清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

エリザベス・ギャスケルの短篇

19世紀のイギリス小説はまさにアルプス山脈とでもいうべきもので、ディケンズサッカレーエミリー・ブロンテジョージ・エリオット、トーマス・ハーディーなど、多くの巨匠が肩を接してそびえ立っている、と語ったのは、英文学者兼翻訳家の小池滋氏です。

続けて、彼はこうも語っています。

「その高峰の影に隠れてしまったために、不幸にしてあまり目立たないが、芸術的完成度の高さでは巨匠にも劣らず、魅力満点の作家が何人もいる。その一人がギャスケルである。」

ユニテリアンの牧師の娘として生まれたエリザベス・スティーヴンは、1歳の時に母を失い、早くにたった一人の兄の死に続いて父も亡くすという不幸に見舞われます。その彼女が父と同じ宗派の牧師と結婚して、エリザベス・ギャスケルとなるのですが、長男をわずか9カ月で病死させたことがきっかけで、その悲しみを癒すために34歳の時に一つの小説(『メアリー・バートン』)を書き上げます。それが一躍ベストセラーとなって、いわゆる文壇にデビューすることになったのです。

当時のイギリスは、産業革命の勢いの中で、溢れんばかりのエネルギッシュさで工業的近代化の道を突き進んでいました。そんな中で、彼女は、そのまばゆいばかりの光の陰に据え置かれた貧しい人々の暮らしの悲惨に目を向けることを忘れなかったばかりか、夫と共に自らユニテリアンとして慈善活動にも心を配る、「いつもにこやかで穏やかな」性格の持ち主であったとされています。

やがて彼女は、当代きっての人気作家でもあったチャールズ・ディケンズのもとで仕事をすることになるのですが、気質の違いもあって、人間関係的には少々複雑なものがあったと言われています。それはともかく、ギャスケルは、そこでいくつもの長編小説に加えておよそ40の短篇小説を書きあげるこになります。イギリスの、今で言うところの女流作家で、短編小説を書いて商業ベースで成功したのは、彼女が最初であるとさえ伝えられています。

彼女の一連の作品群には、ある種の悲哀とともにユーモアも込められており、その人間の欠点をも赦(ゆる)す温かい眼差しがギャスケル文学の醍醐味といってもよいように思われます。リアルな描写の中に独特の味わい見せる彼女の作品は読む者の心に強い印象を残す物語となっています。

ユニテリアンとは、非国教徒であるがゆえに一時期は法的な差別まで受けたという、少数派のキリスト教系信仰者の集団です。総じて、資産家や資本家が多く、決して社会の底辺層を代表するような存在ではないのですが、神によって見守られた人間社会や隣人に対する責任意識が強く、社会貢献に身を捧げることに義務を見出すという市民的な徳性をもっていました。そんな徳性をもった宗派でしたので、社会の不合理な差別や貧困に対しては「良心」と「責務」をもってこれに応えるという意識も強かったのです。

そんなことから、彼女が初めて発表した『メアリー・バートン』も、当時の世界最大の工業都市の一つであるマンチェスターを舞台に、「労働者たちがどう感じ、どう考えているか」をリアルに描いてみせた小説として仕上げられたのでしょう。ギャスケル自身、生涯をかけてイギリスの「貧困問題」から目をそらすことはありませんでした。

その彼女の短篇作の一つに、「異父兄弟」という掌編があります。今日は、この作品を紹介してみたいと思います。短いながらも、ギャスケル文学のエキスがいっぱい詰まった作品となっています。

「異父兄弟」概要

一見、自己犠牲をテーマにした小品とも読めるこの物語には、主人公がたとえ迫害や試練に遭遇しても、人間としての誇りを失うことのない存在として見事に描かれている。そこでは、ユニテリアンらしく、キリストの受難に似せて、困難を「救済」へと導くやさしさが浮かび上がってくる仕立てになっている。それがまた、読む者の共感を誘う物語として迫ってくるのである。兄弟のうち、<兄グレゴリー>は亡くなった母の連れ子で、<私>は、父の再婚相手の男との間に生まれた息子だった。ここでは、以下では、その抜粋要約を記述する。

◇◇◇◇◇

兄のグレゴリーは、私より三つ年上でした。継子である幼い子供が私の母の愛情を求めて自分と争ったという理由で、父は恨みがましそうにグレゴリーを嫌っていました。父はいつも、母が死んだのも、私が生まれながらに虚弱だったのも、彼のせいだと考えていたのではないか、と私はひそかに思っています。

グレゴリーはずんぐりした武骨物で、手を出せば何でも駄目にしてしまうような、不器用で見すぼらしい少年でした。そのため、農場の者たちから事あるごとに罵倒されたり、大目玉を食らったりしていました。

私はといえば、兄を愚弄したり、わざと意地悪なことをした覚えはありませんが、いつも何かにおいて一目置かれ、類まれな才子として特別扱いされるために、横柄にも私はいい気分になっていました。

みんなが兄のことを愚かで間抜けだと言っていたからでしょうか。その愚鈍さは徐々にひどくなって行きました。学校で習ったことを兄に覚えされることは至難の業で、先生は最初こそ叱ったり鞭で打ったりしていましたが、最後はとうとう根負けしてしまい、父に兄を連れ帰ってくれるようにと、そして何とか理解できるような農場の仕事でもやらせてはどうかと言いました。

とはいえ、兄は怒りっぽい人ではありませんでしたし、むしろ辛抱強くて、きわめて善良な性質であり、たとえ叱られたりしても、それが誰であろうと、1分もたたないうちに相手に対して献身的に尽くそうとするのでした。

私自身はどうかと言えば、とても賢い少年だったようです。とにかく、いつも学校ではやんやと持てはやされていましたので、いわゆるお山の大将になっていました。けれども、父は、私に学問をさせる必要性をあまり感じておらず、やがて私を退学させると、自分のそばに置いて農場のことを教えてくれるようになりました。

グレゴリーの方は、老齢でほとんど仕事ができなくなっていたアダム爺さんの訓練を受け、羊飼いのようなものになっていました。実際、このアダム爺さんは、私の兄には優れた才能がある、ただそれをどやって発揮するかがよく分からんのだ、といつも言い張っていました。

ある冬のこと―。

街道を通れば7マイルほどあるものの、丘陵地帯を抜けて行けば4マイルしか離れていない所へ、父の使いで出かけがことがありました。父は私に向かって、行く時はどっちの道を通ってもよいが、帰り道は必ず街道の方から戻るようにと言いました。というのも、冬の夕闇はすぐにやって来るし、深い霧になることがしばしばであったからです。その上、アダム爺さんが、この分じゃあ今日は雪になるなあと言ってもいました。

私は使いの目的地に着き、あっという間に用事を済ませてしまったので、帰りの道を自分の一存で決め、ちょうど夕闇が襲ってくる頃でしたが、闇が来る前にと、丘陵地を通って家路を急ぎました。

夜の闇は私が思っていたよりも速い足取りで迫ってきました。丘陵地には同じ地点から実によく似た道が分岐していますが、この時の私にはもう、そんなものがまったく見えなくなっていました。突然あたりに雪が降りしきり、自分が今どこにいるのか、まったく見当がつなくなりました。

私は徐々に感覚がなくなって眠くなりましたので、時々じっと立ち止まっては叫んでいました。しかし、今、自分が一人さびしく死のうとしていると考えるていると、涙にむせんで声も出なくなりました。私は何か夢でも見ているかのように、自分がたどった人生を妙にまざまざと回想し始めていました。短かった少年時代の様々な光景が、幻のように目の前を通りすぎていくのです。

その時です。突然、叫び声がひとつ聞こえてきたのです。あれは、犬のラッシーが吠えた声だ。気味の悪い、白い顔をした、実に醜い犬で、一つにはそうした欠点のために、一つは兄さんの犬だという理由で、顔を合わせるたびに父から蹴り飛ばされていた犬です。さすがに犬がきゃいーんと悲しい鳴き声を上げたときには、時に父も自分のしたことを恥ずかしく思ったようですが、その自責の念を隠すようにして、今度は、お前のしつけがなっとらんと兄を責め立てたものでした。

確かに! ラッキーの声だ。また聞こえた!

漆黒の闇の中で、灰色の人影の輪郭が次第にはっきりとしてきました。毛織のショールをまとったグレゴリーの姿でした。

グレゴリー兄さんは、私に向かって言いました。

俺たちは体を動かさなくちゃならん、大切な命のために立ち止まってはだめだと。そして何としても家に帰る道を見つけ出さなくちゃならんと。あちこち探し回ったため、兄も道を見失っていたのです。兄さんはラッシーに案内をさせながら、その進んだ方向について行きました。

私には次第に恐ろしい睡魔が忍び寄ってくるのがわかりました。

「これ以上、もう歩けないよ」

とにかく眠りたい。たとえそれ死んだとしてもいいから、眠りたいと思ったのです。

グレゴリー兄さんは、すぐに叫びびました。

「駄目だ、駄目だ!」

そして、歩き出してからちっとも家に近づいちゃいねえ。ラッシーだけが頼りだと言いながら、私に岩陰の下に寝転ぶように進めて、「俺が横に寝て温めてやるよ」と言ったのです。

それから、ラッシーの首にファニー伯母さんが私にくれたハンカチを巻きつけて「急げ、ラッシー!」と大きな声をかけたのです。その醜悪な顔の犬は暗闇の中へ弾丸のように消えていきました。

ああ、これで横になれる! やっと眠れるのだ。兄さんが横で一緒に寝てくれたとき、私はとても嬉しく思い、兄さんの手を握りしめました。

「おまえ、覚えていないだろうなあ、死にかけた母さんのそばで、こいうやって俺たち二人、一緒に横になってたことを。母さん、おまえの、ちっちゃなかわいい手を俺の手に握らせたっけなあー。母さん、今でも俺たちのこと、きっと見ているよ。たぶん、もうすぐ俺たちも、母さんのところへ行けるさ。」

「グレゴリー兄さん」

とつぶやきながら、私はぬくもりを求めて兄さんの方へ身を寄せました。兄さんはまだ話を続けていました。私は眠りに落ちていきました。次の瞬間、大勢の人の声が聞こえ、私は我が家のベッドの上に寝ていたのです。

私の口から最初に出たのは、「グレゴリー兄さんは?」という言葉でした。

ある表情がみんなの顔に次々と浮かびました。父の口はわなわなと震え、いつになく目には涙があふれてきました。

「生きてさえいれば、わしの土地の半分もやったんだのに、ああ、神様! あれの足もとにひざまづいて、わしの心ない仕打ちを赦してくれと頼むことができたら―」

その声を聞きながら、私は再び長い眠り中へと引き戻されていきました。数週間も経ってやっと回復したとき、父の髪の毛は真っ白になっていました。しかし、それ以後、グレゴリー兄さんのことは私たちの間で話題になることはありませんでした。

私にすべとを話してくれたのは、ファニー伯母さんでした。あの運命を決した夜、父は私の帰りが遅いので虫の居所が悪く、いつにも増してグレゴリーに当たっていました。おまえの親父は素寒貧だったとか、おまえのような間抜けに仕事をさせても、何の役にも立ちやしねええ、とか言って、叱り上げていたそうです。

そのとき、グレゴリー兄さんは立ち上がり、口笛を吹いてラッシーを呼びながら、外へ出て行ったということです。

その少し前、父と伯母の間では、私の帰りが遅いことを心配する話が持ち上がっていました。ファニー伯母さんの話によれば、グレゴリー兄さんは嵐が来るのに気づいていたのではないか、それで何も言わずに外に出て、私を迎えに行ったのではないかということでした。

そして、誰でもがあまりに時間が経過するなかで気が動転して右往左往しているところへ、伯母さんのハンカチを首に巻きつけたラッシーが帰ってきたのです。

農場で働く者がすべて狩りだされ、外套、毛布、ブランデー、その他みんなが思いつく物は何でも手に携えて、ラッシーについて行ったそうです。岩陰で、私は冷たくなって眠っていたということでした。私の体には兄さんのチェックの肩掛けがかっかていて、両足は羊飼いが着る厚手の外套で念入りに包まれていたそうです。兄さんの方はシャツ一枚で、腕は私の上に投げかけられ、穏やかな笑みが、その冷たくなった顔に浮かんでいたということです。

◎◎◎◎◎

この短篇には、敬虔なキリスト教徒としての倫理的な教訓が出すぎているようにも思える側面が小さくない。しかし、ある意味で、それ以上に著者自身の人生に深く根付いた、彼女なりの思いがいっぱい詰まった作品であると見ることもできる。

実際、ギャスケルは、母が亡くなった後、一時期、伯母にあずけられるという体験をしているし、また父の再婚で義母との生活を余儀なくされたこともあった。そして先にも紹介したように、何より、兄を早くに亡くしているのである。おそらく、その分、執筆にも強い思いが込められたものとなったのであろう。特に作品の後半には、ぐいぐい人を誘う勢いがある。

こうした短篇では、必ずしも十分に展開されることはないが、ギャスケルの代表的な中長編には、当時の悲惨な生活を伝える詳細な事実を記述したものが少なくない。『メアリー・バートン』では、パン、ミルク、卵の値段まで述べられており、アリスがメアリとマーガレットのためにお茶やバターを購入すると、彼女の半日分の稼ぎが消えることなども綴られている。

マンチェスターストライキ』では、当時のイギリス社会において、生死を分けるほどの貧富の差があり、かつ豊かな者は貧しい者の窮状にはまったく無知で、関心を寄せようともしないことを伝えている。ギャスケルは、それを主人公のジョン・バートンを通して見事に描き出している。読者はそこに、事実を冷静に観察する眼とそれらを眺める優しい眼差しとが、ギャスケル文学をより深く、より豊かにさせていることを知ることであろう。