清聴登場

映画・社会・歴史を綴る

ヘルンさんの「日本昔ばなし」

小泉八雲という人のことは、多少は知っているでしょう。子供の頃に、「耳なし芳一」や「のっぺらぼう(むじな)」の話、あるいは日本の怪談でも最も有名な説話の一つ「雪女」の物語なら、一度は聞いたことがあるに違いありません。

たぶん、そのいくつかはTBS系のテレビアニメ作品として放映された『日本昔ばなし』でも紹介されているに違いありません。市原悦子常田富士男の名コンビが声優として、日本中の子どもたちや大人たちの心を鷲づかみにしたアニメ番組のことです。

けれども、この小泉八雲という人は、実は日本人などではなく、そもそもはイギリス人の父とギリシア人の母との間に生まれた、明治の外国人教師だった人です。外国人教師としては最後に今の東京大学早稲田大学の英語の先生にもなる人物ですが、初めはわけあって、出雲の国、今で言うと、島根県松江市の中学校と県立高等学校の先生になった人です。イギリスを離れて、移民船でアメリカに身一つで渡ったあと、あれこれと人生の悲哀を体験した後、週刊誌や雑誌記者を経て、遠い東洋の国にやってきたのです。

本名は、ラフカディオ・ハーン。その人が日本人の武士の娘と一緒になって、戸籍上の都合からも小泉八雲という日本名を使うことになったのです。

ハーンは、英語とフランス語を使いこなす、文学的才能豊かな、記者と翻訳家を兼ねた経歴の持ち主ですが、日本語は話せませんでした。では、どうやって、日本の昔話に精通するようになったのでしょうか。それは、妻となった日本人女性セツの話を、かなり簡素にかみ砕いた奇妙な日本語で聞いて、あとは持ち前の文学的想像力で「日本の民話」のように書き上げたのです。

書き上げたといっても、実際にはすべて英語で書いたのです。ですから、明治・大正初期の頃にハーンの民話作品を呼んだ人は、英文を読んでいたことになります。例えば、芥川龍之介のような知識人が読んで、知っていただけだったのです。それが日本語に訳されたのはもっと後になってからのことでした。

何だか、変な感じですね。「日本の民話」として知られている作品が、実は最初は英語で書かれていて、それをさらに日本語に翻訳されて、日本の子どもたちに読み伝えられたというわけですから。しかも、どれもハーン自身の創作の手に作られているので、もともとは日本の民話集にも無かったものも少なくないのです。えらい学者の方があれこれと調べてみたものの、日本の中にも、ずばりオリジナル作品と呼べるものはさして多くはなく、つい戸惑うくらいです。

という訳で、これは日本の民話そのもの翻訳でもなく、今では語り継がれてきた逸話をハーン自身が新たに創作した「再話」であるとの結論になっています。

ちなみに、英語が分からない妻セツと異国人のハーンは、一体、どんな日常会話をしていたのでしょう。想像するだけでもワクワクするような話です。そもそもセツは、この奇妙な「訪問者」のことをどう呼んでいたのでしようか。彼女は、自分の夫を「ヘルンさん」と声をかけていたのです。

西欧人らしく鼻は高いが、少々背が低く、片目の不自由な猫背の小男が残した「再話」には、どういう訳か、「日本の心」がいっぱい詰まっているのが真に不思議に思える作品がたくさん残されています。

本日は、あまり日本語訳の作品集にも載っていない一話を紹介することにしますので、よくご覧あれ。

 

鳥取の布団の話

明治24(2011)年8月14日から29日にかけて日本海に沿って旅した時、妻の節子(セツ)が同行した。その時、節子がハーンに語って聞かせた話がこれから話題とする『鳥取の布団の話』である。これこそハーンが節子の口から聞いた最初の日本の民話であった。その話を聞いたハーンは、「あなたは私の手伝いを出来るご仁です」と言って非常に喜んだという。

その『鳥取の布団の話』とはこうである。

◇◇◇◇◇

宿屋が店開きをして最初の客を泊めた。一眠りしたと思うと、子供の声で目を覚ました。

「兄さん、寒かろう?」

「お前、寒かろう?」

客は子供たちが自分の部屋に迷い込んだと思い、おだやかにたしなめた。暫くの間は黙ったが、また優しくかぼそい、歎くような声が、耳もとで「兄さん、寒かろう?」「お前、寒かろう?」と繰り返した。

行燈をつけたが、誰もいない。行燈をともしたまま、また横になると、消え入るような声で繰り返した。その時はじめて客の背筋を寒気が走った。何度も繰り返し同じ事を言う。そのたびに恐ろしさがつのった。声はほかならぬ自分の掛布団の中から出て来る。

階段を降り、宿屋の主人を起し、いましがた起こったことを主人に告げた。主人は「夢でもみたのでしょう」ととりあわない。だが客は宿代を払って別の宿へ行ってしまった。翌日の夕方、別の客が来て泊まった。夜更けて主人は客に起こされた。またも同じ話である。

主人は、布団を自分の部屋に持ち込んで一夜を明かした。日が出ると布団を仕入れた布団屋に行って由来を尋ねた。

《その家族が住んでいた小家の家賃は月に60銭だった。その額さえも貧乏家族には相当の負担だった。父親が稼げる額は月に2円か3円で、母親は病気で仕事が出来なかった。家には二人の男の子がいた。6歳の子と8歳の兄である。鳥取に身寄りはいなかった。

 ある冬の日、父親は病気になり、1週間ほど病んで亡くなった。すると母親もその後を追い、子供は二人きりとなった。助けを乞える人もいない。売れるものはすべて売った。

 毎日なにかを売っていくうちについに布団一枚しか残らなくなった。食べるものもなくなり、家賃は払うに払えない。大寒がやって来た。雪が降り積もって家から外に出ることも出来ない。それで二人は一枚の掛布団の下に寝て、たがいに子供らしくいたわりの声をかけあったのである。

 「兄さん、寒かろう?」

 「お前、寒かろう?」

 家には火はなかった。火を起すものもなかった。暗い夜が来て、氷のような風が小家の中をひゅうひゅうと吹き抜けた。

 子供たちは風をおそれた。だが風以上に家主をおそれた。家主は子供たちを起すと、家賃を払え、と乱暴な口調で言った。邪慳な男で、金目のものがもう無いと知ると、子供たちを雪の中に追い出し、二人からその一枚の布団を取り上げ、家に鍵をかけてしまった。

 二人とも薄い紺の着物を一枚着たきりだった。他の衣類は食物を買うために売り払ってしまったからである。行く当てってなかった。ほど遠くないところに観音寺があったが、雪が積もって行くことも出来ない。それで主人が去ると兄弟は家の裏手にこっそり舞い戻った。そこで寒さのあまり眠くなり、互いに暖をとるために抱きあったまま寝込んでしまった。そして二人が眠っている間に、神様が二人に新しい布団を掛けてくれた―霊妙なほど白くたいへん美しい布団であった。二人はもはや寒さも感じなかった。》

こうして事情を知った宿屋の主人が、お寺の和尚に布団を寄進し、子供たちの霊のための供養を願い出た。すると布団は語ることを止めた、という。

◇◇◇◇◇

ーこの「鳥取の布団の話」には、別のエピソードが語られている。

八雲とセツが止まった宿でのエピソードを、彼自身次のように記している。

◎◎◎◎◎

小柄な中年の女中がひときわきれいな声で「ご夕飯の時間です」と、私たちにお給仕をしに来た。二十年前の既婚女性の風習に倣い、その女中は歯にお歯黒を塗り、眉を剃っている。それでも愛らしい顔立ちで、若い頃はさぞかし美人だったにちがいない。女中の仕事をしているが、その女はこの宿の主人とは親戚らしく、それなりの待遇を受けている。その女中の話によると、さっきの精霊船は、彼女の夫と弟のために流すものだという。ふたりともこの村の漁師で、8年前に家を目前にしながら遭難してしまったらしい。………。

この話をとつとつと語り終える頃には、彼女の目頭から涙がこぼれ落ちていた。すると急に、女中は畳に頭をつけて一礼し、袂で涙を拭い、お恥ずかしいところをお見せしました、と丁重に詫びて微笑した。あの日本人の礼儀に欠かせない穏やかな微笑みに、私は正直言って、話以上に胸を打たれたのであった。

ちょうどそのとき、日本人である私の連れが、うまく話題を変えてくれた。私たちの旅のことや、うちの旦那様は海辺の古い風習や言い伝えなどに興味がありまして、などと軽い談笑を始めたのである。こうして、私たちの出雲を巡る道中記などについて話を交わし、彼女の心をほぐすことができた。

女中は私たちに、これからどちらへお出になられるのかと尋ねた。私の連れは、おそらく鳥取まで足をのばすことにと答えた。

「まあ、鳥取! そうでございますか? そこには『鳥取の布団』という古い話がございますが、旦那様はご存じですか?」

実のところ、「旦那様」はその話を知らなかったので、ぜひとも聞きたいと(セツが)せがんだ。 [以下、「鳥取の布団」の話が続く。]