清聴登場

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新美南吉の童話の世界

新美南吉とは、キツネの物語「手袋を買いに」でもよく知られる童話作家のことです。南吉は、東京外国語大学英語部文科へ入学した19歳の時に、『赤い鳥』に「ごん狐」などの童話を寄稿しています。その後、いくつかの職を遍歴した後、生まれ故郷の村に近い安城高等女学校の教諭となり、「赤い蝋燭」や「久助君の話」、「花のき村の盗人たち」などの作品群を遺して、わずか29歳7か月の生涯を閉じています。

生来が病弱であるうえに、暖かい家庭にも恵まれませんでした。新美南吉こと、本名渡辺正八は、畳職人の父親と下駄や雑貨の店を営んでいた母との間に生まれましたが、4歳で実母と死別し、6歳のときに継母が来て一緒に住むことになります。世間の目には我が子のように可愛がったとされる母子の関係も、その実、もっと複雑なものがあったらしい様子です。さらに、8歳のときには、実母の母親のところへ預けられます。この老婆との二人暮らしは淋しいものであったようで、わずか3カ月で再び実家に戻っています。新実姓は、この時の母の実家から採られてつけられたものです。

こうした得も言われぬ孤独感が新見南吉の文学を通底しているように感じられるのも至極当然のことであろう、と思われます。

南吉の童話の基調にあるものは、何よりもまず、他者との心の触れ合いを求める切なる願いです。それは、親と子、子供と子供、盗人と百姓の間などはもちろんのこと、人間と動物との間でも変わりはないのです。実際、南吉の物語の中には、猿や狐や牛をはじめ、小鳥、鼠、蝶、蜻蛉、虫、ひよこ、金魚、蛇、蛙、鮒などが次々と描かれています。

彼は、ドストエフスキートルストイゲーテのような巨匠の作品をよく気に入っていましたが、それでもその仕上げた作品としては、自ら「こぢんまりした物語」と呼んだ小品を多く残しました。彼の目には、茄子畑、夕あかり、虫の声、涼しい風などの<小さな世界>を捉えて離さない、繊細で優しい光景が映り続けていたので、自ずとその作品はいわゆる大作へとは向かわなかったのです。

むしろ、一見平凡と思われる出来事に中に、人の温もりを伝える絶妙な感覚を見出して、そこに一つの物語を造形していくことになったのだろう、と思います。

でも、おそらくではありますが、南吉にとって現実の世界は決して生きやすい世界ではなかったのでありましょう。病苦に加えて、様々な誤解や行き違いが生じる実生活は、彼にとってはあまり優しい処ではなかったのではないかと思っています。

死の数カ月前、彼は最後の力をふり絞るようにして一つの小品「狐」を書き記しますが、そこでは、人間の世界をも超えて狐になりきることで、純粋な母子の深い絆に達する親子の姿を描いています。南吉にとって、この世の世界は淡いものであって、誠の愛情はもっと遠い世界で初めて可能なことだと、密かに感じていたのかもしれません。

体調不良を理由に女学校を退職した南吉が、実家で寝たきりになっているところへ恩師の妻が見舞に来たとき、彼はほとんど声にならない声でこう言うのです。

「私は、池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ」

 死因は結核でした。そして、「狐」は南吉の最後の小石なって静かに沈んでいったのです。

「ごん狐」概要

この物語の主要な登場者は、キツネ(ごん狐)と、百姓の兵十である。一人ぼっちで孤独なキツネのごんが、同じ境遇の孤独な少年、兵十に近づき、心を交わそうとするがそれが遂に果たせることなく終わる話である。作者の策定過程においては、キツネを「権狐」としたり、「ごん」とするなど異なる表現が見られるが、定稿では「ごん狐」となっている。

総じて、「ごん狐」は、つぐないの行為を死と引き換えにしか認められなかったごんの悲劇を描いている。善意を持ちながらも、お互いの心を通わすことのできない悲しさ、もどかしさ、そして、ごんの死によってはじめて、心が通う瞬間が訪れるという、そのシーンが読む者に感動を呼びおこす作品となっている。以下もまた、その要約抜粋である。

◇◇◇◇◇

一                                                              

村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというお殿様が、おられたそうです。その中山から、少し離れた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、一人ぼっちの小狐で、羊歯(しだ)のいっぱい茂った森の中に穴をほって住んでいました。

そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。畑へ入って芋を掘り散らかしたり、菜種殻の、干してあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手に吊るしてある唐辛子をむしりとったり、いろんなことをしました。

ある秋のことでした。降り続いた雨が上がったので、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥(もず)の声がきんきん、響いていました。

ごんは、村の小川の堤まで出てきました。ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。

「兵十だな」と、ごんは思いました。

兵十はぼろぼろの黒い着物をまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきり、という網をゆすぶっていました。しばらくすると、兵十は、はりきり綱の一番うしろの、袋のようになったところを、水の中から持ち上げました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木切れなどが、ごちゃごちゃ入っていましたが、でも、ところどろこ、白いものがきらきらと光っています。それはうなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一緒にぶち込みました。そしてまた、袋の口をしばって、水の中へ入れました。

兵十はそれから、びくを持って川から上がり、びくを土手に置いといて、何を探しにか、川上のほうへ駆けていきました。

兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中から飛び出して、びくのそばへ駆けつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんは、びくの中の魚をつかみ出しては、川下の川の中に目がけて、ぽんぽん投げこみました。一番しまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬると滑りぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中に突っ込んで、うなぎの頭を口にくわえました。

うなぎは、キュッと言って、ごんの首へ巻きつきました。そのとたん、兵十が、向うのほうから、「うわア、盗人狐め」と、どなりたてました。ごんは、びっくりして飛びあがりました。うなぎをふり捨てて逃げようとしましたが、うなぎは、ごんの首に巻きついたまま離れませんでした。ごんは、そのまま横っとびに飛び出して一生懸命に、逃げていきました。

十日ほどたって、ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内がおはぐろをつけていました。鍛冶屋の新兵衛の家の裏を通ると、新兵衛の家内が髪をすいていました。

ごんは、「ふふん、村に何かあるんだな」と思いました。

「何だろう、秋祭りかな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮に幟(のぼり)が立つはずだが」

そんなことを考えていると、いつの間にか、表に赤い提灯のある、兵十の家の前にきました。その小さな、壊れかけた家の中には大勢の人が集まっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭いを下げたりした女たちが、表のかまどで火を焚いています。

「ああ、葬式だ」

と、ごんは思いました。

お午(ひる)がすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんの陰に隠れていました。やがて、白い着物を着た葬列のものたちがやって来るのがちらほら見え始めました。

兵十が、白い裃(かみしも)をつけて、位牌をささげています。いつもは赤いさつま芋みたいな元気のいい顔が、きょうは何だかしおれていました。

「ははん、死んだのは兵十のおっ母だ」

ごんは、そう思いながら頭をひっこめました。

その晩、ごんは、穴の中で考えました。

「兵十のおっ母が、床についていて、うなぎが食べたいと言ったに違いない。それで兵十は、はりきり網を持ち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎを盗()ってきてしまった。兵十は、おっ母さんにうなぎを食べされることが出来なかったのだ。…ちょッ、あんないらずらをしなきゃよかった。」

向うへ出かけますと、どこかで、鰯を売る声がします。と、弥助のおかみさんが裏口から、「いわしをおくれ」と言いました。いわし売りは、かごを積んだ車を道端において、ぴかぴかに光るいわしを両手でつかんで弥助の家の中へもって入りました。ごんは、そのすきに、かごの中から5,6匹のいわしをつかみ出して、もと来た方へ駆けだしました。そして、兵十の家の裏口から家の中へいわしを投げこんで、穴へ駆けもどりました。

ごんは、うなぎの償いに、まず一つ、いいことをしたと思いました。

つぎの日には、ごんは、山で栗をどっさり拾って、それを抱えて兵十の家へ行きました。裏口から覗いて見ますと、兵十は、午飯(ごはん)を食べかけて、茶碗を持ったまま、ぼんやりと考えこんでいました。その兵十の頬っぺたにかすり傷がついてます。どうしたんだろうと、ごんが思っていると、兵十が独り言をいいました。

「一体、だれが、いわしなんかおれの家へ放りこんでいったんだろう。おかげでおれは、盗人と思われて、いわし屋のやつにひどい目にあわされた。」

ごんは、これはしまったと思いました。それでも、そっと物置のほうに回ってその入り口に栗を置いて帰りました。

つぎの日も、その次の日も、ごんは、栗を拾っては、兵十の家へ持っててやりました。栗ばかりでなく、松たけも2,3本持っていきました。

四、五

月のいい晩でした。ごんは、ぶらぶらあそびに出かけました。中山さまのお城の下を通って少し行くと、細い道の向こうからだれかが来るようです。ごんは、片隅に隠れてじっとしていました。それは、兵十と加助というお百姓でした。

「そうそう、なあ加助」と、兵十が言いました。

「おらあ、このごろ、とても不思議なことがあるんだ」

「何が?」

「おっ母が死んでからは、だれか知らんが、おれに栗や松たけなんかを、毎日くれるんだよ」

「ふうん、だれが?」

「それがわからんのだよ。おれの知らんうちに、おいていくんだ」

ごんは、二人のあとをつけて行きました。

「へえ、変なこともあるもんだなア」

(今度は、その帰り道のこと)

兵十と加助はまた一緒に帰っていきます。ごんは、二人の会話を聞こうと思ってついていきました。お城の前まで来たとき、加助が言いました。

「さっきの話は、きっと、神様の仕業だぞ」

「え?」

と兵十は、びっくりして加助の顔を見ました。

「どうも、そりゃ、人間じゃない、神さまだ。神様が、お前がたった一人になったのを憐れに思わしゃって、いろんなものを恵んで下さるんだよ」

「そうかなあ」

「そうだとも、だから、毎日神様にお礼を言うがいいよ」

「うん」

ごんは、へえ、こいつはたまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを持って行ってやるのに、その俺に礼を言わないで、神様にお礼を言うんじゃア、ひきが合わないなあ、と。

そのあくる日も、栗を持って、兵十の家へ出かけました。ごんは、家の裏口からこっそり中へ入りました。そのとき兵十がふと顔を上げると、狐が家の中へ入ったではありませんか。この間、うなぎを盗みやがったあのごん狐めがまたいたずらに来たな。

「ようし」と、

兵十は立ち上がって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。そして、足音をしのばせて近寄って、戸口を出ようとするごんを、ドンと撃ちました。

ごんは、ばたりと倒れました。兵十がかけより、家の中を見ると、土間には栗がかためて置いてあるのに気づきました。

「おや」と兵十は、びっくりしでごんに目を落としました。

「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」

ごんは、ぐったりと目をつぶったまま頷(うなず)きました。兵十は、火縄銃をばたりと、とり落としました。

◎◎◎◎◎

南吉は、短篇(コント)という文学ジャンルを編み出したフランスの作家シャルル・フィリップのことをとても気に入っていた。彼は自身のことを綴ったエッセイの中で、こう語っている。

「私は、フィリップのことを考えだすと限りがない。好きで好きでたまらないから。いつまでも、考えていてもいやにならない。」(旧かなを現代文に変えてある)

フィリップは、片田舎の小さな町で、木靴工の子供として生まれ、街の貧しい人たちと一緒に育った。彼の文学的感受性は、それらの人々を生涯忘れることなく、自らの作品に彼らを登場させることを止めることもなかった。

フィリップは、とある日刊紙に発表した短篇を、それぞれ24篇ずつ編集した二つの短編集にまとめている。『小さき町にて』と『朝のコント』がそれである。このうち、『小さき町にて』が、彼の故郷の町を舞台にした市井の人々の風景を描いたものである。その町の人々に対する優しい眼差しで描かれた「小さな世界」を、南吉も好きだったのであろう。彼もまた、自らの住んだ「小さな村」について、書き綴っていくことになる。それも、人々だけではなく、動物や些細なモノにまで及んでいて、その物語る世界は、横に静かに大きく広がっている。

そして、新見南吉は、自らの作品を「こじんまりした物語」と呼んだ。わずら29歳の短い生涯に書かれた童話童謡を中心とする作品を、彼はそう呼んだ。

学生時代を東京で過ごした後、病と治療のため田舎に戻った南吉は、1937年の春に、次のような言葉を綴っている。

「こんな風景は、以前ちっとも自分の感興を起こさなかったが、近頃は、こんなありふれた身近なものを美しいと思うようになった。ごく平凡な百姓たちでもよく見るていれば誰もが画いたこおtのないような新しい性格を持っており、彼らの会話にはどの詩人も歌わなかったような面白い詩がある。」

南吉は、その翌年に安城の高等女学校に職を得て、生まれ育った村を描いて童話作家の道を歩み出すのである。

 

注)「赤い鳥」

子供のための童話雑誌。1918年(大正7)7月に創刊され、一時休刊したが、1936年(昭和11)8月まで196冊を刊行した。主宰者は夏目漱石門下の小説家、鈴木三重吉で、小説家としての行き詰まりを児童文化運動に打開すべく『赤い鳥』を創刊、彼の後半生はこの童話雑誌の編集に捧げられた。『赤い鳥』は大正期の児童文化運動におけるもっとも重要な雑誌であり、五つの大きな役割を果たした。第一は、明治期の前近代的な児童読物を克服して近代的、芸術的な童話を生み出したことで、芥川龍之介の『蜘蛛(くも)の』、有島武郎の『一房の葡萄』、小川未明の『月夜と眼鏡』などの童話がそれである。第二は、北原白秋西条八十らの詩人に加え山田耕筰、成田為三らの作曲家の協力も得て新しい童謡の花を咲かせたこと。第三は、清水良雄、鈴木淳(1892―1958)、深沢省三(1899―1992)など健康な美しさにあふれた童画を開拓したこと。第四は、久保田万太郎秋田雨雀らを書き手としてモダンな童話劇を試みたこと。そして第五は、読者である子供たち自身のつくりだす文化としての綴方、児童自由詩、児童画を開発したことである。創刊50周年にあたる1968年(昭和43)と1979年の二度にわたり、日本近代文学館より全冊が復刻されている。[上笙一郎]<小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)>