどき、面投みてもらっています。わたしが忙しいときなんかに」

「ちょとねぇ、あなた」

おばさんはますます怒って、肩で息をしていて心配になるほどだった。

「そんな、悠長なことでどうしますかっ。何かあったらどうするの。あなた、お母さんなんですよ」

「はあ、あの、何かとは?」

おばさんはほんとうに頭に来て、こんなバカと口をきくだけ無駄だよという顔をして、ぶつぶつ言いながら帰っていった。

[これには]後日談がある。

ナオキくんのお父さんがアメリカに出張して、お土産を買ってくれた。いつもお世話になているからと、クマさんにもロサンゼルス・ドジャーズベースボールキャップとTシャツを買ってくれた。クマさんは野球よりクリケットが好きだし、野球だったら読売ジャイアンツのファンなんだけど、でも、そのキャップとTシャツは気に入ってしょちゅう着ていた。

ある日、クマさんと遊んでいたら、物陰からあのおばさんがじーっと見ていたことがあって、わたし[マヤ]とナオキ君は震え上がった。クマさんはちょっと肩をすくめただけで、そのまま遊び続けた。

すると、どことなく、おばさんの固まった表情が変化して、解凍されたみたいになっていき、全部は溶けなかったけれど半解凍くらいな感じで家に引っ込んだ。

ある別の日に、保育園から帰ってきたミユキさんを道端で捕まえて、

「あの人、アメリカ人なの? だったら、まあ、いいわよ。そなんらそうと、早くおっしゃいよ!」

と言うと、大股で去って行った……。

◇◇◇◇◇

アメリカもまた、こうしたゼノフォビアの傾向が強い国の一つである。

アメリカは、9.11同時多発テロの直後には、イスラム人に対するゼノフォビアを振りまき、メキシコからの難民問題を抱えると、今度は中南米からやって来る人たちやすでにやって来た人たちに対する排除を感情的に煽ることが珍しくない国である。そして21世紀初頭も過ぎようとして今日、その嫌悪は「中国」及び中国人に向けられている。

また、アメリカで、ドナルド・トランプ氏がイスラム系やメキシコ系移民・渡航者に対する規制の強化を掲げて大統領選に臨んだとき、対立候補であった民主党ヒラリー・クリントンや英エコノミスト誌などから「ゼノフォビアだ(外国人嫌悪である)」と指摘されたことはよく知られていることである。

アメリカでは、アジア系の人々をターゲットにした嫌がらせ、偏見、中傷、暴行、差別が後を絶たない。日系、中国系、韓国系、フィリピン系など民族に拘わらず、アジア系というだけでストレスのはけ口にされたり、暴行事件に巻き込んだりするケースも多い。

こうした状況を見るたびに記憶に蘇る、ある事件がある。中国系アメリカ人のヴィンセント・チンさん殺害事件である。今から、およそ40年ほど前の出来事である。

<事件のあらまし>

中国生まれのヴィンセント・チンさんは、幼いころから養子としてアメリカに渡り、養父母のもとミシガンで育った。自身の結婚式が迫った1982年6月19日、デトロイトにほど近いハイランドパークのストリップクラブで、独身最後のバチェラーパーティーを友人らと楽しんていた。

注)バチェラーパーティーとは、結婚を控えた男性が「独身最後の夜」を友達と楽しむパーティーのこと。参加者は男性のみで、結婚後は実行が難しい男ならでの破目を外す遊興が主な騒ぎの中心となる。アメリカやカナダ、イギリスでは比較的ポピュラーな遊び事だとされている。

そこには、クライスラーの工場で働くロナルド・エベンスと、自動車工場の仕事をレイオフされた義理の息子マイケル・ニッツという、二人の白人男性も遊びに来ていた。その夜、些細なことから言い争いになり、喧嘩はエスカレートしていった。

その場はいったん収拾がついたものの、二人はチンさんの行方を追って執拗に街中を探し回った。そしてファーストフード店の駐車場でチンさんを見つけ、ニッツがチンさんを羽交い絞めにし、エベンスが野球バットでチンさんの頭部を滅多打ちにした。「まるで野球選手がホームランを打つ時のように、フルスィングで頭部を何度も殴っていた」と目撃した警官の証言があったほどだった。この暴行には明らかにゼノフォビア、あるいはレイシャルアニマス(人種的な敵意)と強い殺意があった。チンさんは、日本人と誤解されたまま殺害された。まだ27歳だった。ちなみに、この当時、日米貿易摩擦がフレームアップされ、とりわけアメリカの自動車産業の衰退が日本の不正な産業進出のせいだとして、盛んにジャパンバッシング(日本叩き)が全米各地で繰り返されていた。

この事例は、ひとたびゼノフォビアに憑りつかれると、人はどこまでも冷静さを失い、極限的なまでに残忍になるということを示唆している。

◇◇◇◇◇

作者は、『やさしい猫』を書き上げるに際して、この物語を悲劇のままに終わらせなかった。むしろ、最後は「ハピネス」の絵の中に収めて、この物語を閉じている。絶望的なまでの現実に対して、どこまでも<希望>を見失わないことの大切さを強調したかったのであろうか。それとも、物語の世界でしか<絶望>から救済することは不可能であることを示したかったためであろうか。

いずれにしても、僕にとっては、密かに女優・優香に好感を抱き、彼女の活躍に声援を送り続けていたので、ラストシーンでミユキの笑顔を見届けて「ホット」し、希望に心が満たされたことは確かなことだったのである。

エリザベス・ギャスケルの短篇

19世紀のイギリス小説はまさにアルプス山脈とでもいうべきもので、ディケンズサッカレーエミリー・ブロンテジョージ・エリオット、トーマス・ハーディーなど、多くの巨匠が肩を接してそびえ立っている、と語ったのは、英文学者兼翻訳家の小池滋氏です。

続けて、彼はこうも語っています。

「その高峰の影に隠れてしまったために、不幸にしてあまり目立たないが、芸術的完成度の高さでは巨匠にも劣らず、魅力満点の作家が何人もいる。その一人がギャスケルである。」

ユニテリアンの牧師の娘として生まれたエリザベス・スティーヴンは、1歳の時に母を失い、早くにたった一人の兄の死に続いて父も亡くすという不幸に見舞われます。その彼女が父と同じ宗派の牧師と結婚して、エリザベス・ギャスケルとなるのですが、長男をわずか9カ月で病死させたことがきっかけで、その悲しみを癒すために34歳の時に一つの小説(『メアリー・バートン』)を書き上げます。それが一躍ベストセラーとなって、いわゆる文壇にデビューすることになったのです。

当時のイギリスは、産業革命の勢いの中で、溢れんばかりのエネルギッシュさで工業的近代化の道を突き進んでいました。そんな中で、彼女は、そのまばゆいばかりの光の陰に据え置かれた貧しい人々の暮らしの悲惨に目を向けることを忘れなかったばかりか、夫と共に自らユニテリアンとして慈善活動にも心を配る、「いつもにこやかで穏やかな」性格の持ち主であったとされています。

やがて彼女は、当代きっての人気作家でもあったチャールズ・ディケンズのもとで仕事をすることになるのですが、気質の違いもあって、人間関係的には少々複雑なものがあったと言われています。それはともかく、ギャスケルは、そこでいくつもの長編小説に加えておよそ40の短篇小説を書きあげるこになります。イギリスの、今で言うところの女流作家で、短編小説を書いて商業ベースで成功したのは、彼女が最初であるとさえ伝えられています。

彼女の一連の作品群には、ある種の悲哀とともにユーモアも込められており、その人間の欠点をも赦(ゆる)す温かい眼差しがギャスケル文学の醍醐味といってもよいように思われます。リアルな描写の中に独特の味わい見せる彼女の作品は読む者の心に強い印象を残す物語となっています。

ユニテリアンとは、非国教徒であるがゆえに一時期は法的な差別まで受けたという、少数派のキリスト教系信仰者の集団です。総じて、資産家や資本家が多く、決して社会の底辺層を代表するような存在ではないのですが、神によって見守られた人間社会や隣人に対する責任意識が強く、社会貢献に身を捧げることに義務を見出すという市民的な徳性をもっていました。そんな徳性をもった宗派でしたので、社会の不合理な差別や貧困に対しては「良心」と「責務」をもってこれに応えるという意識も強かったのです。

そんなことから、彼女が初めて発表した『メアリー・バートン』も、当時の世界最大の工業都市の一つであるマンチェスターを舞台に、「労働者たちがどう感じ、どう考えているか」をリアルに描いてみせた小説として仕上げられたのでしょう。ギャスケル自身、生涯をかけてイギリスの「貧困問題」から目をそらすことはありませんでした。

その彼女の短篇作の一つに、「異父兄弟」という掌編があります。今日は、この作品を紹介してみたいと思います。短いながらも、ギャスケル文学のエキスがいっぱい詰まった作品となっています。

「異父兄弟」概要

一見、自己犠牲をテーマにした小品とも読めるこの物語には、主人公がたとえ迫害や試練に遭遇しても、人間としての誇りを失うことのない存在として見事に描かれている。そこでは、ユニテリアンらしく、キリストの受難に似せて、困難を「救済」へと導くやさしさが浮かび上がってくる仕立てになっている。それがまた、読む者の共感を誘う物語として迫ってくるのである。兄弟のうち、<兄グレゴリー>は亡くなった母の連れ子で、<私>は、父の再婚相手の男との間に生まれた息子だった。ここでは、以下では、その抜粋要約を記述する。

◇◇◇◇◇

兄のグレゴリーは、私より三つ年上でした。継子である幼い子供が私の母の愛情を求めて自分と争ったという理由で、父は恨みがましそうにグレゴリーを嫌っていました。父はいつも、母が死んだのも、私が生まれながらに虚弱だったのも、彼のせいだと考えていたのではないか、と私はひそかに思っています。

グレゴリーはずんぐりした武骨物で、手を出せば何でも駄目にしてしまうような、不器用で見すぼらしい少年でした。そのため、農場の者たちから事あるごとに罵倒されたり、大目玉を食らったりしていました。

私はといえば、兄を愚弄したり、わざと意地悪なことをした覚えはありませんが、いつも何かにおいて一目置かれ、類まれな才子として特別扱いされるために、横柄にも私はいい気分になっていました。

みんなが兄のことを愚かで間抜けだと言っていたからでしょうか。その愚鈍さは徐々にひどくなって行きました。学校で習ったことを兄に覚えされることは至難の業で、先生は最初こそ叱ったり鞭で打ったりしていましたが、最後はとうとう根負けしてしまい、父に兄を連れ帰ってくれるようにと、そして何とか理解できるような農場の仕事でもやらせてはどうかと言いました。

とはいえ、兄は怒りっぽい人ではありませんでしたし、むしろ辛抱強くて、きわめて善良な性質であり、たとえ叱られたりしても、それが誰であろうと、1分もたたないうちに相手に対して献身的に尽くそうとするのでした。

私自身はどうかと言えば、とても賢い少年だったようです。とにかく、いつも学校ではやんやと持てはやされていましたので、いわゆるお山の大将になっていました。けれども、父は、私に学問をさせる必要性をあまり感じておらず、やがて私を退学させると、自分のそばに置いて農場のことを教えてくれるようになりました。

グレゴリーの方は、老齢でほとんど仕事ができなくなっていたアダム爺さんの訓練を受け、羊飼いのようなものになっていました。実際、このアダム爺さんは、私の兄には優れた才能がある、ただそれをどやって発揮するかがよく分からんのだ、といつも言い張っていました。

ある冬のこと―。

街道を通れば7マイルほどあるものの、丘陵地帯を抜けて行けば4マイルしか離れていない所へ、父の使いで出かけがことがありました。父は私に向かって、行く時はどっちの道を通ってもよいが、帰り道は必ず街道の方から戻るようにと言いました。というのも、冬の夕闇はすぐにやって来るし、深い霧になることがしばしばであったからです。その上、アダム爺さんが、この分じゃあ今日は雪になるなあと言ってもいました。

私は使いの目的地に着き、あっという間に用事を済ませてしまったので、帰りの道を自分の一存で決め、ちょうど夕闇が襲ってくる頃でしたが、闇が来る前にと、丘陵地を通って家路を急ぎました。

夜の闇は私が思っていたよりも速い足取りで迫ってきました。丘陵地には同じ地点から実によく似た道が分岐していますが、この時の私にはもう、そんなものがまったく見えなくなっていました。突然あたりに雪が降りしきり、自分が今どこにいるのか、まったく見当がつなくなりました。

私は徐々に感覚がなくなって眠くなりましたので、時々じっと立ち止まっては叫んでいました。しかし、今、自分が一人さびしく死のうとしていると考えるていると、涙にむせんで声も出なくなりました。私は何か夢でも見ているかのように、自分がたどった人生を妙にまざまざと回想し始めていました。短かった少年時代の様々な光景が、幻のように目の前を通りすぎていくのです。

その時です。突然、叫び声がひとつ聞こえてきたのです。あれは、犬のラッシーが吠えた声だ。気味の悪い、白い顔をした、実に醜い犬で、一つにはそうした欠点のために、一つは兄さんの犬だという理由で、顔を合わせるたびに父から蹴り飛ばされていた犬です。さすがに犬がきゃいーんと悲しい鳴き声を上げたときには、時に父も自分のしたことを恥ずかしく思ったようですが、その自責の念を隠すようにして、今度は、お前のしつけがなっとらんと兄を責め立てたものでした。

確かに! ラッキーの声だ。また聞こえた!

漆黒の闇の中で、灰色の人影の輪郭が次第にはっきりとしてきました。毛織のショールをまとったグレゴリーの姿でした。

グレゴリー兄さんは、私に向かって言いました。

俺たちは体を動かさなくちゃならん、大切な命のために立ち止まってはだめだと。そして何としても家に帰る道を見つけ出さなくちゃならんと。あちこち探し回ったため、兄も道を見失っていたのです。兄さんはラッシーに案内をさせながら、その進んだ方向について行きました。

私には次第に恐ろしい睡魔が忍び寄ってくるのがわかりました。

「これ以上、もう歩けないよ」

とにかく眠りたい。たとえそれ死んだとしてもいいから、眠りたいと思ったのです。

グレゴリー兄さんは、すぐに叫びびました。

「駄目だ、駄目だ!」

そして、歩き出してからちっとも家に近づいちゃいねえ。ラッシーだけが頼りだと言いながら、私に岩陰の下に寝転ぶように進めて、「俺が横に寝て温めてやるよ」と言ったのです。

それから、ラッシーの首にファニー伯母さんが私にくれたハンカチを巻きつけて「急げ、ラッシー!」と大きな声をかけたのです。その醜悪な顔の犬は暗闇の中へ弾丸のように消えていきました。

ああ、これで横になれる! やっと眠れるのだ。兄さんが横で一緒に寝てくれたとき、私はとても嬉しく思い、兄さんの手を握りしめました。

「おまえ、覚えていないだろうなあ、死にかけた母さんのそばで、こいうやって俺たち二人、一緒に横になってたことを。母さん、おまえの、ちっちゃなかわいい手を俺の手に握らせたっけなあー。母さん、今でも俺たちのこと、きっと見ているよ。たぶん、もうすぐ俺たちも、母さんのところへ行けるさ。」

「グレゴリー兄さん」

とつぶやきながら、私はぬくもりを求めて兄さんの方へ身を寄せました。兄さんはまだ話を続けていました。私は眠りに落ちていきました。次の瞬間、大勢の人の声が聞こえ、私は我が家のベッドの上に寝ていたのです。

私の口から最初に出たのは、「グレゴリー兄さんは?」という言葉でした。

ある表情がみんなの顔に次々と浮かびました。父の口はわなわなと震え、いつになく目には涙があふれてきました。

「生きてさえいれば、わしの土地の半分もやったんだのに、ああ、神様! あれの足もとにひざまづいて、わしの心ない仕打ちを赦してくれと頼むことができたら―」

その声を聞きながら、私は再び長い眠り中へと引き戻されていきました。数週間も経ってやっと回復したとき、父の髪の毛は真っ白になっていました。しかし、それ以後、グレゴリー兄さんのことは私たちの間で話題になることはありませんでした。

私にすべとを話してくれたのは、ファニー伯母さんでした。あの運命を決した夜、父は私の帰りが遅いので虫の居所が悪く、いつにも増してグレゴリーに当たっていました。おまえの親父は素寒貧だったとか、おまえのような間抜けに仕事をさせても、何の役にも立ちやしねええ、とか言って、叱り上げていたそうです。

そのとき、グレゴリー兄さんは立ち上がり、口笛を吹いてラッシーを呼びながら、外へ出て行ったということです。

その少し前、父と伯母の間では、私の帰りが遅いことを心配する話が持ち上がっていました。ファニー伯母さんの話によれば、グレゴリー兄さんは嵐が来るのに気づいていたのではないか、それで何も言わずに外に出て、私を迎えに行ったのではないかということでした。

そして、誰でもがあまりに時間が経過するなかで気が動転して右往左往しているところへ、伯母さんのハンカチを首に巻きつけたラッシーが帰ってきたのです。

農場で働く者がすべて狩りだされ、外套、毛布、ブランデー、その他みんなが思いつく物は何でも手に携えて、ラッシーについて行ったそうです。岩陰で、私は冷たくなって眠っていたということでした。私の体には兄さんのチェックの肩掛けがかっかていて、両足は羊飼いが着る厚手の外套で念入りに包まれていたそうです。兄さんの方はシャツ一枚で、腕は私の上に投げかけられ、穏やかな笑みが、その冷たくなった顔に浮かんでいたということです。

◎◎◎◎◎

この短篇には、敬虔なキリスト教徒としての倫理的な教訓が出すぎているようにも思える側面が小さくない。しかし、ある意味で、それ以上に著者自身の人生に深く根付いた、彼女なりの思いがいっぱい詰まった作品であると見ることもできる。

実際、ギャスケルは、母が亡くなった後、一時期、伯母にあずけられるという体験をしているし、また父の再婚で義母との生活を余儀なくされたこともあった。そして先にも紹介したように、何より、兄を早くに亡くしているのである。おそらく、その分、執筆にも強い思いが込められたものとなったのであろう。特に作品の後半には、ぐいぐい人を誘う勢いがある。

こうした短篇では、必ずしも十分に展開されることはないが、ギャスケルの代表的な中長編には、当時の悲惨な生活を伝える詳細な事実を記述したものが少なくない。『メアリー・バートン』では、パン、ミルク、卵の値段まで述べられており、アリスがメアリとマーガレットのためにお茶やバターを購入すると、彼女の半日分の稼ぎが消えることなども綴られている。

マンチェスターストライキ』では、当時のイギリス社会において、生死を分けるほどの貧富の差があり、かつ豊かな者は貧しい者の窮状にはまったく無知で、関心を寄せようともしないことを伝えている。ギャスケルは、それを主人公のジョン・バートンを通して見事に描き出している。読者はそこに、事実を冷静に観察する眼とそれらを眺める優しい眼差しとが、ギャスケル文学をより深く、より豊かにさせていることを知ることであろう。

ヘルンさんの「日本昔ばなし」

小泉八雲という人のことは、多少は知っているでしょう。子供の頃に、「耳なし芳一」や「のっぺらぼう(むじな)」の話、あるいは日本の怪談でも最も有名な説話の一つ「雪女」の物語なら、一度は聞いたことがあるに違いありません。

たぶん、そのいくつかはTBS系のテレビアニメ作品として放映された『日本昔ばなし』でも紹介されているに違いありません。市原悦子常田富士男の名コンビが声優として、日本中の子どもたちや大人たちの心を鷲づかみにしたアニメ番組のことです。

けれども、この小泉八雲という人は、実は日本人などではなく、そもそもはイギリス人の父とギリシア人の母との間に生まれた、明治の外国人教師だった人です。外国人教師としては最後に今の東京大学早稲田大学の英語の先生にもなる人物ですが、初めはわけあって、出雲の国、今で言うと、島根県松江市の中学校と県立高等学校の先生になった人です。イギリスを離れて、移民船でアメリカに身一つで渡ったあと、あれこれと人生の悲哀を体験した後、週刊誌や雑誌記者を経て、遠い東洋の国にやってきたのです。

本名は、ラフカディオ・ハーン。その人が日本人の武士の娘と一緒になって、戸籍上の都合からも小泉八雲という日本名を使うことになったのです。

ハーンは、英語とフランス語を使いこなす、文学的才能豊かな、記者と翻訳家を兼ねた経歴の持ち主ですが、日本語は話せませんでした。では、どうやって、日本の昔話に精通するようになったのでしょうか。それは、妻となった日本人女性セツの話を、かなり簡素にかみ砕いた奇妙な日本語で聞いて、あとは持ち前の文学的想像力で「日本の民話」のように書き上げたのです。

書き上げたといっても、実際にはすべて英語で書いたのです。ですから、明治・大正初期の頃にハーンの民話作品を呼んだ人は、英文を読んでいたことになります。例えば、芥川龍之介のような知識人が読んで、知っていただけだったのです。それが日本語に訳されたのはもっと後になってからのことでした。

何だか、変な感じですね。「日本の民話」として知られている作品が、実は最初は英語で書かれていて、それをさらに日本語に翻訳されて、日本の子どもたちに読み伝えられたというわけですから。しかも、どれもハーン自身の創作の手に作られているので、もともとは日本の民話集にも無かったものも少なくないのです。えらい学者の方があれこれと調べてみたものの、日本の中にも、ずばりオリジナル作品と呼べるものはさして多くはなく、つい戸惑うくらいです。

という訳で、これは日本の民話そのもの翻訳でもなく、今では語り継がれてきた逸話をハーン自身が新たに創作した「再話」であるとの結論になっています。

ちなみに、英語が分からない妻セツと異国人のハーンは、一体、どんな日常会話をしていたのでしょう。想像するだけでもワクワクするような話です。そもそもセツは、この奇妙な「訪問者」のことをどう呼んでいたのでしようか。彼女は、自分の夫を「ヘルンさん」と声をかけていたのです。

西欧人らしく鼻は高いが、少々背が低く、片目の不自由な猫背の小男が残した「再話」には、どういう訳か、「日本の心」がいっぱい詰まっているのが真に不思議に思える作品がたくさん残されています。

本日は、あまり日本語訳の作品集にも載っていない一話を紹介することにしますので、よくご覧あれ。

 

鳥取の布団の話

明治24(2011)年8月14日から29日にかけて日本海に沿って旅した時、妻の節子(セツ)が同行した。その時、節子がハーンに語って聞かせた話がこれから話題とする『鳥取の布団の話』である。これこそハーンが節子の口から聞いた最初の日本の民話であった。その話を聞いたハーンは、「あなたは私の手伝いを出来るご仁です」と言って非常に喜んだという。

その『鳥取の布団の話』とはこうである。

◇◇◇◇◇

宿屋が店開きをして最初の客を泊めた。一眠りしたと思うと、子供の声で目を覚ました。

「兄さん、寒かろう?」

「お前、寒かろう?」

客は子供たちが自分の部屋に迷い込んだと思い、おだやかにたしなめた。暫くの間は黙ったが、また優しくかぼそい、歎くような声が、耳もとで「兄さん、寒かろう?」「お前、寒かろう?」と繰り返した。

行燈をつけたが、誰もいない。行燈をともしたまま、また横になると、消え入るような声で繰り返した。その時はじめて客の背筋を寒気が走った。何度も繰り返し同じ事を言う。そのたびに恐ろしさがつのった。声はほかならぬ自分の掛布団の中から出て来る。

階段を降り、宿屋の主人を起し、いましがた起こったことを主人に告げた。主人は「夢でもみたのでしょう」ととりあわない。だが客は宿代を払って別の宿へ行ってしまった。翌日の夕方、別の客が来て泊まった。夜更けて主人は客に起こされた。またも同じ話である。

主人は、布団を自分の部屋に持ち込んで一夜を明かした。日が出ると布団を仕入れた布団屋に行って由来を尋ねた。

《その家族が住んでいた小家の家賃は月に60銭だった。その額さえも貧乏家族には相当の負担だった。父親が稼げる額は月に2円か3円で、母親は病気で仕事が出来なかった。家には二人の男の子がいた。6歳の子と8歳の兄である。鳥取に身寄りはいなかった。

 ある冬の日、父親は病気になり、1週間ほど病んで亡くなった。すると母親もその後を追い、子供は二人きりとなった。助けを乞える人もいない。売れるものはすべて売った。

 毎日なにかを売っていくうちについに布団一枚しか残らなくなった。食べるものもなくなり、家賃は払うに払えない。大寒がやって来た。雪が降り積もって家から外に出ることも出来ない。それで二人は一枚の掛布団の下に寝て、たがいに子供らしくいたわりの声をかけあったのである。

 「兄さん、寒かろう?」

 「お前、寒かろう?」

 家には火はなかった。火を起すものもなかった。暗い夜が来て、氷のような風が小家の中をひゅうひゅうと吹き抜けた。

 子供たちは風をおそれた。だが風以上に家主をおそれた。家主は子供たちを起すと、家賃を払え、と乱暴な口調で言った。邪慳な男で、金目のものがもう無いと知ると、子供たちを雪の中に追い出し、二人からその一枚の布団を取り上げ、家に鍵をかけてしまった。

 二人とも薄い紺の着物を一枚着たきりだった。他の衣類は食物を買うために売り払ってしまったからである。行く当てってなかった。ほど遠くないところに観音寺があったが、雪が積もって行くことも出来ない。それで主人が去ると兄弟は家の裏手にこっそり舞い戻った。そこで寒さのあまり眠くなり、互いに暖をとるために抱きあったまま寝込んでしまった。そして二人が眠っている間に、神様が二人に新しい布団を掛けてくれた―霊妙なほど白くたいへん美しい布団であった。二人はもはや寒さも感じなかった。》

こうして事情を知った宿屋の主人が、お寺の和尚に布団を寄進し、子供たちの霊のための供養を願い出た。すると布団は語ることを止めた、という。

◇◇◇◇◇

ーこの「鳥取の布団の話」には、別のエピソードが語られている。

八雲とセツが止まった宿でのエピソードを、彼自身次のように記している。

◎◎◎◎◎

小柄な中年の女中がひときわきれいな声で「ご夕飯の時間です」と、私たちにお給仕をしに来た。二十年前の既婚女性の風習に倣い、その女中は歯にお歯黒を塗り、眉を剃っている。それでも愛らしい顔立ちで、若い頃はさぞかし美人だったにちがいない。女中の仕事をしているが、その女はこの宿の主人とは親戚らしく、それなりの待遇を受けている。その女中の話によると、さっきの精霊船は、彼女の夫と弟のために流すものだという。ふたりともこの村の漁師で、8年前に家を目前にしながら遭難してしまったらしい。………。

この話をとつとつと語り終える頃には、彼女の目頭から涙がこぼれ落ちていた。すると急に、女中は畳に頭をつけて一礼し、袂で涙を拭い、お恥ずかしいところをお見せしました、と丁重に詫びて微笑した。あの日本人の礼儀に欠かせない穏やかな微笑みに、私は正直言って、話以上に胸を打たれたのであった。

ちょうどそのとき、日本人である私の連れが、うまく話題を変えてくれた。私たちの旅のことや、うちの旦那様は海辺の古い風習や言い伝えなどに興味がありまして、などと軽い談笑を始めたのである。こうして、私たちの出雲を巡る道中記などについて話を交わし、彼女の心をほぐすことができた。

女中は私たちに、これからどちらへお出になられるのかと尋ねた。私の連れは、おそらく鳥取まで足をのばすことにと答えた。

「まあ、鳥取! そうでございますか? そこには『鳥取の布団』という古い話がございますが、旦那様はご存じですか?」

実のところ、「旦那様」はその話を知らなかったので、ぜひとも聞きたいと(セツが)せがんだ。 [以下、「鳥取の布団」の話が続く。]

新美南吉の童話の世界

新美南吉とは、キツネの物語「手袋を買いに」でもよく知られる童話作家のことです。南吉は、東京外国語大学英語部文科へ入学した19歳の時に、『赤い鳥』に「ごん狐」などの童話を寄稿しています。その後、いくつかの職を遍歴した後、生まれ故郷の村に近い安城高等女学校の教諭となり、「赤い蝋燭」や「久助君の話」、「花のき村の盗人たち」などの作品群を遺して、わずか29歳7か月の生涯を閉じています。

生来が病弱であるうえに、暖かい家庭にも恵まれませんでした。新美南吉こと、本名渡辺正八は、畳職人の父親と下駄や雑貨の店を営んでいた母との間に生まれましたが、4歳で実母と死別し、6歳のときに継母が来て一緒に住むことになります。世間の目には我が子のように可愛がったとされる母子の関係も、その実、もっと複雑なものがあったらしい様子です。さらに、8歳のときには、実母の母親のところへ預けられます。この老婆との二人暮らしは淋しいものであったようで、わずか3カ月で再び実家に戻っています。新実姓は、この時の母の実家から採られてつけられたものです。

こうした得も言われぬ孤独感が新見南吉の文学を通底しているように感じられるのも至極当然のことであろう、と思われます。

南吉の童話の基調にあるものは、何よりもまず、他者との心の触れ合いを求める切なる願いです。それは、親と子、子供と子供、盗人と百姓の間などはもちろんのこと、人間と動物との間でも変わりはないのです。実際、南吉の物語の中には、猿や狐や牛をはじめ、小鳥、鼠、蝶、蜻蛉、虫、ひよこ、金魚、蛇、蛙、鮒などが次々と描かれています。

彼は、ドストエフスキートルストイゲーテのような巨匠の作品をよく気に入っていましたが、それでもその仕上げた作品としては、自ら「こぢんまりした物語」と呼んだ小品を多く残しました。彼の目には、茄子畑、夕あかり、虫の声、涼しい風などの<小さな世界>を捉えて離さない、繊細で優しい光景が映り続けていたので、自ずとその作品はいわゆる大作へとは向かわなかったのです。

むしろ、一見平凡と思われる出来事に中に、人の温もりを伝える絶妙な感覚を見出して、そこに一つの物語を造形していくことになったのだろう、と思います。

でも、おそらくではありますが、南吉にとって現実の世界は決して生きやすい世界ではなかったのでありましょう。病苦に加えて、様々な誤解や行き違いが生じる実生活は、彼にとってはあまり優しい処ではなかったのではないかと思っています。

死の数カ月前、彼は最後の力をふり絞るようにして一つの小品「狐」を書き記しますが、そこでは、人間の世界をも超えて狐になりきることで、純粋な母子の深い絆に達する親子の姿を描いています。南吉にとって、この世の世界は淡いものであって、誠の愛情はもっと遠い世界で初めて可能なことだと、密かに感じていたのかもしれません。

体調不良を理由に女学校を退職した南吉が、実家で寝たきりになっているところへ恩師の妻が見舞に来たとき、彼はほとんど声にならない声でこう言うのです。

「私は、池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ」

 死因は結核でした。そして、「狐」は南吉の最後の小石なって静かに沈んでいったのです。

「ごん狐」概要

この物語の主要な登場者は、キツネ(ごん狐)と、百姓の兵十である。一人ぼっちで孤独なキツネのごんが、同じ境遇の孤独な少年、兵十に近づき、心を交わそうとするがそれが遂に果たせることなく終わる話である。作者の策定過程においては、キツネを「権狐」としたり、「ごん」とするなど異なる表現が見られるが、定稿では「ごん狐」となっている。

総じて、「ごん狐」は、つぐないの行為を死と引き換えにしか認められなかったごんの悲劇を描いている。善意を持ちながらも、お互いの心を通わすことのできない悲しさ、もどかしさ、そして、ごんの死によってはじめて、心が通う瞬間が訪れるという、そのシーンが読む者に感動を呼びおこす作品となっている。以下もまた、その要約抜粋である。

◇◇◇◇◇

一                                                              

村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというお殿様が、おられたそうです。その中山から、少し離れた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、一人ぼっちの小狐で、羊歯(しだ)のいっぱい茂った森の中に穴をほって住んでいました。

そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。畑へ入って芋を掘り散らかしたり、菜種殻の、干してあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手に吊るしてある唐辛子をむしりとったり、いろんなことをしました。

ある秋のことでした。降り続いた雨が上がったので、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥(もず)の声がきんきん、響いていました。

ごんは、村の小川の堤まで出てきました。ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。

「兵十だな」と、ごんは思いました。

兵十はぼろぼろの黒い着物をまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきり、という網をゆすぶっていました。しばらくすると、兵十は、はりきり綱の一番うしろの、袋のようになったところを、水の中から持ち上げました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木切れなどが、ごちゃごちゃ入っていましたが、でも、ところどろこ、白いものがきらきらと光っています。それはうなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一緒にぶち込みました。そしてまた、袋の口をしばって、水の中へ入れました。

兵十はそれから、びくを持って川から上がり、びくを土手に置いといて、何を探しにか、川上のほうへ駆けていきました。

兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中から飛び出して、びくのそばへ駆けつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんは、びくの中の魚をつかみ出しては、川下の川の中に目がけて、ぽんぽん投げこみました。一番しまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬると滑りぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中に突っ込んで、うなぎの頭を口にくわえました。

うなぎは、キュッと言って、ごんの首へ巻きつきました。そのとたん、兵十が、向うのほうから、「うわア、盗人狐め」と、どなりたてました。ごんは、びっくりして飛びあがりました。うなぎをふり捨てて逃げようとしましたが、うなぎは、ごんの首に巻きついたまま離れませんでした。ごんは、そのまま横っとびに飛び出して一生懸命に、逃げていきました。

十日ほどたって、ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内がおはぐろをつけていました。鍛冶屋の新兵衛の家の裏を通ると、新兵衛の家内が髪をすいていました。

ごんは、「ふふん、村に何かあるんだな」と思いました。

「何だろう、秋祭りかな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮に幟(のぼり)が立つはずだが」

そんなことを考えていると、いつの間にか、表に赤い提灯のある、兵十の家の前にきました。その小さな、壊れかけた家の中には大勢の人が集まっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭いを下げたりした女たちが、表のかまどで火を焚いています。

「ああ、葬式だ」

と、ごんは思いました。

お午(ひる)がすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんの陰に隠れていました。やがて、白い着物を着た葬列のものたちがやって来るのがちらほら見え始めました。

兵十が、白い裃(かみしも)をつけて、位牌をささげています。いつもは赤いさつま芋みたいな元気のいい顔が、きょうは何だかしおれていました。

「ははん、死んだのは兵十のおっ母だ」

ごんは、そう思いながら頭をひっこめました。

その晩、ごんは、穴の中で考えました。

「兵十のおっ母が、床についていて、うなぎが食べたいと言ったに違いない。それで兵十は、はりきり網を持ち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎを盗()ってきてしまった。兵十は、おっ母さんにうなぎを食べされることが出来なかったのだ。…ちょッ、あんないらずらをしなきゃよかった。」

向うへ出かけますと、どこかで、鰯を売る声がします。と、弥助のおかみさんが裏口から、「いわしをおくれ」と言いました。いわし売りは、かごを積んだ車を道端において、ぴかぴかに光るいわしを両手でつかんで弥助の家の中へもって入りました。ごんは、そのすきに、かごの中から5,6匹のいわしをつかみ出して、もと来た方へ駆けだしました。そして、兵十の家の裏口から家の中へいわしを投げこんで、穴へ駆けもどりました。

ごんは、うなぎの償いに、まず一つ、いいことをしたと思いました。

つぎの日には、ごんは、山で栗をどっさり拾って、それを抱えて兵十の家へ行きました。裏口から覗いて見ますと、兵十は、午飯(ごはん)を食べかけて、茶碗を持ったまま、ぼんやりと考えこんでいました。その兵十の頬っぺたにかすり傷がついてます。どうしたんだろうと、ごんが思っていると、兵十が独り言をいいました。

「一体、だれが、いわしなんかおれの家へ放りこんでいったんだろう。おかげでおれは、盗人と思われて、いわし屋のやつにひどい目にあわされた。」

ごんは、これはしまったと思いました。それでも、そっと物置のほうに回ってその入り口に栗を置いて帰りました。

つぎの日も、その次の日も、ごんは、栗を拾っては、兵十の家へ持っててやりました。栗ばかりでなく、松たけも2,3本持っていきました。

四、五

月のいい晩でした。ごんは、ぶらぶらあそびに出かけました。中山さまのお城の下を通って少し行くと、細い道の向こうからだれかが来るようです。ごんは、片隅に隠れてじっとしていました。それは、兵十と加助というお百姓でした。

「そうそう、なあ加助」と、兵十が言いました。

「おらあ、このごろ、とても不思議なことがあるんだ」

「何が?」

「おっ母が死んでからは、だれか知らんが、おれに栗や松たけなんかを、毎日くれるんだよ」

「ふうん、だれが?」

「それがわからんのだよ。おれの知らんうちに、おいていくんだ」

ごんは、二人のあとをつけて行きました。

「へえ、変なこともあるもんだなア」

(今度は、その帰り道のこと)

兵十と加助はまた一緒に帰っていきます。ごんは、二人の会話を聞こうと思ってついていきました。お城の前まで来たとき、加助が言いました。

「さっきの話は、きっと、神様の仕業だぞ」

「え?」

と兵十は、びっくりして加助の顔を見ました。

「どうも、そりゃ、人間じゃない、神さまだ。神様が、お前がたった一人になったのを憐れに思わしゃって、いろんなものを恵んで下さるんだよ」

「そうかなあ」

「そうだとも、だから、毎日神様にお礼を言うがいいよ」

「うん」

ごんは、へえ、こいつはたまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを持って行ってやるのに、その俺に礼を言わないで、神様にお礼を言うんじゃア、ひきが合わないなあ、と。

そのあくる日も、栗を持って、兵十の家へ出かけました。ごんは、家の裏口からこっそり中へ入りました。そのとき兵十がふと顔を上げると、狐が家の中へ入ったではありませんか。この間、うなぎを盗みやがったあのごん狐めがまたいたずらに来たな。

「ようし」と、

兵十は立ち上がって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。そして、足音をしのばせて近寄って、戸口を出ようとするごんを、ドンと撃ちました。

ごんは、ばたりと倒れました。兵十がかけより、家の中を見ると、土間には栗がかためて置いてあるのに気づきました。

「おや」と兵十は、びっくりしでごんに目を落としました。

「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」

ごんは、ぐったりと目をつぶったまま頷(うなず)きました。兵十は、火縄銃をばたりと、とり落としました。

◎◎◎◎◎

南吉は、短篇(コント)という文学ジャンルを編み出したフランスの作家シャルル・フィリップのことをとても気に入っていた。彼は自身のことを綴ったエッセイの中で、こう語っている。

「私は、フィリップのことを考えだすと限りがない。好きで好きでたまらないから。いつまでも、考えていてもいやにならない。」(旧かなを現代文に変えてある)

フィリップは、片田舎の小さな町で、木靴工の子供として生まれ、街の貧しい人たちと一緒に育った。彼の文学的感受性は、それらの人々を生涯忘れることなく、自らの作品に彼らを登場させることを止めることもなかった。

フィリップは、とある日刊紙に発表した短篇を、それぞれ24篇ずつ編集した二つの短編集にまとめている。『小さき町にて』と『朝のコント』がそれである。このうち、『小さき町にて』が、彼の故郷の町を舞台にした市井の人々の風景を描いたものである。その町の人々に対する優しい眼差しで描かれた「小さな世界」を、南吉も好きだったのであろう。彼もまた、自らの住んだ「小さな村」について、書き綴っていくことになる。それも、人々だけではなく、動物や些細なモノにまで及んでいて、その物語る世界は、横に静かに大きく広がっている。

そして、新見南吉は、自らの作品を「こじんまりした物語」と呼んだ。わずら29歳の短い生涯に書かれた童話童謡を中心とする作品を、彼はそう呼んだ。

学生時代を東京で過ごした後、病と治療のため田舎に戻った南吉は、1937年の春に、次のような言葉を綴っている。

「こんな風景は、以前ちっとも自分の感興を起こさなかったが、近頃は、こんなありふれた身近なものを美しいと思うようになった。ごく平凡な百姓たちでもよく見るていれば誰もが画いたこおtのないような新しい性格を持っており、彼らの会話にはどの詩人も歌わなかったような面白い詩がある。」

南吉は、その翌年に安城の高等女学校に職を得て、生まれ育った村を描いて童話作家の道を歩み出すのである。

 

注)「赤い鳥」

子供のための童話雑誌。1918年(大正7)7月に創刊され、一時休刊したが、1936年(昭和11)8月まで196冊を刊行した。主宰者は夏目漱石門下の小説家、鈴木三重吉で、小説家としての行き詰まりを児童文化運動に打開すべく『赤い鳥』を創刊、彼の後半生はこの童話雑誌の編集に捧げられた。『赤い鳥』は大正期の児童文化運動におけるもっとも重要な雑誌であり、五つの大きな役割を果たした。第一は、明治期の前近代的な児童読物を克服して近代的、芸術的な童話を生み出したことで、芥川龍之介の『蜘蛛(くも)の』、有島武郎の『一房の葡萄』、小川未明の『月夜と眼鏡』などの童話がそれである。第二は、北原白秋西条八十らの詩人に加え山田耕筰、成田為三らの作曲家の協力も得て新しい童謡の花を咲かせたこと。第三は、清水良雄、鈴木淳(1892―1958)、深沢省三(1899―1992)など健康な美しさにあふれた童画を開拓したこと。第四は、久保田万太郎秋田雨雀らを書き手としてモダンな童話劇を試みたこと。そして第五は、読者である子供たち自身のつくりだす文化としての綴方、児童自由詩、児童画を開発したことである。創刊50周年にあたる1968年(昭和43)と1979年の二度にわたり、日本近代文学館より全冊が復刻されている。[上笙一郎]<小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)>

 

ウクライナ侵攻という、出来事をどう読み取るか?

―O君への手紙

ウクライナ侵攻という、この出来事をどう読み取るか?

O君、

君の返事を読んで、僕は反論を試みようとする前に、思わず悲しみに似た感情に囚われている自分を感じていました。それはウクライナ侵攻のことよりも、ずっと手前のところで君の思考が閉じていることに強い失望を感じたせいでもありました。有能な官吏としても“成功”した君が、存外に素朴な思考に囚われて、世界を見るその眼が恐ろしく無邪気なことに僕はまず驚いたのです。

 

君は、僕がバイデン米大統領の一連のメッセージの中に、その問題点を指摘した途端、いきなりアメリカを非難する者は<左派である>とか<所詮、〇〇党は…>とか、あたかもイデオロギーの反対側の声であるかのように語り始めたのです。それは全くウクライナ事件とは無関係にアメリカをひたすら擁護するだけでなく、それとアメリカの傍に身を寄せるばかりの日本の政治の貧しさをも弁護する論述とつながっていたのです。そして、肝心の出来事、つまりウクライナ侵攻については政府の公式見解そのものを繰り返して、“悪の象徴”と化したロシアを非難するだけにとどまったのです。

最初に断っておきますが、僕はこのたびのウクライナ侵攻は非難すべき事柄であり、ロシアはその責めを負うべきだと考えています。それは、戦争はいつでも非人道的であるということが第一ですが、それとともにこの侵攻には正当性が一切ないということ、その論理が、国際社会が築き上げてきた国際法上のルールを無視したものであることもその理由の大きな背景ともなっています。この後者の「理屈」面については、おいおい語っていくつもりです。

 僕が言及したのは、そのことを当然の与件として、この予測された出来事を回避する手立てを十分に行使することも出来なかった要因についてのことだったのです。

 

一般に、政治の世界で起きる出来事についてはそうでありますが、殊に国際政治の出来事を語る際に、僕たちが常に気をつけておかなければいけないことの第一は、“出来事をあたかも自然現象のようにして語ること”の罪の深さについて決して忘れはいけないということです。

実際的なパワーのせめぎ合いの中で生じる政治的な出来事は、どのようなものであっても、それは不断に、国際関係をその底層で支えるシステム(例えば、国際法や国際機関など)とそれを運用する政治力学の相克の中で生まれているものであって、仮に、一方が<悪>に見えて、他方に<正義>があるような場合にあっても、出来事の発生の要因は常にその両者の決断と行動選択に依存しているのです。

それも、後でも触れるつもりでいますが、同じ行動選択に見えるような場合にあっても、その選択の道筋や論理の立て方の違いによって、長期的にどのような効果の相違が生まれるのかも、よく観察しておかなければなりません。というのも、その選択が、目前の出来事の処理にとどまらず、それが、より望ましい、つまり、それ以後のより安全で平和な国際社会を強めていく方向に作用するのか、それとも、それが短期的にはともかく、長期的には逆効果をもたらすのか、それを冷静に見極める鋭い分析力と洞察力が、専門家たちや職業的ジャーナリストたちはもちろん、時代をリードする政治家に最も求められる資質でもあると思うのです。その具体的ケースについては、また後程に触れるつもりでいます。

そうした幾分複雑な思考回路を一切飛ばして、善か悪か、右か左か、あるいは西か東か、といった安易な思考図式で目の前の歴史的な出来事を「理解」したつもりになることほど、軽率で安易なことはないのです。世界はそんなに薄っぺらには作られていないのです。

 

一般的に流布されている情報と初歩的な教養だけで世界の出来事と理解したつもりになる自称知識人やエリートたちの中には、目前の生きた出来事をあたかも自然現象と同じく理解し、あとは一通りの解釈を加えるだけだと思い込んでいます。要するに、政治の世界の中で生じた出来事を眺めるのに際して、自分の眼で物事を冷徹に、つまり予見を排して観察する努力と、それを自らの思考力と判断力を以て鍛え上げた見取り図の中に描いてみせるという思考態度に著しく欠けているのです。しかも、それらの出来事が国際政治のダイナミックな、それもし烈な抗争の結果として生じていることにも思考をめぐらすこともないのです。そして、その与えられた二項図式の認知枠に頼って「善悪」を判断したつもりになっているのです。僕に言わせれば、こうしたことはまさにある種の思考停止に思えるのです。

 

O君、

僕がまず君の言説に感じたのは、その種の思考停止にも似た、実に他愛もない一般的な教養に依存するだけの知識で目の前の生きた出来事を理解したつもりになって、そこに満足しているという、その姿でありました。そこに、批評する精神も冷静な洞察力も全く見当たらないように、僕には感じたのです。

 

ところで、いま僕たちが目撃しているウクライナ侵攻という出来事は単なる自然現象とはまったく異なるものであるばかりでなく、ロシアやウクライナはもちろん、主にNATO諸国やアメリカの行動選択にも大きく依存している出来事なのです。実際、攻める側のロシアも、これらの国々や政治家たちの判断や備え、あるいはメッセージを重要な判断材料として、一連の決断を下し、行動を選択してきたと言ってよいでしょう。

 にもかかわらず、アメリカのバイデン大統領は、ロシアのウクライナ侵攻の直前に、メディアに向かって「まもなくウクライナ侵攻が始まるだろう」と、まるで気象予報士のようにコメントしたのです。僕が、この報道を知って驚いたことは言うまでもありません。この大統領は、この出来事をあたかも真夏のアメリカ大陸を襲うあのハリケーンでもやって来るようにして語ったのです。それは大統領だけでなく、報道官や国務長官にまで一貫しているのです。それどころか、それに先立って行われた米ロ首脳会談の席で、何と、「米国は軍事介入するつもりはない」とまで言い切って、ロシアを勢いづかせもしたのです。

一般に、政治力学、とりわけ軍事的な拮抗が物事の行方を左右するとき、政治の世界では“曖昧戦略”という選択肢が効果を発揮するとされています。例えば、核を行使しようする国に対して、時にこちらがそれを上回る攻撃力を行使する可能性を示唆することによってそれを抑止するというのが通常ですが、このため、核を搭載した原子力潜水艦がどの海域を航海しているのかを曖昧にすることによってその効果を増幅させる場合などがそれに当たります。それは必ずしもそうした行動に出ることを事前に約束するという意味ではなく、緊張した力関係が存在する場面での、いわば「威嚇効果」を狙ったものです。

もし、米国がロシアのウクライナ侵攻を少しでも阻止する意思があるなら、それをあらかじめ封印するような発言あり得なかったと思うのです。しかも、バイデン大統領は、いよいよロシアが侵攻開始となった時点で、「侵攻が小規模でなかったら、強力な経済制裁を行う」と、あたかも一定の侵攻それ自体を傍観するかのようなコメントまでしたのですから、実に奇妙な光景として僕には映って見えたものです。

 

いずれにせよ、このロシアによるウクライナ侵攻という出来事を理解するためには、その歴史的文脈や国際政治上の先例を咄嗟に思い浮かべ、それらとの対比で物事を読み取る資質が求められるはずです。

 

O君、

僕が君に僕の意見を送った時、そうした文脈と照らし合わせて、必要なコメントをしていたのです。ところが、君は、ほとんどそうしたことにも思いを馳せることなく、欧米の側につくか、それともロシアかみたいな二項図式でもって、僕を非難しようとしたのです。

 

しかし、これは、君だけではありませんでした。

ウクライナ侵攻発生前後において、報道番組で披歴されたコメントに中には、一部の例外を除いて、歴史的文脈にも配慮しつつ、いわば比較史的な視点に立った、奥行きある言説を聞くことはあまりありませんでした。それほどに、ジャーナリズムや専門家と自称するコメンテーターのあまりにも“軽い解説”にも僕は驚き、深い失望を覚えていました。

そこで、以下に、それらのコメントに何が欠けているのか、そしてウクライナ侵攻について思考するということはどういうことなのか。僕が考えるところのものを、5点ほど挙げて提示してみたいと思います。

ウクライナの選択肢と難題について

第一は、とあるテレビ局のニュース番組で、自称ロシア・東欧地域研究のスペシャリストと名乗るコメンテーターが、こんな発言をしているのを聞いて、僕は思わず叫んだものでした。

その女性は、こう言ったのです。

ウクライナの大統領はNATO加盟を求めているが、これに対抗する何某氏は、中立を唱えており、ロシアの後ろ盾を受けていると言われている」[ただし、これは筆者が聞き取った要旨]

僕には、その名指しされた人物が実際にどのような人間であるのか十分な情報を持ち合わせていないので、この真偽について判断する資格はないのですが、彼女の語りに、「中立」という選択肢は当初から外されたままになっていることに驚いたのでした。

仮にも、ロシアや東欧の専門家と称するのであれば、ロシアと直接国境を接している国々の実例を挙げて、それを論じる地政学的な素養を持ち合わせていなければならいなはずですが、そこにそうした言及は一切見受けられなかったのです。

と言うのは、僕はこの話を聞いたとき、咄嗟に、第二次大戦直後のフィンランドの歴史的体験を思い出していたからです。

ヨーロッパ北方の「小国」であるフィンランドは、当時のソ連との激しい戦争を戦って国家の独立を維持するという稀有な体験を持った国ですが、如何せん圧倒的な軍事力を誇る当時のソ連に優位な講和を結ぶことになります。それでも、第二次大戦後、そして世界とヨーロッパが東西冷戦に突入した後も、ソ連との間に安全保障上の協定を結んで、西にも東にも与しない「中立」を維持し続けたという経験もしくは「実績」を持っていたからです。この当時、いわゆる西側の知識人や政治家たちが、冷戦思考(西か東か)そのままに、そのぎりぎりの選択をも揶揄してロシア(旧ソ連のこと)に追従する(ようにも見える)の国民の選択を「フィンランド化」(大国に従属する態度の意)と嗤ったほどでした。

だが、およそ千数百キロの長い国境を接するフィンランドにとってロシアとの関係を如何に抑制的なものにするかが極めて現実的かつ切実な課題でした。それが、いわば”生活の知恵”のようにして、国家としての「自立」と引き換えに、西側への参入を回避しつつ「中立」の道を選択するという態度を採らせたのです。この頃のフィンランドはまた、実際に経済的にもソ連との結び付きが強かった。こうして、近隣のポーランドバルト三国がロシアの勢力圏である「東欧」に組み込まれていったのに対し、フィンランドは「中立」を維持し続けることに成功したのです。

こうした歴史的事例にも言及することもなく、あたかもNATOに与するか、それともロシアに屈するかの二者択一が議論の焦点であるかのような印象を与えてしまっていたことに、僕は驚き、また落胆すらしていたのです。

旧ソ連のなかでも軍事的要衝にも位置し、しかもロシアの戦略物資でもあるエネルギーの領域でも重要な拠点となってきたウクライナには当初から二つの選択肢があったと思えるのです。それは、欧州の集団的防衛機構であるNATOに加盟するか、それともロシアともNATOとも軍事的な連合を組まない「中立」の道を選ぶかの、二つの選択肢です。

しかし、ウクライナ国家の現状を覗き見れば、これとても簡単な選択肢ではないことが分かります。

実は、この問題については、ウクライナという国家は自らの中に、当時のフィンランドは別の意味での強い難題を抱えています。と言いますのも、ウクライナは西部と東部の間で反ロシアと親ロシアの両勢力が拮抗してしばしば激しい戦闘をも交えた内紛を生じている国であるからです。国連の調べでは、すでにこの紛争で、ウクライナ東部でおよそ5000人もの死者を出すほどだったのです。この新興の国家はナショナル・アイデンティティすら未だに曖昧な道を歩んでいるのです。1960年代のアフリカでの旧植民地からの独立国の例のように、この国も宗主国(大国)の恣意によって人工的に作られた国家でもあって、歴史も言語も宗教すら異なる人々が混在したまま立ち上げられた国の一つなのです。それが、政府軍と分離派勢力の軍との衝突までもたらしていたのです。その国にいきなり、<あれかこれか>を迫ることすら困難なことは火を見るより明らかなことであろうと誰もが推測できるような事態です。

もし賢明な為政者がいたとするなら、この混沌とした状況をどのようにして<一つの国民>としてまとめ上げていくことができるのか、苦悶しつつも、反ロシアか親ロシアかといった二者択一的な選択肢以外の道を模索したことだろうと思うくらいです。こうしたことに想いをめぐらすこともなく、ひたすらに二百年以上も前に国民国家を立ち上げたヨーロッパの国々と同じようにしかこの国を理解していなかったとすれば、自ずとその判断は正確さを欠くものとなるに違いありません。これは、「自由主義の側に与するか否か」といった素朴な思考で捉えられるものでもないのです。なぜなら、そこではいわばネーション・ステイト・ビルディングという、古典的ながらも、とても困難な課題の克服それ自体が問われている状況だからです。

 僕は、この国には、何よりもまず、あれかこれかという前に、どの大国にも左右されずに、長い時間をかけて国造りをしていくという「大事業」が残されていると思っています。

なぜ、NATOは動かなかったのか?

二つ目は、なぜNATOウクライナ侵攻に対して軍事的介入をしないのか、という点にかかわるものです。これもまた、自称専門家と称するコメンテーターがテレビの時事報道の中で応えていたことですが、これにも僕は再び驚いたものでした。

彼及び彼女は口を揃えて、「それは、ウクライナがまだNATOの加盟国ではないからだ」と言ったのです。むろん、ここでもキャスターと言われるテレビ局の人物もそれ以上そのコメントに質問することはありませんでしたが、これも過去の歴史をひもとくならば、<それが何を語っていないのか>、すぐにも分かることでした。

と言うのも、NATOは東西冷戦構造が崩壊した直後、国連の正式な手続きすらも経ないまま、ヨーロッパ南部に位置するコソボ地域を有するユーゴスラビアにいきなり空爆を加えたという歴史を有しているからです。仮にNATOを構成する主要国にその意思があれば、たとえ域外であっても武力を行使することが可能だったのです。この時の実際の行動選択の是非についてはここでの話題ではないので省きますが、このことを念頭に置くならば、コメンテーターはあのような素朴な回答で事態を解釈したように振る舞うことはできなかったはずです。

問題は、NATO加盟国であるのかどうかにあるのではなく、NATOとしての行動を起こすことがそれ自体として困難であったことにも起因しているとのだと僕は見ています。バイデン政権が誕生する直前までのトランプ時代にそれは極限まで広がっていたのですが、ヨーロッパの主要国とアメリカの間にNATOをめぐって距離が生じていて、フランスなどはNATOについて、アメリカが自国の都合にあわせて舵取りを左右する現状を打破したいとさえ考えるようになっておりました。

しかも、その当のアメリカ自身が、アフガニスタン戦争の後遺症もあって、内向きの国内世論に顔を向けていたのであって、当初から武力介入は選択肢から外されていたのだと見られています。

そこに加えて、ロシアとの経済関係の繋がりの相違がヨーロッパ諸国内でも意見を統一させることを困難にしていたことも作用していた傾向が見受けられます。NATOは、少なくとも武力の行使についてはまとまらなかったのだと僕は見ています。そして、これが真相に近いと思っています。

そうした政治的な現状に深く切りこむことなく、あたかもウクライナNATO非加盟であることが制約であったかのように語ることは、政治の現実に対する考察や分析なくして素朴な見解を披歴するようなものです。もし、ロシアがウクライナ侵攻し、戦闘状態に陥れば、かならず悲惨な結果がもたらされるであろうことは、誰にも予測がついたことです。それにもかかわらず、その軍事的侵略行為を未然に防ぐ行動選択をNATOは回避したのであって、これはウクライナの人々からの期待にも応えるようなものではなかったと僕は思っています。先に引用したアメリカのバイデン大統領の発言もこうした文脈で読み取ることができるでしょう。プーチン氏のロシアは、そこをよく見てあの暴挙にでたのかもしれません。

他の選択種はなかったのか?

この問題に付属して、もう一つ、ウクライナ侵攻に関して見逃してはならない事柄があります。それが3つ目の焦点です。それは、二度にわたって交わされたミンスク合意の件です。

2014年のウクライナ紛争の直後、同年9月に、ベラルーシの首都ミンスクで、欧州安全保障協力機構(OSCE)が介在して、ロシア、ウクライナ、それに未承認の「ドネツク民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の4者が著名した停戦合意が署名されています。でも、これはあまり機能しませんでしたので、2015年になって、今度はフランスとドイツが仲介するかたちで、より包括的な合意が交わされます。

その内容は、

 〇ウクライナと分離独立派双方の停戦の合意

 〇停戦のOSCEによる監視

 〇ウクライナ・ロシア間の安全地帯の設置とそのOSCEによる監視

 〇ウクライナ領内における不法武力勢力や戦闘員・傭兵等の撤退

 〇ドネツク及びルガンスクの特別な地位に関する法律の採択、両地域での選挙の実施

などです。

ところが、2019年に大統領に就任したゼレンスキー氏は、これを反故にしようと訴え始めたのです。彼は、2021年の訪米の際にもこのことをバイデン米大統領の申し出たほどでした。しかも、国内では分離独立派との交戦を開始し、あまつさえロシアに対しても挑発的な発言を繰り返したのです。そこには、こちらにはNATOがついているという気負いもあったように見受けられます。

ドイツやフランスはミンスク合意を尊重するという姿勢でしたが、ゼレンスキー氏の行動選択は、まもなくロシアの強行を誘因することへとつながっていったのです。本来なら、アメリカも含めて、このミンスク合意を守らせる働きかけを行う場面で、バイデン米大統領はロシアがウクライナ国境近辺で大規模な軍事演習を始めた際に、その行動を「侵略行為」だと激しく非難するメッセージを発信してゆくことで、そうした一触即発の状況に油を注ぐ形になってしまったのです。一体、何のためにその合意はなされたのでしょうか。

僕は、何度も繰り返しますが、ロシアに如何なる口実があったにせよ、他国を武力で侵攻する行為を断じて否定しています。そしてその憤りは、それらの悲惨なシーンが映し出されるたびに深く、強くなっています。

しかし、そうした事態をいかにして阻止するかは、それを止める側の行動選択にも深く関わっているのです。こうした点から見れば、ウクライナのリーダーも、とりわけアメリカも、そうした事態の回避に十分な行動選択をしたようには見えないのです。今日になって、僕たちが毎日テレビ報道やネットで覗き見るウクライナ国民と若いロシア兵士の悲惨は、こうした国際政治の力学の顛末でもあるということを片時も忘れてはならないと思っています。

再び、ウクライナNATO加盟問題について

4つ目は、再びウクライナNATO加盟問題についてです。

おそらくヨーロッパの主要国やアメリカがウクライナの首脳陣に対してNATOへの加盟を受け入れることを促し、ゼレンスキー大統領もそれを信じて行動し始めたのでしょう。

プーチン氏のロシア側は、それだけは止めさせたいと思っていたはずです。ロシアに敵対的な政権を排除できないにしても、先に紹介したフィンランドのようにせめて「中立」であってほしいと考えていたに違いありません。だからこそ、あのミンスク合意にも同意したのでしょう。ミンスク合意は、少なくとも、OSCEによる監視という仕組みを取り入れることによって、当面は「中立」に似た効果を期待できるものだったからです。

これは、あのキューバ危機の際にアメリカがソ連の行動に異様なほどの危機感をもって対処したことを想像すれば理解できることです。ロシアにとって自国の領域が接する地理的なゾーンで、対峙する勢力の軍事的拠点が造られることを何よりも回避したいと考えたのであろうと思います。

では、どうしてこんな事態にまでなってしまったのでありましょう。その背景には、以下の二つの事柄が絡んでいると僕は見ています。

その一つは、先も触れましたミンスク合意をウクライナ側が履行する気もなかったことです。そして、もう一つ、ウクライナNATO加盟問題に絡む経緯が決定的な要素として現れてきます。

その前に、いくぶんアメリカが主導するNATOサイドの一連の軍事演習のことにも触れておかねばなりません。なぜなら、それがロシアの、あの軍事演習と侵攻へと繋がっていると思うからです。

NATOはこれまでも何度もウクライナを交えた合同軍事演習を実行しています。

2017年には、9月11日から23日までの間、15カ国約1650名が参加する合同軍事演習を行っています。アメリカの欧州軍は、これを、NATOウクライナの連携を強める訓練が中心だとまでコメントしているほどです。この時点で、ロシア側は、協力の姿勢をみせなくなり、独自の動きを強めていくことになります。

ロシアの侵攻が始まる前年の2021年6月28日にも、NATOは、黒海で合同軍事演習を開始し、アメリカもこれに加わってウクライナから軍艦約30隻と航空機40機が参加する演習をおよそ2週間続けたのです。

そして、2021年10月、バイデン米大統領が主導して、NATOを中心とした15カ国6000人規模の多国籍軍による軍事演習を、ウクライナを交えて実施しています。10月23日には、ウクライナに180基の対戦車ミサイルシステム、シャベリンを配備しています。このミサイル配備は、バイデン氏がオバマ政権の副大統領時代に提案していたものでした。そして予想通り、これに反応して、ロシアのプーチン大統領が10月末からウクライナとの国境沿いに大規模な軍事演習を始めたのです。

にもかかわらず、驚くべきことに、バイデン氏は、プーチンに首脳会談を呼びかけてその実現に成功すると、会談直後の12月7日、「ウクライナで戦いが起きても、米軍派遣は行わない」と公言してしまったのです。そのことはすでに述べた通りです。

バイデン氏は、副大統領の間(2009年1月20日―2017年1月20日)、6回もウクライナを訪問しています。それも訪問のたびに息子のハンター・バイデン氏を伴い、そのハンター氏が2014年4月にウクライナ最大手の天然ガス会社ブリマス・ホールディングスの取締役に月収500万円の高収入で就任したことが発覚していることはすでに周知のことで、大統領時代のトランプ氏がこれを暴こうと、脅しを交えてウクライナの大統領に直接圧力をかけたことでも知られています。ま、このことは特に詳細に及ぶ必要はないでしょう。

しかし、これにもまして見逃せないことは、彼が副大統領をしている間に、当時のポロシェンコ・ウクライナ大統領を説き伏せて、ウクライナ憲法に「NATO加盟」を努力義務として聞き入れさせたことです。

<若干の経緯>

2017年6月8日 「NATO加盟を優先事項にする」との法律を制定

2018年9月20日 「NATOEU加盟をウクライナ首相の努力目標とする」旨の憲法改正法案を憲法裁判所に提出する。

2018年11月22日 憲法裁判所から改正法案に関する許可が出る。

2019年2月7日 ウクライナ憲法116条に「NATOEUに加盟する努力目標を実施する義務がウクライナ首相にある」旨の条文が追加された。

つまり、アメリカは、ウクライナの選択肢を、NATO加盟という一本に絞らせる役割を果たしたのです。

このようなアメリカ側の動きを一つの背景として、ロシアの軍事行動が活発化し、危機に発展する様相が色濃くなってきていました。ところが、実際にウクライナ侵攻が開始されたにもかかわらず、NATOのストルテンベルグ事務総長が2月24日の記者会見で、東欧の部隊増強の方針を示す一方、「ウクライナには部隊を派遣しない」と述べたのです。NATO事務総長のこの発言は、すでにそのような発言を行っていたバイデン氏の見解をなぞる形のものでした。

ところが、バイデン米大統領は、記者団らの「なぜ、部隊の派遣を行わないのか」という質問に応えて、ウクライナに米軍を派遣しない理由に「ロシアは核を持っているから」とも発言してしまったのです。これが、何を意味することになるか、すぐにも想像がつくことでしょう。この発言が、核を持つ中国が尖閣列島や台湾を巡って武力侵攻しても米軍は参戦しないということにもなろうと思われるが、どうでしょうか。

 それはともかく、ロシアと間に長い国境で接するばかりでなく、自国内で親ロシア派と反ロシア派とが抗争を繰り返しているウクライナに対する地政学的、国内政治状況を十分に配慮せず、徒にロシアを刺激することを続けたアメリカの行動選択をどう理解すればよいのか戸惑う話であろうと思うのです。それも、自らは「武力関与はしない」として、ウクライナにその責任を委ねてしまったのです。

国連憲章の精神とルールに立ち返って

最期の点になりました。

僕には、わけても、ロシアのプーチン氏が、ウクライナ侵攻に際して、「ロシア人住民の安全を守るため」のやむを得ざる選択であり、これはいわば「自衛のための闘い」だと発言していたことが気になっています。

話は少々飛びますが、このプーチンの発言を聞いていて、僕には、あのアメリカの湾岸戦争イラク戦争のことが思わず浮かび上がってきたのです。

同じアメリカが起こした戦争でも、ブッシュ父の湾岸戦争とブッシュ息子のイラク戦争では全く質が異なります。その最大の相違は、前者が一通り国連の正規の手続きを経た、いわば国際法上でも合法的な武力の行使であったのに対し、後者はそれを無視した武力行使であったということです。だから、フランス、ドイツ、ロシアがこれに反対したのです。ヨーロッパおいてはブレア氏のイギリスが即座に参戦を決めて、やがて同国内でもブレア首相を「アメリカに尾をふる犬」だと揶揄されたことは記憶にも新しいことです。

しかし、問題はここから先です。その時、正当性を失ったブッシュ・ジュニアアメリカがその戦争を合理化するために持ち出したのが、「先制的自衛権」論だったのです。これは、仮にその相手国が直接アメリカに攻撃を加えていない場合であっても、アメリカの国家と国民に脅威を与えるものには、「自衛」の名の下に攻撃を加えるのは当然であり、かつアメリカはそれを必要とする時には単独でも実行すると、大統領直属の報告書で「宣言」したのです。

もうお気づきだと思いますが、プーチンはこれをそっくり真似たのです。ここにこそ、今回の出来事の深い意味が潜んでいると僕は考えるのです。

一体に、あの大戦の想像を絶する悲惨からの再出発となった国際連合憲章は、二つの原則から成り立っています。

注)ちなみに、あの大戦では、軍人・民間人合わせて、6000万人から8500万人の犠牲者を出したとされています。当時のソ連ナチス・ドイツに蹂躙されたポーランドでは、実に人口の2割が失われたとされています。

 〇国際紛争解決の手段としての国による武力の行使の禁止

 〇自衛の名の下のすべての戦争(武力行使)の原則禁止

戦後復興計画と併せて、戦争のない国際秩序を形成するために、当時の主要国が誓ったのは、何よりも自衛権なるものを封じ込めることにありました。なぜなら、ナチス・ドイツ大日本帝国も、自衛の名の下に戦線を拡大し、あの狂気に満ちた悲惨な戦争を引き起こしたからです。ですから、当初は国連憲章の草案段階にあっては自衛権なるものは一切ご法度になっていたのです。ところが、現実の憲章には「固有の自衛権」という言葉は入っています。

このことから、僕は私事ながらも、こんな場面があるとき生まれたことを思い起こしています。

ある研究会の席上で、国際政治・ヨーロッパ政治史を専門とする大学の教授がこうコメントしたのです。

国連憲章では、国家の『固有の自衛権』を認めている。なぜなら憲章にそれは書かれているからだ」と。

僕はこのとき、発言を求めて、こう切り返したのです。

「確かに、憲章第51条には『固有の自衛権』という文言が書かれている。しかし、この条文全体を読むと判るように、それには二重三重の制限が加えられている。第一に、それが直接的な攻撃を受けた場合の、いわば緊急避難的なものに限っていること、第二に、そうした行動をとる場合には直ちに国連に報告しなければならないとされていること、そして第三に国際機関がその紛争を抑止するための行動に出た時点で停止すること、その三つである。だから、憲章が認めているのは、いはば『制限された自衛権』であって、それこそが基本である」と。

そこには、いかなる場合であっても「自衛」に名の下で武力行使することは原則的に禁ずるという強い決意が潜んでいると、そう語ったのです。

それに、当初の原案になかった「固有の自衛権」なる文言が憲章に入ることになった背景には、大国の一つであり、連合国(戦勝国)でもあったフランスが、アメリカが主導する集団的安全保障への不信から、「それなら、国連に加盟することはできない」と不満を漏らしたという事情があったのです。その結果、いわば政治の妥協の方策としてこの言葉は新たに書き入れられたのでした。その言葉が入った瞬間、イギリスの代表が「それが自由に認められるなら、何のために国連をつくるのかわからなくなる」とまで言ったくらいでした。

それでも、ぎりぎりの選択の中で、憲章51条は、それに二重三重の縛りをかけることを止めなかったのです。

注)それからしばらくして、その研究会の席にいた知人が、その教授がある論説のなかで「制限された自衛権」という言葉を使っていたということを教えてくれました。

 

いずれにせよ、国際連合を立ち上げるまはでもちろん、その後も、国連を構成する国々はこの「自衛の名の下の戦争」を如何に封じ込めることができるかに最も腐心していたのです。

 

実は、国連憲章は、パリ協定やジュネーヴ協定のような「戦争の違法化」という用語を一切使用していません。この用語を使わず、代わって「武力行使の禁止」を掲げたのです。それには確かな理由があるのです。

あの大戦では、先に触れたように、侵略はいつも「自衛」の名の下に繰り返されてきました。その時の論理がことごとく、「これは戦争ではない。これは自衛のための活動だ」というものだったのです。ナチス・ドイツチェコスロバキア(当時)を侵略したときも「ドイツ住民を守る」ための自衛の行為だとされて、宣戦布告なき戦争に突入していったのです。だから、戦争の定義如何にかかわらず、国際紛争の解決の手段としての「武力の行使」それ自体を禁止したのです。それが「戦争の違法化」という曖昧な用語を回避する理由でもあったのです。

ブッシュ・ジュニア氏のアメリカは、「先制自衛権」論を打ち出すことによって、そのパンドラの箱を開けようとしているようにも読めます。そして、今日、プーチン氏のロシアにそのもう一つの逸脱を覗き見ているのです。こうした論理が通れば、国連憲章の精神とその条文はいとも簡単に捨て去られることにもなりましょう。そして、これが、僕が冒頭の部分で、目先の処理はともかく、その選択が長期的にどのような方向に及ぼしていくか、そのことを読み解く知的判断力が求められるといったのも、こうした文脈においてのことでした。

 

僕は、国連憲章という一片の文書がどんなに素晴らしくてもそれだけで世界の平和と安全が維持できるなどとは思っていません。それでも、もしこの精神と条文の内容に沿って世界の国々が行動するなら、そのときはじめて世界の平和と安全は現実的なものになるだろうと考えています。

要は、国政政治を動かす国々の意志と行動力にそれはかかっているのです。そして、それは、プーチン氏のロシアが侵攻の口実とした論理(「これは、自衛のためだ」!)を真っ向から否定するものでなければなりません。いかなる国も自衛の名の下に、国際法上の正規の手続きもなしに他国に武力を行使するようなことがあってはならないのです。

 

O君、

僕がこのように長々とお話したからと言って、今日目の前で繰り広げられている戦争の悲惨を本当の意味で理解したつもりになっているわけではありません。

 また、アメリカとEU諸国が連帯してプーチン氏のロシアに対する経済制裁を断行したり、ポーランドをはじめとる周辺国がウクライナからの避難民を大量に受け入れてその生活支援に当たったりしていることにも、不安とともに期待をもって連日その様子を見守っています。

ただ、ウクライナで起こっている悲惨は、当初から生じさせてはいけないことであって、それを回避するためのぎりぎりの妥協の策をもっと模索するべきだったと今でも思っています。それが何人であれ、いかなる国籍を持つ者であれ、その生活を破壊し、その生命を脅かし、あまつさえ殺戮にまで及ぶ行為を世界は引き起こさせてはいけないと考えるのです。その手前で止めることができるかどうか、それが問われていたのです。それは、決して自然現象にようにして語ってはいけないのです。

少なくとも、それは善悪の二元論で解釈して済ませる事柄ではなく、悲惨を回避するための政治の意志と現実的な技量の問題だと、僕は思うのです。それにしても少々、現実の政治の世界にそれに相応しい指導者が欠けているようにも僕には見えるのです。

 

O君、

僕がアメリカのバイデン大統領の行動選択や彼が発するメッセージに、幾分厳しい批評を行った背景には、こんな思いがあったのですよ。これらは、右とか左とかいったもので処理できる手合いのではないどころか、それを語る僕たち自身の自省の問題としても語られているのです。

 

2022年春

                                    O.M

松本清聴の映画講座8 「レオン」

 残業を終えると、もう時計は9時を回っていた。金曜日の夜、僕は、一人暮らしのマンションに戻る前に、ネオンが輝く新宿・歌舞伎町に立ち寄った。そして深夜の映画館に飛び込んだ。軽い疲れを癒すためにと、シリアスなものを避けて、軽快なものを観たいと思い、この作品に眼をとめた。

一人の精悍な男が、確実に、見事なまでの完璧さで殺しをする。場面はいきなりその無表情な殺陣シーンから始まった。そして難なく、男は相手のボスを追いつめていった。なんだ、かっこいいヒーローがスマートに敵をやっつける、安手のハードボイルド映画じゃないか、一瞬ぼくは無用な心配をしてしまったほどだ。リッュク・ベンソンの映画は、ともかくこうして僕の前でスタートした。だが、やがて、この作品があまたのアクション映画とはずいぶん趣向が違うことを知ることとなった。

 これは、華やかな大都市で、ゴミのように忘れ去られ捨てられてしまいかねない二人の奇妙な出会いが一瞬の輝きを残して消えていった物語である。たった、それだけの閃光=儚い夢を伝えるためにこの映画は作られたのだ。

 

 ニューヨークのリトル・イタリーに出入りする男レオン(ジャン・レノ)は、英語も満足に読めない移民であるが、寡黙にして、仕事を完璧に成し遂げる理想の殺し屋だった。他人との付き合いも避け、毎日を鉢植えの観葉植物だけを相手にひっそりと暮らしている。彼が日課としているのは、その植物に水をやることと、1日に2パックの牛乳を飲み、アパートの狭い一室で体を鍛えることだけだった。わずかに、イタリア・レストランを経営しながら殺しの手配師を密かに続けるトニー(ダニー・アイエロ)との連絡だけが彼の人間関係であった。

 そんな安アパートの同じ階に、マチルダ(ナタリー・ポートマン)の一家が住んでいた。マチルダは、家族からも疎まれる孤独な少女だった。煙草を吸うこの少女は、父からの暴力で生傷が絶えない毎日を過ごしていた。彼女は、日中はいつも部屋に入らず、廊下に連なる階段の上で、ひとり時間をつぶしていた。そして、ときおり、あの無表情な男が階段をのぼってきたときに、挨拶の言葉をかけるのだった。

 ある日、マチルダが街に買い物に出掛けて戻ってくると、悪徳麻薬捜査官の一味が、マチルダ一家の部屋に押し入っていた。商売道具の麻薬をくすねたと疑った奴らが、一家を皆殺しにやってきたのだ。父と母だけでなく、姉と幼い弟までが殺害された。その荒れ果てた部屋のドアの前を、買い物袋を抱えたマチルダがそっと通り過ぎる。恐怖の余り泣き出しそうになるのを必死にこらえながら、廊下の突き当たりに位置するレオンの部屋のドアを叩いて、助けを求めた。

「お願い。中に入れてちょうだい」

 女と遊ぶことさえ避けて、孤独を保ってきたレオンは、突然の訪問客に戸惑う。少女は悲壮な表情で彼に懇願した。そして、運命のドアが静かに開いた。

 プロとして、「女と子どもは殺らない」とのルールを守ってきたレオンだが、突然の小さな訪問客にすっかり困り果ててしまう。とはいっても、追い出すわけにもゆかない。しばらくかくまって欲しいと頼み込むマチルダの要請を断ってはみたものの、どうすることもできずに、奇妙な共同生活を始めるはめになってしまった。

チルダは、レオンに英語の読み書きを教え、ハリウッド映画スターのことも知らない彼の気を惹こうとして次々とその前で演技をする。そして、次第に自分の「居場所」を発見していく。レオンも、そうしたマチルダに父親とも恋人ともつかぬ感情を抱くようになっていった。

 現代社会では、血縁や地縁はもとより、組織を通じた人間のつながりをも超えて、もっと深く人間同士を率直に結びつける出会いを待っている孤独な人間たち、心を閉ざしたままの人間たちが超近代的なメガ都市の片隅に大勢たむろしている。それは、ニューヨークでもロサンゼルスでも、もちろんパリでも東京でも変わりはない。レオンとマチルダの出会いも、そうした都市の人間風景を見事に映し出している。

 レオンは初めて、大切な人のために生きる自分に目覚めていく。そして、とうとう、マチルダのために仕事をすることになる。だが、それはプロの殺し屋の世界を逸脱する行動であることを意味し、それが彼の運命を大きく狂わせていくのだ。あれほどまでに完璧に作られた男が、人間という生き物に触れ、心を動かし、情を通わせていったのである。生まれて初めて誰かのために生きたくなったと告げるレオンに、トニーはこの商売を続けさせることの限界をさとり、不安を抱く。 

家族からも疎外されていたマチルダだが、彼女を慕っていた4歳になる弟の死だけはやりきれないものだった。レオンを殺し屋と知った彼女は、弟の復讐を晴らすため、自分も殺し屋になりたいとレオンに懇願する。途方に暮れながらもマチルダとの共同生活を続け、殺しのテクニックをも教えるレオンであった。

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小さな少女マチルダとレオン

弟たちを殺した犯人を探していたマチルダは、それが麻薬取締局の人間であることを突きとめ、復讐のため、たった一人でそのオフィスに侵入する。が、逆に、その悪徳捜査官スタンフィールド(ゲイリー・オールドマン)に捕まってしまった。レオンは自ら麻薬捜査局を襲い、マチルダを助け出す。これが執拗な性格のスタンフィールドの怒りを爆発させることになった。雇い人のトニーを脅してレオンの居所をつきとめたスタンフィールドは百人を超える警官隊を出動させてアパートを襲撃する。トニーは、彼がどんなに案じても、この世界の掟を逸脱したレオンをこれ以上庇うことはできないと悟ったのだ。

 レオンと警官たちとのすさまじい闘いが切って落とされた。これが、とってもかっこいいんだな。たぶん、そのシーンを観た人たちは、あらためてレオンのプロ魂に惚れ込むと思うよ。それほど、この男は群を抜いた冴えを見せつけ、居並ぶ警官どもをたじろがせるのである。

 たが、所詮は多勢に無勢、次第に二人は追いつめられていく。とうとう最後の瞬間かと思われる場面にさしかかった。警官隊は銃撃隊による攻撃を諦め、重火器でドアを爆破する作戦に転じたのである。レオンはあくまでも冷静だった。ここを決戦場と決意した彼は、部屋の壁を打ち破り、換気口の通路からマチルダと観葉植物の植木鉢を部屋の外に送り出すのだった。泣き叫ぶマチルダ。「あなたと別れたくない」と彼女はしきりにレオンにしがみつく。その手をふりほどいて、マチルダを無理矢理通路に押し込むレオン。こうして、あれほどに心を閉ざしていた「孤独」な二つの魂がふと一つになって輝く一瞬が生まれる。その輝きのまぶしさに、観る者は誰もが心を奪われるであろう。

 

 この作品は、リッュク・ベッソン監督の国際的な出世作となった。公開と同時に全米での好成績が話題となったが、フランスでも驚異的な数値を記録する大ヒットとなったという。日本では『グラン・ブルー』のエゾン役で一躍有名になっていたジャン・レノだったが、この作品を見た人は改めて素晴らしい俳優が誕生したことの興奮を覚えたに違いない。そして、マチルダを演じた少女ナタリー・ポートマンの衝撃的なデビューがあった。僕は、この二人をクローズアップさせるに十分な名演技をやってのけたゲイリー・オールドマンの存在にも大いに注目したいと思っているが、こんな粋な組み合わせもまた映画のおもしろさを際立てていたのである。

 

デービッド・アトキンソン『国運の分岐点』を読む

 この著者の発言やテキストは、いつ見ても実に歯切れがよく、分かりやすい。先ごろ出版されたこの本も、読みはじめると、ほとんど立ち止まるところもなく、先へ進むことができた。それというのも、その論旨が明快だからだ。要するに、日本の生産性が国際比較でみても低迷しているのは、その背後に、多すぎる中小企業を存続させている“悪の存在”があるからであり、その力に阿ることなく、先ずは中小企業の数を大幅に減らすことで当面の難問は解決するというのである。
 一読者としては、特に、最低賃金の引上げの必要や過少消費からくるデフレ圧力に関する指摘に共感を禁じ得ないものがある。そして、それらを人口減少との結びつきの中で読み取ろうした点にも十分頷かされるものがある。しかし、それらは著者独自の着眼点というわけではない。
 それにしても、この本を読み終わって心の中に残った幾分殺物足りない読後感は、一体、どこから来るのであろうか。それは恐らく、“諸悪の根源”たる中小企業に関する省察がそこにはほとんど見当たらないということによるものであろう。そこで、評者として、若干の物足りなさの原因と思われるものを、ここに数点記してみたいと思う。

(1)一括りの「中小企業(論)」では、何も語ったことにはならない。

 先ず、著者が中小企業の現状を標的にしておきながらも、そこに中小企業と呼ばれるものについての幾分でも踏み込んだ診断や解析があるわけではなく、産業論としての、いわば最低限度の省察の目も向けられていない。
 例えば、一口に中小企業と言っても、小売業や飲食業と製造業、あるいは情報通信業運輸業など業態によってまったく分析の視点やアプローチが異なってくるのであるが、そうしたごく基本的な分類も行われていないし、商業を一つとっても、チェーンシステムを形成しているケースと町中で商店街を構成している個店とでは分析のツールも違ってくる。そこには、これまで展開されてきたさままざま中小企業論や業態別の分析に関する検討も見当たらないのである。
 そのことがまた、例えば製造業であっても、直接消費財を加工してマーケットに売り出す食品製造業と、長い製造工程の一翼を担って生産財を国内の大企業や海外の大手企業に提供する電子部品業などを一括することの拙さに思い至らないことへと結びついているように見える。これでは、アナリストに相応しい「分析」にはとうてい及ばないと思うのだ。

(2)産業組織論的なアプローチも見当たらない。
 そもそも、中小企業と一括して呼ばれるものが、単なる保護政策の対象としてだけでなく、1970年代半ばころから再び着目されるようになったのは、国際経済における影響力もしくは存在感を発揮した日本の大企業の成功神話が広く語られるようになったことと並行して、その要因(秘訣)が探求された頃から、日本固有の産業システム、すなわち系列(大企業-中小企業関係)がその一つの大きな要素として研究されたことに端を発している。
 例えば、トヨタにおける「改善」や「研究開発」の成果が小さな町工場のイノベーションを促進していったことなどが取り上げられた。また、そうした系列が時には親企業が下請け企業に対して行使する圧力につながったという弊害を伴いながらも、大企業が開発した先進的な技術をよりスピーディに、相対的に資本力の脆弱な中小工場に伝播する機能効果をもたらしたとの研究成果も出されていたのであって、画一的な中小企業=非効率論では処理できない省察もなされてきたのである。
 わけても、金型・鋳鍛造などのいわゆる素形材産業の展開が日本の製造業の発展に如何に寄与したものであるかの分析は今日でも価値あるものであろう。主に川崎や東京・大田区墨田区に集積したことで知られる、それらの素形材産業は、日本の代表的産業でもある自動車、航空宇宙、電力、家電や重電などの大手企業のすそ野を形成して、それらの品質を支える共通の産業能力として着目され、研究されてきたものである。それは、一見、大企業の成果と見られた日本の産業の成功物語の時代にあっても、それが、いわゆるトータルな産業システム、すなわち、ある種の「系列」によって成り立っていたことを示す一方、街中の小さな企業の集積が産業の分厚い裾野を担ってきたことを示唆している。そこでは、アトキンソン氏の言うような大企業=効率(より高い生産性)、中小企業=非効率(より低い生産性)といった単純な区分では割り切れない世界がある。
こうしたことは、主に製造業に関して実証的・理論的に解明されてきたのであるが、今日では、システム技術の発達も与って、コールドチェーンや経営組織上のチェーンストアなどにもジャスト・イン・システムが導入されてからは、製造業に限らずより普遍性の高い分析ツールとしても応用されてきたところである。つまり、今日では、企業単位・事業所単位でその規模を色分けする旧い中小企業観では、そうした産業システムの全容を捉えることがほとんどできないのだ。

(3)これでは、グローバル化し新たな産業システムへの移行を見届けられない。

 殊に、現代では、グルーバルな国際規模の産業リンケージが深化しており、中小企業と括られるビジネスの中にも、そうした産業の発展形態に敏感に反応して新たな市場の開拓につなげているケースが数多く生まれている。東アジア地域では、いまや、そうした産業リンケージ・システムが国境を越えて形成されている。しかもそれは、中国の予想以上の産業高度化のインパクトによって、東アジア全体がグルーバルな産業リンケージの中に組み込まれて行く様となって立ち現われている。
 とりわけ、2008年のリーマンショック以降は、そうした様相が一層顕著になった。それまで、中国を含めてアジアの中進国・地域は、世界のアブソーバー機能を一手に引き受けていたアメリカへの輸出によって経済成長を成し遂げてきた。韓国がそれまでの開発独裁を捨てて一気に貿易立国を目指したことでモデル的な成功を収めたものとして注目されたのも、このためであった。1970年代末からNICSと称された韓国・台湾・香港・上海の四つの国・地域、あるいはまた中国本土を含めた「四つの龍」(中国・香港・上海・台湾)などの台頭に注目が寄せられ、19世紀末に日本が非西洋地域で産業的成功を収めて以降およそ百年後の軌跡が起ころうとしていたのである。それも、世界の産業センターを誇っていたアメリカの吸引力に救われものだった。
 ところが、2008年のリーマンショック以降は、そうした構図も大きく様変わりしたのである。衝撃的な大不況の中で、世界の経済再生を担ったのは、中国の巨額な財政支出であった。なにしろ、大不況の震源地であったアメリカにその役割は果たせそうにもない。そんな中で、今度は中国が世界のアブソーバーを担ったのである。そう、世界の産業システムの背景となる世界経済の「風景が変わった」のである。ちなみに、日本の戦後経済は不況に落ち込むと、必ずアメリカの吸引力に依存して輸出を回復し、その勢いで国内の在庫を一掃しては設備投資を復活させるというサイクルを描いてきた。ところが、このリーマンショックの直後は、戦後はじめて、中国の大型景気対策に引き寄せられるようにして景気回復を果たしている。以降、日本の最大の貿易相手国はすでにアメリカではなく中国となっている。
 これを契機に、中国では自ら「中心国の罠」を避けるため、国を挙げて産業の「現代化」に向けて驀進する。今や電子産業分野や電気自動車や宇宙産業はもとより、それまでアメリカが世界を席捲していたプラットホーム産業の分野でも、AIや5Gの世界でも先頭を走る勢いである。実は変わったのは中国だけではない。この時期を境に、韓国や台湾をはじめとする東アジアの国や地域が中国を中心とする産業リンケージ・システムへと組み込まれていくことになったのである。そして、このグローバルな産業リンケージの形成が、日本をはじめ韓国・台湾などの国・地域の中小企業のあり方に大きなインパクトをもたらしている。
 著者が日本の「グランドデザイン」を描くと称しながらも、こうしたグローバルだが身近な産業システムのへ変容に対するアプローチがまったく見受けられないのは誠に残念である。

(4)台湾と韓国のケースで中小企業を見る。

 当面の中小企業問題との関連でいえば、この点においては、同じように東アジアで経済発展を成し遂げた韓国と台湾の比較が興味深いケースであろう。
 韓国はいまや日本にも迫る勢いで、一人当たりGDP3万ドルを超える経済立国を成し遂げている。その間、この国の経済・産業をリードしてきたのがいわゆる「財閥」であった。サムソンや現代などの財閥企業が提供してきたのは、主に中国や東南アジアで台頭してきた「中間層」向けの消費財であった。ところが近年になってその大企業による輸出戦略に陰りが見えはじめた。そして、それらの消費財中国企業が自前で提供できるまでに成長してきたうえ、彼らの方がより先端的な製品を製造・供給する能力を発揮しはじめたからである。
 このためもあって、韓国ではいま、財閥企業へのモラル的な非難と同時に、経済が足踏みするとともに、大企業と中小企業との間の顕著な経済格差が社会問題として取り上げられるようにもなった。そして、層の薄い産業のすそ野が国際競争力の脆弱性と結びついているとの指摘も受けて、能力の高い中小企業の育成に注目が寄せられるようになったのである。折しも日本との産業軋轢が顕在化する中で、この国ではやっと素形材産業の育成が国を挙げての産業政策上の課題となっている。
 これに対して、台湾のケースはまったく逆である。台湾では、その経済発展のスタートから中小企業の存在が大きな力を発揮してきた。ちなみに、アトキンソン氏が「問題」とする中小企業の存在はこの国ではとても重要な役割を占めていて、日本をはるかにしのぐ存在感を示しており、その産業全体に占めるウェートも実に98%に達している。それどころか、そうした中小企業が対外輸出のいわばバネとなって台湾の経済成長を支えてきたのだ。特に、中国が世界の製造業を担い始めた頃に合わせて、大陸部への部品・製造システムの提供基地化と変容し、自国の産業を支えするとともに、主に生産財を供給することによって成功を成し遂げてきている。
 韓国との比較で言えば、台湾では中小企業が産業のすそ野を形成していて、それが自国の経済発展を可能にしていると同時に、この国の安定的な民主主義を成り立たせているとの指摘すらも受けているのである。
 私はここでどちらが正しいのかということを伝えたいわけではない。ただ、一律に中小企業の存在を「敵視」しても何も言い当てたことにはならない事例として述べているだけである。それにしても、この点、こうした省察も欠けたまま、末尾で、取って付けたようにして、中国の「属国」懸念が引き合いにされて、著者の“警告”に重みをもたせようとの意図が透けてみえるものの、惜しいことかな、その冷静な分析の跡も見られないままである。

(5)一括りの「中小企業」という言葉の先へ突破する迫力が必要だ。

 結局、アトキンソン氏自らがその所説を正当化するために使用した一括されたものとしての「中小企業」という言葉に、もう一度立ち戻らねばならないようだ。この曖昧なままに流布された言葉が、著者自身が直感的に読み取ったように、官僚組織の生理と業界の論理によって産み落とされた、いわば“造語”のようなものである。官僚はそれによって“弱者”である中小規模企業の保護者として自らを明瞭に位置づけて権限と予算を確保し、業界団体は、自らその脇に「政治連盟」なるものを創り上げて影響力を行使することでその存在感を増長させてきたのである。この点においては、著者の危惧と告発は当を得ていると言えるが、その、言わば“奴ら”と同じ言語をもって戦おうとしたところに一つの明瞭な落とし穴があったと言えよう。
 そんな言葉を真に受けて、「中小企業」という用語で何かを語ったかのように振る舞うことには明らかにジレンマがある。仮にその論の入り口で「中小企業」という言葉を使うにせよ、そこに斬り込む鋭い“分析”がなければ「出口」は見えないのだ。
 アトキンソン氏は、この官製の言葉自体を解体するところから始めるべきではなかったかというのが評者の拙い感想である。