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「やさしい猫」余情

やさしい猫』は、中島京子による日本の小説。読売新聞夕刊の連載小説として2020年5月7日から2021年4月17日まで書き綴られ、2021年8月19日に中央公論社より刊行された。作品は、第56回吉川英治文学賞の受賞作となった。

この原作を基に、NHKがテレビドラマ「やさしい猫」を製作(脚本・矢島弘一)、今年6月24日(土)から全5回が上映された。

TVドラマ「やさしい猫」

シングルマザーで保育士のミユキは、震災ボランティアで訪れた東北で、偶々、一人のスリランカ人青年クマラと出会う。それからおよそ1年後、隣町の商店街で二人は運命的な再会を果たすことになる。2人は懐かしさのようなものを感じて惹かれ合い、「友達」になるが、やがて互いに気になる存在となってゆく。そして、まもなくミユキの娘・マヤ(伊東蒼)を交えた3人は家族のように一緒に暮らし始める。異国人と一緒に暮らすことには同僚保育士のほなみはよき理解者だが、アパートの大家おばさんは初めはこの共同生活を怪しげにみている。だが、そうした誤解も解けていくようになり、二人は結婚を決意する。

田舎で独り暮らしをしているミユキの母のところにも出かけて同意を求めることもした。

ところが、婚姻届を提出し正式に夫婦となった直後、クマラはオーバーステイを理由に入管施設に収容され、母国への強制送還を命じられることなった。

場面は一転し、入管の取調室のような一室。

口頭審理では偽装結婚ではないかと一方的に疑われ、人の気持ちを無視する過酷な言葉と質問を浴びせられる。絶望するクマラとミユキ。入管での面会はアクリルごしに30分のみとされ、その理不尽な対応への憤り、助けることもできない口惜しさにミユとマヤの心は打ちひしがれていく。何とか処分の再考と訴えるも、入管局の担当責任者の上原は一連の措置は組織的に決めたことで勝手に変更したりすることなどできないと素っ気なくミユキの申し入れを拒絶する。

収容施設を訪ねたあと、すっかり路頭に迷い込んでいるミユキの前に、あの冷たい応対でミユキを不快にさせた上原が現われた。その彼が今度は、わずかな望みを託して裁判に訴える道があると示唆する。そして、彼とは旧知の中であるという弁護士・恵耕一郎(滝藤賢一)を紹介する。上原は入管の現状に疑問を感じ、入管職員であることを自ら辞して一民間人となり、今は行政書士の仕事を始めていたのだった。

クマラを助けるためには、裁判を起こして裁決取り消しを勝ち取り、在留特別許可を得るしかない。望みは、ただ家族3人で暮らしたいだけだ。ささやかな願いを胸に秘め、弁護士と家族3人の国を相手どった戦いが始まる。

◇◇◇◇◇

クマさんこと、スリランカかからやってきたクマラさんの本当の名前はとても長い。

「マハマラッカラ パッティキリコララーゲー ラナシンハ アキラ エーマンタ クマラ」

それが、日本の落語に出てくるじゅげむじゅげむを思わせたことから、ミユキがその長い人の名前をそらんじて見せて、二人で笑ったところから急速に距離も縮まってゆくのである。このクマさんの長い名前の一件は、のちに公判の場面でも登場してくることになる。

絵を描くことが大好きなアヤは、この幸せなカップルを一枚の絵画に仕立て、それが絵画コンクールの中学生部門の佳作として賞まで獲得るほどだった。幸せがずぐそこまでやってきたことを暗示するその絵のタイトルは<ハピネス>だっった。

<登場人物>

◦首藤ミユキ(優香)

 再婚時に旧姓「奥山」を名乗る。二人が出会った時は32歳だった。保育士として働き、母子家庭を守っている。前の夫が亡くなったのは、娘のマヤがまだ3歳の時のことだった。

◦クマラ(オミラ・シャクディ)

スリランカからやって来た若者。24歳だった。日本語も上手にしゃべることができ、日本では自動車整備工として働いていた。

◦首藤マヤ(伊東蒼)

 原作では語り手になっているが、ミユキのたった一人の娘。まもなく小学4年生になる。裁判時には、高校生になっていた。少々、内気だが、絵を描くことが大好きな女の子。

◦ほなみ(石川恋)

保育所の同僚。ミユキのとっての良き理解者

◦ぺレイアさん

被災地の炊き出しにボランティアで参加していた常連。スリランカ料理の店を持っている。スリランカ人コミュニティのリーダーでもある。

◦ナオキくん(南出浚嘉)

 北海道からの転校生。異性への興味よりはるかに強い知的好奇心を持つ。マヤのもっとも良き理解者かつ頼もしい応援者となる。

◦ハヤトくん(ラディン)

 トルコからやってきたクルド人の若者。背がすらりと高く、なかなか見栄えもいい。本人は日本生まれであるが、それでも「難民の子」であることには変わりはない。

◦同じアパートに住む少々口うるさそうなおばさん(池津祥子)

◦鶴岡(山形県)のおばあちゃん・マツコ(余貴美子)

 ミユキの母親。<外国人>と一緒になるという娘に最初は冷たく当たるが、やがて二人の心温かい応援者となってゆく。

◦上原賢一(吉岡秀隆)

 最初、入国管理局の主任審議官として登場する。退職し、行政書士となっていた。彼がミユキに最後の手段としての裁判のことを伝える。

◦弁護士恵耕一郎(滝藤賢一)

 労働問題や外国人労組者のことを扱っているようだ。生真面目で、足で証拠を集める、正義感の強い弁護士でもある。

◦弁護士江藤麻衣子(山田真歩)

 難民事案に詳しく、それを主な専門領域としている。

◦訟務検事の女・占部(麻生祐未)

 厳しい質問で証言する者たちを追い詰めてゆく。国の立場に立つ人物。

スリランカ人ウィシュマさんの事件

おそらく、著者の中島京子さんは、この作品を書き上げる一つの動機として、この物語の中心にスリランカ人を据える際に、あるエピソードを思い描いていたに違いないと思われる。実際、この物語の向こうには、この国における悲しく、悍(おぞ)ましい、そして「冷たい」出来事があった。<ウィシュマさん死亡事件>がそれである。

◇◇◇◇◇

2021年3月6日、スリランカから日本へやってきた一人の、若い女性が、閉鎖された部屋の中で死亡した。亡くなったのはウィシュマ・サンダマリアさん。2017年に学生ビザで来日して日本語学校に通っていた、いわゆる外国人在留者だったが、不法滞在の疑いで入国管理局に収容されままになっている間にいわば衰弱死した。また、33歳だった。

体調は、2021年1月頃から悪化し始め、やがて嘔吐を繰り返し、体重が急減した。にもかかわらず、点滴もされず、適切な治療も行われることはなかった。彼女が必至の想いで懇願した仮方面もついに無視された。密閉された空間の中で言葉の暴力のようなものまで受けていた。極度の飢餓状態に陥っていて、体温の低下も始まっていたとされる彼女の不自然な死に対して、遺族は、入管当局の「未必の故意」に相当するとして刑事訴訟に訴えた。

しかし、2022年6月、名古屋地方検察庁はこれを不起訴とした。その理由は「死因の特定に至らず、不作為による殺人や殺意を認める証拠がなかった」というものだった。

世界中がロシアのウクライナ侵攻のニュースに目を奪わている2022年3月4日、遺族は同時に、入管局が適切な医療措置を施すことも行わなかったことを理由として、国に対する損賠賠償を求める国家損賠賠償訴訟を起こしている。

◇◇◇◇◇

ウィシュマさんの遺品中に、直筆のメモが残されていた。それは、入管施設に設けられた投書箱に投函された手紙だった。手紙は、入管内部をチェックする役割を担う視察委員会に宛てたものだったが、それが開けられたのは彼女が亡くなった2日後のことであって、投函されてから1カ月以上が経っていた。

愛知県津島市に住むウィシュマさんの支援者、真野明美さんが、仮方面が許可されたら、彼女を一緒に暮らす約束をしていて、手紙のやりとりを続けていた。

まもなく死を迎えるだろうウィシュマさんのの手紙には、こう綴られていたという。

「まのさん と いっしょに いろいろ やりたい」

「わたし きたら、いっしょに たくさん りょうり を つくって たべましょう」

真野さんに届いた最後の手紙は、もう日本語で書くことすら困難だったのであろう、全部英語だったという。

“I need to eat but I can’t eat. All the food and water vomiting out. I don’t know what to do.”

(「食べなきいけないけど、食べられない。食べ物と水を全部吐いてしまう。どうしていいのか分からない」)

亡くなる3日前、真野さんは、すかっり衰弱しきったウィシュマさんを訪ねて面談している。その時、彼女が言い遺した言葉がこれだった。

「ここから連れてって」

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著者は、同種の別の事件のことからもヒントを得て、主人公の一人クマラさんを登場させたのであろう。原作の中には牛久収容所も登場している。収容された人間が体調の不調を訴えたが、聞き入れられず、やむなく支援者らが救急車を呼んだものの、施設から追い返されるという出来事も小説の中には描かれている。そして、その背景には、以下のような多くの出来事が潜んでいる。

<入管施設収容者の病死や衰弱死そして自殺>

2014年、東日本入国管理センターに収容されていたカメルーン男性が死亡したことをめぐって、男性の母親が「不調を訴えていたにもかかわらず、速やかに救急搬送などを行わず、適切な医療を受けさせなかった」などとして国を相手に損害賠償を求めて裁判を起こした。水戸地方裁判所は入管の対応の過失を認めた上で、165万円を賠償するよう命じたが、現在も、双方が上訴して争われている。

収容中に病気や自殺で亡くなった人は、統計を取り始めた2007年以降でも18人に及ぶという。2018年4月には、茨城県牛久市にある東日本管理センターに収容されていたインド人男性ディパク・クマルさん(32歳)が9カ月にもわたる長期収容の結果、自殺した。

ウィシュマさんが亡くなる1年8カ月も前、2019年6月24日、大村管理センターでナイジェリア人男性サニーさんが餓死するという事件が起きている。

難民認定を拒む日本

2019年4月、東京入管に収容中のクルド難民申請者のチョラク・メメットさん(38歳)が、12日の夜に体調不良となっって病院での診察を訴えたにもかかわらず受け入られることがなかった。そこで家族と支援者が救急車を呼び寄せたが、医師の資格を持たない入管職員の一方的な判断で、救急車が2度も追い返されるという事件が起きた。このため、これに抗議する有志たちが品川の東京入管局前に集まり、夜通し叫んだ。[このことがSNS上で話題になり、翌13日には国会でも議論に取り上げられて、事件発生から30時間後のになってやっとメメットさんは病院に運ばれた。脱水症状だったという]

メメットさんは、彼の母国トルコでは、国をもたないクルド人は弾圧と差別を受けてきた。親族にもクルド独立運動の参加者がおり、家族とともに日本へ政治難民としてやって来た。その後、4度もの難民申請にもかかわらず認定されず、その都度「仮放免」を繰り返した。2018年1月、手続のために入国管理センターを訪れると、家族には「仮放免」を認める一方、メメットさんはいきなり収監されてしまったのである。

◇◇◇◇◇

<難民条約>

難民の定義と位置づけを始めて明確に定めて、すべての国がこれを受け入れ、彼らに「人権と基本的自由を保障」することを明確にしたのは、1951年のことである。その基底に流れているが1948年の世界人権宣言だった。

「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出自、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別も受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享受することができる」

(第2条第1項)

しかし、日本は長い間難民条約に加盟せず、国際世論の非難の的となってきた。日本が難民条約を批准したのは、その30年後の1981年になってからのことである。

<極端に少ない日本の難民認定

ちなみに、原作の文中に麻衣子先生一緒に恵弁護士がマヤに「難民とは何か」を丁寧に説明する件があり、その中で、日本の難民認定数が諸外国に比べて極端に低いことにも触れている。

「でも、カナダでは[難民申請者の]67%の人が認められて、他の先進国でも基本、二桁は認定されているのに、日本が1%に満たないってのは、なあ。災害があって、避難所に千人逃げてきたのを、あんたんちは家が流されたわけじゃないもんだろう。あんたは避難所の飯をただ食いしようとしてんだろって、997人(ママ)追い返しているようなもんだろ。」 (p.265)

ここに、2023年6月15日時点の数値がある(日本難支援民協会提供)。

       認定率   認定数

 ドイツ   20.9%   46,787人

 アメリカ  45.7%   46,629人

 フランス  20.9%   41,681人

 カナダ   59.2%   30,598人

 イギリス  68.6%   18,551人

 イタリア  13.9%    7,193人

 日 本    2.0%    202人

この極端な数値について、日本難民支援協会は、次のようなコメントを行っている。

「各国の置かれた状況は違うため単純比較はできませんが、世界でも類を見ない極めて少ない認定数であることは事実です。[この数値に限らず]例えば、シリア難民の認定率(2020年)は、ドイツでは78%、アメリカでは62%、オーストラリアでは89%ですが、日本では、2011年から2020年の間で117人が申請したところ、認められた人は22人に留まっています。」

これにはさらに次の事情も考慮しなければならない。シリア難民の大量発生時に、欧米諸国や南米のブラジルなどがその受け入れ数を対外的に表明したのに対し、日本は唯一、その表明を行わず、このため、日本に難民申請を求める人の数が予め制限されたいたという、もう一つの事情でである。このため、日本に難民の避難先を求めるシリア人の数はそれだけでも初めから抑制されたものとなっていたのである。

ゼノフォビア

ウィシュマさんの遺族の弁護士を務める指宿(いぶすき)昭一氏は、会見の席上で、この事件には「ゼノフォビア(外国人嫌悪)」が潜んでいると何度も繰り返した。ゼノフォビアとは、異質な存在に対する理由なき嫌悪や恐怖、忌避の感情のことで、一般には「外国人嫌い」とも訳されることがある。ただし、この嫌悪の感情は、一見自然なものに思われることもあるが、それはむしろ反復する要人の発言やメディアの報道によって補強・増幅され、人々の心の中に作り上げらたもであることが多い。特に、日本にあっては、その西洋志向が強まった明治の近代化以降にアジアの近隣諸国に属する人々を嫌悪する感情が醸成された。そして、そうしたアジアを見下す意識や感情は21世紀の今日まで続いているのである。

僕が原作を読んで特にここで紹介したい、その一つのエピソードを取り上げてみようと思う。

クマさんが、ミユキさんとその娘マヤさんが住んでいる小さな部屋のあるアパートに出入りするようになった「ハピネス」な時代の、つまりまだ難民問題が顕在化しない頃の一つエピソードがある。

アパートの住人のおばさんの話である。

一度、同じアパートに住むおばさんが突然、ミユキさんとわたしがいるところへやってきて、すごくこわい顔をして、

「あなたのところへにガイジンが来ている」

と言ったことがあった。

「あ、はい。友だちで」

ミユキさんがそう答えると、おばさんはものすごく腹を立てて、

「あなたがいないときに、おたくのお子さんと遊んでいましたよ!」

と怒鳴った。

「はあ、あの、ときどき、面投みてもらっています。わたしが忙しいときなんかに」

「ちょとねぇ、あなた」

おばさんはますます怒って、肩で息をしていて心配になるほどだった。

「そんな、悠長なことでどうしますかっ。何かあったらどうするの。あなた、お母さんなんですよ」

「はあ、あの、何かとは?」

おばさんはほんとうに頭に来て、こんなバカと口をきくだけ無駄だよという顔をして、ぶつぶつ言いながら帰っていった。

[これには]後日談がある。

ナオキくんのお父さんがアメリカに出張して、お土産を買ってくれた。いつもお世話になているからと、クマさんにもロサンゼルス・ドジャーズベースボールキャップとTシャツを買ってくれた。クマさんは野球よりクリケットが好きだし、野球だったら読売ジャイアンツのファンなんだけど、でも、そのキャップとTシャツは気に入ってしょちゅう着ていた。

ある日、クマさんと遊んでいたら、物陰からあのおばさんがじーっと見ていたことがあって、わたし[マヤ]とナオキ君は震え上がった。クマさんはちょっと肩をすくめただけで、そのまま遊び続けた。

すると、どことなく、おばさんの固まった表情が変化して、解凍されたみたいになっていき、全部は溶けなかったけれど半解凍くらいな感じで家に引っ込んだ。

ある別の日に、保育園から帰ってきたミユキさんを道端で捕まえて、

「あの人、アメリカ人なの? だったら、まあ、いいわよ。そなんらそうと、早くおっしゃいよ!」

と言うと、大股で去って行った……。

◇◇◇◇◇

アメリカもまた、こうしたゼノフォビアの傾向が強い国の一つである。

アメリカは、9.11同時多発テロの直後には、イスラム人に対するゼノフォビアを振りまき、メキシコからの難民問題を抱えると、今度は中南米からやって来る人たちやすでにやって来た人たちに対する排除を感情的に煽ることが珍しくない国である。そして21世紀初頭も過ぎようとして今日、その嫌悪は「中国」及び中国人に向けられている。

また、アメリカで、ドナルド・トランプ氏がイスラム系やメキシコ系移民・渡航者に対する規制の強化を掲げて大統領選に臨んだとき、対立候補であった民主党ヒラリー・クリントンや英エコノミスト誌などから「ゼノフォビアだ(外国人嫌悪である)」と指摘されたことはよく知られていることである。

アメリカでは、アジア系の人々をターゲットにした嫌がらせ、偏見、中傷、暴行、差別が後を絶たない。日系、中国系、韓国系、フィリピン系など民族に拘わらず、アジア系というだけでストレスのはけ口にされたり、暴行事件に巻き込んだりするケースも多い。

こうした状況を見るたびに記憶に蘇る、ある事件がある。中国系アメリカ人のヴィンセント・チンさん殺害事件である。今から、およそ40年ほど前の出来事である。

<事件のあらまし>

中国生まれのヴィンセント・チンさんは、幼いころから養子としてアメリカに渡り、養父母のもとミシガンで育った。自身の結婚式が迫った1982年6月19日、デトロイトにほど近いハイランドパークのストリップクラブで、独身最後のバチェラーパーティーを友人らと楽しんていた。

注)バチェラーパーティーとは、結婚を控えた男性が「独身最後の夜」を友達と楽しむパーティーのこと。参加者は男性のみで、結婚後は実行が難しい男ならでの破目を外す遊興が主な騒ぎの中心となる。アメリカやカナダ、イギリスでは比較的ポピュラーな遊び事だとされている。

そこには、クライスラーの工場で働くロナルド・エベンスと、自動車工場の仕事をレイオフされた義理の息子マイケル・ニッツという、二人の白人男性も遊びに来ていた。その夜、些細なことから言い争いになり、喧嘩はエスカレートしていった。

その場はいったん収拾がついたものの、二人はチンさんの行方を追って執拗に街中を探し回った。そしてファーストフード店の駐車場でチンさんを見つけ、ニッツがチンさんを羽交い絞めにし、エベンスが野球バットでチンさんの頭部を滅多打ちにした。「まるで野球選手がホームランを打つ時のように、フルスィングで頭部を何度も殴っていた」と目撃した警官の証言があったほどだった。この暴行には明らかにゼノフォビア、あるいはレイシャルアニマス(人種的な敵意)と強い殺意があった。チンさんは、日本人と誤解されたまま殺害された。まだ27歳だった。ちなみに、この当時、日米貿易摩擦がフレームアップされ、とりわけアメリカの自動車産業の衰退が日本の不正な産業進出のせいだとして、盛んにジャパンバッシング(日本叩き)が全米各地で繰り返されていた。

この事例は、ひとたびゼノフォビアに憑りつかれると、人はどこまでも冷静さを失い、極限的なまでに残忍になるということを示唆している。

◇◇◇◇◇

作者は、『やさしい猫』を書き上げるに際して、この物語を悲劇のままに終わらせなかった。むしろ、最後は「ハピネス」の絵の中に収めて、この物語を閉じている。絶望的なまでの現実に対して、どこまでも<希望>を見失わないことの大切さを強調したかったのであろうか。それとも、物語の世界でしか<絶望>から救済することは不可能であることを示したかったためであろうか。

いずれにしても、僕にとっては、密かに女優・優香に好感を抱き、彼女の活躍に声援を送り続けていたので、ラストシーンでミユキの笑顔を見届けて「ホット」し、希望に心が満たされたことは確かなことだったのである。